坊っちゃんとチンドン屋(PART 1)
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デンマンさん。。。 あんさんは坊っちゃんとチンドン屋という けったいなタイトルを付けはりましたけど、どないなつもりやのォ~?
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あきまへんかァ~。。。
かめへんけど、どないなわけで、けったいなタイトルを取り上げはったん?
実は、ライブドアの わての『徒然ブログ』のアクセス解析を見ていたら次のリストに出くわしたのやがなァ~。。。
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■『拡大する』
■『坊っちゃんと敬語』
これは わての『徒然ブログ』の日本時間の7月4日の午後9時26分から5日の午前2時44分までの約5時間の「生ログ」の一部やねん。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。。。
あらっ。。。 日本時間の7月4日の午後9時33分にスマホで検索して『坊っちゃんと敬語』を読みはったのやねぇ~。。。
そういうことやんかァ~。。。 実は、韓国の梁山市に住んでおる 李恩宙 (イ・ウンジュ)さんが読みはってん。。。
また、あんさんはIPアドレスを調べやはったん?
そういうことやァ~。。。
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あらっ。。。 上の写真の女性が李恩宙 (イ・ウンジュ)さんやのォ~?
そういうことやがなァ~。。。
あんさんのブログにやって来る女性は、どないなわけで美人が多いのォ~?
めれちゃんが美人やさかいに、美人がようけい集まるのやがなァ~。。。 うへへへへへへへ。。。
そないに、鼻の下を伸ばさんでもええねん。。。 そいで、リファラの URL をクリックすると どないな検索結果が出てきよるのォ~?
次のような結果が表示されるねん。。。
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■『拡大する』
■『現時点での検索結果』
あらっ。。。 「いろんなチンドン屋を見かけたけど」を入れて検索しやはったのねぇ~。。。
そういうこっちゃがなァ~。。。
。。。で、どないなわけで李恩宙 (イ・ウンジュ)さんは、あんさんの記事を読みはったん?
実は、イ・ウンジュさんが釜山大学校の人文大学で日本文化と日本語を専攻しておるねん。。。
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イ・ウンジュさんの卒論のテーマが「日本文化におけるチンドン屋の出現と衰退」と言うねん。。。
そいで、「いろんなチンドン屋を見かけたけど」と入れて検索しやはったん?
そういうことやがなァ~。。。 イ・ウンジュさんの親戚が下関に住んでおったのやァ。。。 子供の頃にチンドン屋を見かけたことがたびたびあった。。。
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それで、イ・ウンジュさんはチンドン屋のことで卒論を書こうと思い立ったわけやねん。。。
。。。で、あんさんの記事のどこに興味を持ちはったん?
次の箇所やんかァ~。。。
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敬語がいかに人間関係を難しくしているかを、あるフランス語の(日本人の)教授のエッセイが如実に示していた。
教授が授業を終えて教室を出た時、入り口で待っていた学生に呼び止められ、何かパンフレットのようなものを見せられて「これを訳してもらいたいんだけど」と言われた。
教授はそのものの言い方にむっとしたと書いている。
そしてよくみると、女性の避妊具の説明書きであった。
医者のところに行って相談しなさいぐらいに言ってその場を去ったと書いていた。
とにかくこの頃の学生の言葉遣いや態度に呆れたというのだ。
これを私はアメリカ人の夫に英語に訳して聞かせた。
彼は「なんと若者に不親切なんだろう。 若者に分からないことを教えてやるのが先輩としての義務ではないか」と言ったのだ。
つまり、英語には敬語がないからこの教授が失礼だと怒っている理由が分からないのだ。
日本では真実に入る前にこの敬語で人間関係を壊してしまう。
両者にとって不幸なことである。
永年アメリカで英語の生活をしていると、日本に帰った途端にこの人は私の上か下かと地位を考えねばならず、それが脳を充たし、肝心の重要な真実を、どこの世界にも通じる倫理的思考を、考えるスペースが脳からなくなってしまうように感じる。
人間は平等でないと真実を追究できないのではないかと思うようになった。
ことに自然科学分野では上下関係は有害である。
日本語は要らないことにエネルギーを消耗させている。
そして、それが美であるというまやかしをベールとして、日本人は騙されているのである。
(赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストと動画はデンマン・ライブラリーより)
154-155ページ
『なんや、これ? (アメリカと日本)』
著者: 米谷ふみ子
2001年6月5日 第2刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店
このエピソードを見る限り敬語に対する中年の教授と女子大生の考え方は喰い違ってるねん。 女子大生が教授を見下したり、馬鹿にしたようには思えん。 それにもかかわらず敬語を使わなかったというだけで教授はムカついている。
そやけど、若い女子大生といえども常識的な敬語の使い方ぐらい知っているべきやと私は思うわ。
その常識かて敬語と同じやァ。。。時代と共に変わってゆくのやでぇ~。。。腰巻や、ちょんまげは江戸時代には常識やったのやァ。 今時、そないな物を身に着けていたら、チンドン屋と間違われてしまうでぇ~。。。そのチンドン屋も、わての子供の頃には行田市でも、よう見かけたけど最近、帰省しても全く見かけんようになってしもうたのやァ。 常識も変わる、時代も変わる、敬語も変わるものなんやァ。。。ただ、心だけは変わらへん。 そやから、アメリカ人である米谷さんの夫は、敬語抜きで教授と女子大生のやり取りを読んで、教授が不親切やと思うたのやないかいな。 それが変わらぬ心というものやんかァ。 日本語にあるような複雑な敬語を知らないアメリカ人の目から見たら、教授が女子大生の質問に対して誠意を持って答えるのが当たり前やァ。
そうやろか?
そうやァ。。。ところが日本人は敬語にこだわる人が居る。 草柳さんも、そのうちの一人やァ。 それで次のようなことも言うている。
敬語はそれが意識されずに語られたり書かれたりすると、まるで生命(いのち)あるもののように、いきいきとしたり、冴(さ)えわたったりするようである。
その心地よさ、おもしろさを味わって頂こうと、日本の名作八篇から素敵に運ばれている会話の部分を収録した。
「素敵」の条件は、会話の中の言葉がその位置にふさわしいこと、短切(たんせつ)な表現なのに過不足なく意味と情感を伝えていること、一人の話にリズムがあって、しかも二人の会話にひびきあうものがあること、以上の四つである。
(中略)
夏目漱石の作品からは明治・大正の会話を選んだ。
昭和の言葉の基礎になっているからそれほど大きな違いはないが、それでも言葉の響きの微妙な違いが聞き取られると思う。
『坊っちゃん』では、清(きよ)という、“ばあや”の言葉を伝えている。
わずかに江戸時代の武家言葉が残っているのではないだろうか。
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(赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)
182-183ページ
『きれいな敬語 羞(はず)かしい敬語』
著者: 草柳大蔵
2002(平成14)年3月1日 第5版発行
発行所: 株式会社 グラフ社
その例として次の『坊っちゃん』が紹介されてるう。
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清はおれがうちでも持って独立したら、一所(いっしょ)になる気でいた。
どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。
おれも何だかうちが持てるような気がして、うんおいてやると返事だけはして置いた。
ところがこの女は中々想像の強い女で、あなたはどこが御好き、麹町ですか麻布ですか、御庭へぶらんこを御こしらえ遊ばせ、西洋間は一つで沢山ですなどと勝手な計画を独りで並べていた。
(略)
そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。
すると、あなたは慾がすくなくって、心が綺麗(きれい)だと云(い)って又賞(ほ)めた。
清は何と云っても賞めてくれる。
(略)
愈(いよいよ)約束が極(き)まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。
おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃん何時(いつ)家(うち)を御持ちなさいますと聞いた。
卒業さえすれば金が自然とポケットの中に湧(わ)いて来ると思っている。
そんなえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのは愈馬鹿げている。
おれは単簡(たんかん)に当分うちは持たない。
田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子(ようす)で胡麻塩の鬢(びん)の乱れを頻(しき)りに撫(な)でた。
余り気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。 来年の夏休みにはきっと帰る」と慰めてやった。
それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴(ささあめ)が食べたい」と云った。
越後の笹飴なんて聞いた事もない。
第一方角が違う。
(略)
出立(しゅったつ)の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。
(略)
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車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もう御別れになるかも知れません。 随分御機嫌よう」と小さな声で云った。
目に涙が一杯たまっている。
おれは泣かなかった。
然(しか)しもう少しで泣くところであった。
汽車が余(よ)っ程(ぽど)動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。
何だか大変小さく見えた。
(略)
それから二 三日して学校から帰ると...清からの便りだ。 ...坊っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうかと思ったが、生憎(あいにく)風邪を引いて一週間ばかり寝ていたものだから、つい遅くなって済まない。
その上今時の御嬢さんの様に読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのに余っ程骨が折れる。
甥に代筆を頼もうと思ったが、折角(せっかく)あげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下たがきを一返(いっぺん)して、それから清書をした。
清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。
読みにくいかもしれないが、これでも一生懸命にかいたのだから、どうぞ仕舞いまで読んでおくれ。
(略)
おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分からないから、私儀都合有之(これあり)辞職の上東京へ帰り申候(もうしそろ)につき左様御承知被下度(くだされたく)候以上とかいて校長宛(あて)にして郵便で出した。
(略)
清の事を話すのを忘れていた。
---おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄(かばん)を提(さ)げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰ってきて下さったと涙をぽたぽたと落とした。
おれも余り嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄(がいてつ)の技手になった。
月給二十五円で、家賃は六円だ。
清は玄関付きの家でなくっても至極満足な様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹(かか)って死んでしまった。
死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんの御寺へ埋めて下さい。
御墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。
だから清の墓は小日向(こびなた)の養源寺にある。
(赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真とイラストはデンマン・ライブラリーより)
『坊っちゃん』
著者: 夏目漱石
新潮文庫 2001年刊
「敬語はそれが意識されずに語られたり書かれたりすると、まるで生命(いのち)あるもののように、いきいきとしたり、冴(さ)えわたったりする」 マジで、その通りやと、わても思うねん。 つまり、上の『坊っちゃん』の二人の会話が「いきいきとしたり、冴(さ)えわたっ」ているのは、もうすでに読み手の心に敬語が意識されてないからやないかいなァ! この上の部分を敬語を全く使わずに英語に訳しても、坊っちゃんとお清さんの心の交流は間違いなくアメリカ人にもカナダ人にも伝わる。
そうやろかァ?
第一、わては上の文章を読んで、敬語が全く日本語に溶け込んでいるので、どれが敬語なのか?と考える気にもならへんかった。 つまり、坊っちゃんとお清さんの心の交流は敬語を越えている。 だから、敬語を意識しなくても、すんなりと読めるのやないかいなァ! 敬語が重要なのではなくて、心の交流が大切なのやがなァ~。
『坊っちゃんと敬語』より
(2012年3月2日)
上の箇所を読みはって李恩宙 (イ・ウンジュ)さんは感銘を受けたのやがなァ~!
どこに感銘を受けはったん?
めれちゃん! 解りきったことを訊いたらあかんでぇ~。。。 もちろん、「敬語が重要なのではなくて、心の交流が大切なのやがなァ~」というところやんかァ~。。。
そやけど、チンドン屋と関係あらへん。。。
あのなァ~、めれちゃん! イ・ウンジュさんは、この部分を読みはって十分に満ち足りた気持ちになりはってん。。。 それで、また卒論に向かいはったのやでぇ~。。。
ホンマかいなァ~?
昔の人は“信じる者は救われる!”と言うたのやァ~。。。 そやから、めれちゃんも わての言うことを信じて、救われてハッピーになったらええねん。。。
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(すぐ下のページへ続く)