心中と切腹(PART 2 OF 3)
切腹
社会派映画の巨匠、小林正樹が監督した初の時代劇映画である。
武家社会の虚飾と武士道の残酷性などの要素をふんだんに取り入れた、かつて日本人が尊重していたサムライ精神へのアンチテーゼがこめられた作品である。
数々の賞を受賞しており、1963年にカンヌ国際映画祭で審査員特別賞、第13回毎日映画コンクールでは日本映画大賞・音楽賞・美術賞・録音賞を受賞した。
また、ブルーリボン賞においては脚本担当の橋本が脚本賞、主演を演じた仲代が主演男優賞を受賞した。
さらに『キネマ旬報』においてはその年のベスト3に入賞するなど、作品、製作者、出演者ともに高い評価を受けた。
あらすじ
寛永7年5月13日。一人の食い詰めた老浪人が井伊家の屋敷を訪ねた。
浪人の名は、津雲半四郎。
半四郎は井伊家の家老である斎藤勘解由に、仕官先もままならず、生活も苦しくなったので屋敷の庭先を借りて切腹したいという申し出であった。
これは、当時食い詰めた浪人のたかりであった。
勘解由は、先日も同じような事を申し出て若い浪人が訪ねてきて屋敷の庭先で切腹したのを思い出した。
さっそく切腹の準備にとりかかるが、切腹する直前、半四郎は介錯人として沢潟、矢崎、川辺の3名を指名する。
しかし、指名された3人は奇怪なことに全員病欠であった。
それを聞いた半四郎の口から語られたのは、恐るべき衝撃的な真実であった。
それは、いかに武家の社会やそれを重んじる精神が暴虐極まりない上辺だけを取り繕った、見せかけのものにすぎないか、というものだった…。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(中略)
要するに、寛永7年も、そのような太平な時代だったとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?
そうですよう。 もう街中でチャンバラする人なんて、めったに居なかった。 でもねぇ、仲代達矢さんが扮する主人公の津雲半四郎は浪人ですよう。 つまり、仕事にあぶれた無職です。 関が原の合戦で敗れた藩の武士は浪人にならなければならなかったわけで、津雲半四郎も、そのような浪人の一人だった。
仕事に就けばよいではござ~♪~ませんか!?
あのねぇ~、当時の江戸幕府は日本全国に鎖国令を布(し)いていたから、仕事を増やして製品を作って海外に輸出するというわけには行かなかった。1975年当時の日本のように経済大国を目指す事は不可能だった。 しかも、武士だから表向き町人のような仕事をするわけにもゆかない。
要するに、浪人者は現在のホームレスのような存在だったのでござ~♪~ますか?
早い話が、そのような境遇だったのですよ。 でもねぇ、津雲半四郎は借家に娘夫婦と孫と4人で暮らしていた。娘・美保の婿が千々岩求女(ちぢいわ・もとめ)という若者です。主君に殉死した半四郎の親友の忘れ形見だった。
つまり、美保さんと求女(もとめ)さんは幼馴染(おさななじみ)だったのでござ~♪~ますわね?
そうなのですよう。 こうして幸せな時期もあったのですよう。 岩下志麻さんが美保に扮しているのです。
デンマンさんは岩下志麻さんのファンなのですか?
いや。。。熱烈なファンではないけれど、なかなか見応えのある演技をする人だと思いつつ感心して見ていましたよう。
『天下太平の切腹』より
(2010年11月23日)
これだけ長々と引用してデンマンさんは、いったい何がおっしゃりたいのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~。。。僕は『切腹』を見た後で、同じ日か? あるいは別の日か? やはり岩下志麻さんが出演した『心中天の網島』を観たのですよう。
つまり、2本の映画はトロント大学で行われた「日本映画を観る夕べ」というイベントで上映されたのですか?
これまで、僕の記憶では、その事があやふやだったのですよう。 でもねぇ、2つの映画の内容を改めて考えてみると、この2本の映画は同じイベントで上映されたと思わざるを得ないのですよう。
どうして。。。?
まず、どちらも江戸時代という封建社会が舞台になっている。 『心中天の網島』については、前にも記事で取り上げたことがあるのですよう。 初めて読む人も居るだろうから、手間を省くためにここに書き出します。 卑弥子さんも読んでみてくださいね。
心中天網島
(しんじゅうてんのあみじま)
紙屋の治兵衛は二人の子供と女房がありながら、曽根崎新地にあった当時の高級クラブ「紀伊国屋」の遊女(高級ホステス)小春とおよそ三年にわたる馴染み客になっていた。
小春と治兵衛の仲はもう誰にも止められぬほど深いものになっており、見かねた店の者が二人の仲を裂こうとあれこれ画策する。
離れ離れになるのを悲しむ小春と治兵衛は二度と会えなくなるようなら、その時は共に死のうと心中の誓いを交わした。
ある日小春は侍の客と新地の「河庄」(別の高級クラブ)にいた。
話をしようにも物騒な事ばかりを口にする小春を怪しみ、侍は小春に訳を尋ねる。
小春は「馴染み客の治兵衛と心中する約束をしているのだが、本当は死にたくない。だから自分の元に通い続けて治兵衛を諦めさせて欲しい」と頼む。
開け放しておいた窓を閉めようと小春が立った時、突然、格子の隙間から脇差が差し込まれた。
それは小春と心中するために脇差を携え、店の人々の監視を掻い潜りながらこっそり「河庄」に来た治兵衛だった。
窓明かりから小春を認めた治兵衛は窓の側で話の一部始終を立ち聞きしていたのだ。
侍は治兵衛の無礼を戒めるために治兵衛の手首を格子に括り付けてしまう。
すると間が悪いことに治兵衛の恋敵である伊丹の太兵衛が「河庄」に来てしまう。
治兵衛と小春を争う太兵衛は治兵衛の不様な姿を嘲笑する。
すると治兵衛を格子に括った侍が今度は間に入って治兵衛を庇い、太兵衛を追い払った。
実は武士の客だと思ったのは侍に扮した兄の粉屋孫右衛門だった。
商売にまで支障を来たすほど小春に入れ揚げている治兵衛に堪忍袋の緒が切れ、曽根崎通いをやめさせようと小春に会いに来たのだった。
話を知った治兵衛は怒り、きっぱり小春と別れる事を決めて小春から起請文を取り戻した。
小春はもう治兵衛と縁を切る気持になっていた。
嫌いになったのではない。
治兵衛の妻おさんから「どうか夫の命を救って下さい」と身を案じる手紙を内々に受け取っていたからだ。
おさんは2人の関係を知っていて、心中されることを恐れていたのだ。
小春は別れることで治兵衛の命を救うことにする。
彼女は治兵衛に理由を話さず「心中が嫌になった」とだけ告げた。
突然の心変わりが理解できず「この裏切り者!」と治兵衛は激しく罵るのだった。
彼はまた、人づてに成金の太兵衛が小春の身請け(遊女を店から大金で買って自由にすること)を狙っていると聞いてパニックになる。
それから10日後、きびきびと働く妻のおさんを見ながらも治兵衛はどうにも仕事に精が出ず、炬燵に寝転がってばかりいた。
その時、治兵衛の叔母と孫右衛門が小春の身請けの噂を聞いて治兵衛に尋問しに紙屋へやって来た。
ここ10日間、治兵衛は何処にも行っていない、身請けしたのは恋敵の太兵衛だという治兵衛とおさんの言葉を信じ、叔母は治兵衛に念のため、と起請文を書かせると安心して帰っていった。
しかし叔母と孫右衛門が帰った後、治兵衛は炬燵に潜って泣き伏してしまう。
心の奥ではまだ小春を思い切れずにいたのだ。
そんな夫の不甲斐無さを悲しむおさんだが、「もし他の客に落籍されるような事があればきっぱり己の命を絶つ」という小春の言葉を治兵衛から聞いたおさんは彼女との義理を考えて太兵衛に先んじた身請けを治兵衛に勧める。
おさんは自分が出した手紙のことを正直に話し、「小春さんを死なせては女同士の義理が立たない」と治兵衛に語る。
商売用の銀四百匁と子供や自分のありったけの着物を質に入れ、小春の支度金を準備しようとするおさん。
しかし運悪くおさんの父・五左衛門が店に来てしまう。
日頃から治兵衛の責任感の無さを知っていた五左衛門は直筆の起請文があっても治兵衛を疑い、おさんを心配して紙屋に来たのだ。
当然、父として憤った五左衛門は無理やり嫌がるおさんを引っ張って連れ帰り、親の権利で治兵衛と離縁させた。
おさんの折角の犠牲も全て水の泡になってしまったのだった。
望みを失った治兵衛は虚ろな心のままに新地へ赴く。
小春に会いに来たのだ。
別れた筈なのにと訝しがる小春に訳を話し、もう何にも縛られぬ世界へ二人で行こうと治兵衛は再び小春と心中する事を約束した。
小春と予め示し合わせておいた治兵衛は、蜆川から多くの橋を渡って網島の大長寺に向かう。
そして1720年10月14日の夜明け頃、二人は俗世との縁を絶つために髪を切る。
「同じ場所で死んではおさんさんへ義理が立たないので、離れた場所で死にましょう」と小春は言う。
治兵衛は小春の喉首を刺し、自らはおさんへの義理立てのため、付近の水門で首を吊った。
1969年(昭和44年)には、篠田正浩監督により映画化された。
治兵衛には二代目中村吉右衛門、おさんに岩下志麻を起用し、通常の劇映画と異なる実験的な演出で、人形浄瑠璃や歌舞伎の雰囲気を色濃く漂わせる作風となっている。
デンマン注: 写真はデンマン・ライブラリーより選んで貼り付けました。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『本音と小百合さん』に掲載
(2008年1月11日)
つまり、どちらも江戸時代に起きた事件を基にして、井伊家事件は小林正樹監督が映画に。。。、そして、天の網島の心中事件は、すでに江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎になり。。。、さらに 1969年(昭和44年)には、篠田正浩監督によって映画化されたと、デンマンさんはおっしゃりたいのでござ~♪~ますか?
もちろん、そう言う事なのだけれど、それ以外にも『切腹』と『心中天網島』が「日本映画を観る夕べ」で共に上映された理由があるのですよう。
どのような。。。?
ちょっと次の小文を読んでみてください。
(すぐ下のページへ続く)