イタリアの空の下 (PART 1)
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デンマンさん。。。 どういうわけでイタリアの空の下というタイトルにしたのですかァ~?
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小百合さんはイタリアに行きたいとは思わないのですかァ~。。。
あらっ。。。 デンマンさんが連れて行ってくれるのですか?
小百合さんが夏休みにイタリアに行くばいいではありませんかァ。。。 ローマかミラノで1週間ばかり過ごして、それから大西洋を越えてバンクーバーにやって来るのですよ。。。 どうですか?
つまり、そのために、イタリアを取り上げたのですか?
そう言いたいところなんだけれど、実は違うのですよ。。。 ちょっと次のリストを見てください。。。
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■『拡大する』
■『ウィーンの空の下で』
これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で7月19日の午後11時15分から 20日の午前2時49分までの約2時間半の「生ログ」の一部です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。。。
あらっ。。。 7月20日の午前0時29分にフランスのGOOGLEで検索して『ウィーンの空の下で』を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。
そうなのですよ。。。 実は、イタリアのミラノに住んでいる三浦 玲奈 (みうら れいな)さんが読んだのです。。。
また、IPアドレスを調べて、玲奈さんが読んだと突き止めたのですか?
そうです。。。
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あらっ。。。 この上の写真の女性が三浦 玲奈 (みうら れいな)さんですか。。。 デンマンさんの『徒然ブログ』にアクセスする女性は、どういうわけで美人ぞろいなのですか?
ジューンさん、ジュンコさん、それに小百合さんという美人がそろっているので、どうしても美人が安心してアクセスするのですよ。。。
信じられませんわ。。。 それで、玲奈さんはミラノで何をしているのですか?
実は、ミラノ大学でコンピューター・グラフィック・デザインの勉強をしているのですよ。。。
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でも。。。、でも。。。、イタリアのミラノに住んでいるのに、どういうわけでオーストリアの『ウィーンの空の下で』を読んだのですか?
確かに、小百合さんがそういう疑問を持つのも、もっともですよ。。。 でもねぇ~、玲奈さんが検索した画面を見ると納得が行くのですよ。。。
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■『拡大する』
■『実際のページ』
あらっ。。。 「イタリアの空の下 徒然ブログ」と入れて検索したのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。 玲奈さんは「徒然ブログ」の常連さんなのですよ。。。
ちょっとでき過ぎていると思いますわ。。。 それに、イタリアに住んでいるのに、どういうわけでフランスのGOOGLEで検索する必要ががあるのですか?
あのねぇ~、よくあることですよ。。。 玲奈さんはこの記事を読む前に次の記事を読んだのです。。。
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■『パリの日本人』
この上の記事の中にフランスのGOOGLEで検索した結果が出てくるのです。。。
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■『拡大する』
■『Notre Dame』
■『現時点での検索結果』
玲奈さんは『現時点での検索結果』をクリックして、現時点での検索結果を見たのですよ。。。
。。。で、そのままの検索ページを使って「イタリアの空の下 徒然ブログ」と入れて検索したのですか?
そういうことです。。。 小百合さんは信じられないのですか?
。。。で、『ウィーンの空の下で』を読んで、玲奈さんは夏休みにウィーンに行くつもりなのですか?
いや。。。 「イタリアの空の下」を入れて検索したほどだから、当然イタリアを旅行するつもりなのですよ。。。
イタリアのどこに行こうとして『ウィーンの空の下で』を読んだのですか?
実は、玲奈さんはトリエステに行くつもりなのです。。。 それで、次の箇所に興味を持ったのですよ。
あのねぇ、トリエステという町は、昔はオーストリア領だったのですよう。
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あらっ。。。そうだったのでござ~♪~ますか?でも、トリエステの隣の国はスロベニア(Slovenia/Slovenija)と書いてござ~♪~ますわ。
その国もかつては、オーストリア領だったのですよう。
オーストリアって昔は大きな国だったのでござ~♪~ますか?
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1800年代の初頭にはイタリア北部も領土の一部だった。当時はオーストリア・ハンガリー帝国(Austro-Hungarian Empire)と呼ばれた強大な国だったのですよう。
それで、トリエステは今でもウィーンの影響を受けているのでござ~♪~ますか?
受けているのですよう。須賀敦子さんの本にも次のように書いてありますう。
ウィーンとトリエステ
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ユーゴスラヴィアの内部に、細い舌のように食い込んだ盲腸のようなイタリア領土の、そのまた先端に位置するトリエステは、先史時代から中部ヨーロッパと地中海沿岸の諸地方を結ぶ交通の要所だった。
というのも、紀元前二千年すでに、バルチック海沿岸の琥珀をギリシアやエトルスクの諸都市に運ぶ、「琥珀の道」と呼ばれた商業路のひとつが、トリエステを通過していたといわれる。
さらに中世以来、オーストリア領となり、地中海に面した帝国の軍港として栄え、十八世紀から十九・二十世紀にかけては商港として繁栄の頂点をきわめた。
とはいっても、言語的にいうと、トリエステ人の多くは、ローマ時代このかた(この地方がヴェネツィア・ジュリアと呼ばれるのは、ジュリアス・シーザーの覇権がおよんだ土地を指すからだ)、イタリア語の方言を話し、ドイツ語を話しても、自分たちをイタリア民俗と考えてきた。
そのため、とくに支配層に属さない大多数のトリエステ人にとって、イタリア統一運動がさかんになった十九世紀末には、一日もはやくオーストリアの隷属から開放され、イタリアに帰属することが精神の支えになった。
じっさいにイタリア領になったのは第一次世界大戦のあと、1919年のことで、解放運動では多くの犠牲者を出している。
だが、皮肉なことに、トリエステのイタリア復帰論者が念願をはたしたのを境として、この都市は経済的に行きづまり、ながい下降線をたどることになる。
地中海にいくつものすぐれた港をもつイタリアの領土になってからは、港湾都市としてのトリエステの存在意義は根底から揺さぶられ、イタリア東端の都市という空虚な政治的意味だけしか持つことができないのだ。
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文化の面からいっても、トリエステは特異な都市といえる。
ドイツ語文化圏との精神的なつながりを全面的に断ち切るにはいたらず、トリエステ人は尊敬と憧れと憎しみの入り組んだ感情で、これもすでに過去のものとなったウィーンの文化や人々を眺めている。
北の国々とのつながりをもつことが、この町にとっては精神的にも死活の問題であるのに、言語的=人種的には、たえずイタリアにあこがれるという二重性がトリエステ人のアイデンティティー感覚をたぐいなく複雑にしている。
(pp.15-17)
『トリエステの坂道』 著者・須賀敦子(すが あつこ) みすず書房
1996年5月20日 第4刷発行
【デンマン注】
読み易いように改行をたくさん加えました。
また、注意を促すために赤字・青字で強調した箇所があります。
しかし、文章自体には手を加えていません。
上の写真は本の中にはありません。僕が加えたものです。
。。。んで、デンマンさんはジューンさんとウィーンへ行ったついでに足を伸ばしてトリエステにも行ったのでござ~♪~ますか?
そうです。
ジューンさんも、ご一緒だったのでござ~♪~ますか?
実は、ジューンさんと一緒にトリエステを訪ねてみたかったのですよう。
つまり、デンマンさんがあまりにも田舎者丸出しだったのでジューンさんは呆れてしまい、デンマンさんとは別行動をしたのでござ~♪~ますわね?
どうして。。。、どうして卑弥子さんは、そのような偏見の目で僕とジューンさんを見ようとするのですか?
だってぇ~、ウィーンまで一緒に行ったのに、トリエステには一緒に行かなかったというのはジューンさんがよほどデンマンさんを嫌ったという事でござ~♪~ますわ。
あのねぇ~。。。仕事の都合ですよう。ジューンさんは旅程を早く切り上げてバンクーバーに帰らねばならない仕事が舞い込んできたのですよう。
つまり。。。、そのような口実を設けてまで、ジューンさんはデンマンさんと別行動をとったのでござ~♪~ますわね?
やだなあああぁ~、んも~~。。。僕の言葉を素直に受け取ってくださいよう。
分かりましたわ。。。んで、トリエステにもウィーンのような格調高い場所があるのでござ~♪~ますか?
あるのですよう。『トリエステの坂道』を読んで僕はうなってしまったのですよう。
どうしてでござ~♪~ますか?
須賀さんが入ったカフェに僕も入ったのですよう。もちろん、須賀さんの方が僕よりも前にトリエステを訪ねたと思うのだけれど。。。
どうして、そう思うのでござ~♪~ますか?
須賀敦子さんは次のように書いているのですよう。
なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか。
二十年まえの六月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼と一緒に読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。
p.14 『トリエステの坂道』
須賀さんの夫のペッピーノさんが41歳で亡くなったのが1967年です。つまり、須賀さんがトリエステを訪れたのは、その時から20年後だから1987年ですよう。僕がトリエステへ行ったのは1997年です。須賀さんが亡くなる1年前です。
須賀さんが訪ねてから10年後ですわねぇ~。
そうですよう。だから、それ程変わっていなかったのだと思いますよう。
。。。んで、そのカフェが本の中に出てくるのでござ~♪~ますか?
そうですよう。その箇所を引用します。読んでみてください。
カッフェ・トリネーゼ・ディ・ヴェルムット
(ヴェルムットのトリノふうカフェ)
とてつもなく愛国的で、とてつもなく長ったらしい屋号のコーヒー店の看板に、一日中歩きとおした自分をねぎらう気持ちと、イタリア統一運動の中心地だったトリノへの夢と郷愁をこめたその名に惹かれ、入り口のドアを押して入って、私は目を瞠(みは)った。
未知の都市とはいっても、たかがコーヒー店であれほどのとまどいを覚えたことはなかった。
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間口の狭さに比して、中はひろびろとしていた。
奥の一段高くなったところには、壁面のすべてが鏡で囲まれた広間があり、そこにいたる通路の部分には、帝政時代様式というのか、絹を張った座席の固い長椅子をかこむようにして、マホガニー色の光沢のある椅子と、白地にイチゴをあしらった模様のクロスを掛けた小さな丸テーブルがならんでいる。
ヴェネツィアのガラスではなくバッカラ系のクリスタルのシャンデリアの下を、いずれも髪の銀色がめだつ、白い手袋をはめた給仕たちが、テーブルのあいだを優雅な身のこなしで縫って歩く。
だが、なによりも私をうならせたのは店にあふれる顧客たちの容姿だった。
そのすべてが、裕福、と定義してよい階層の人たちで、そのうえ、おおむねが老人だった。
七十代と思えるカップル、あるいは何人かの老婦人が、ひとり、あるいはふたりの老紳士をかこんで、声をひそめて話し合っている。
男たちの着ている背広の仕立てにも、女たちが身につけている毛皮も宝石も、彼らがみずからの手をよごして得たのではない、ひそやかな美しさが光を放っていた。
若者たちがこぞって参加したイタリア統一にちなむ少々大仰な屋号には似合わない黄金とピンクの光景をまえにして、私は、自分が幾時代かまえのウィーンにいるのではないかと錯覚しそうになりながら、父がこれを見たら、どんなによろこぶだろうと思った。
老人たちの多くは、じじつ、父が生きていたらそんな年頃だろうと思われる人たちだった。
トリエステに行ってみたいと、父が晩年よく口にしたのは、彼が若いころ、ウィーンからヴェネツィアに向けてオリエント急行で通過したこの港町で、かたちが美しいから、と愛していたロイド・トリエスティーノの大西洋航路の大型船を、自分の目で見たいからだった。
ここにいる老人たちの財産も、彼らの親、あるいは祖父の時代に、オーストリア宮廷と、その国の政府に支えられた金融資本と海運業によって築かれたものだろう。
過ぎ去った時代の、いまはわるさをしないくなった亡霊たちにかこまれて飲んだ、あたたかいミルク・ティーのカップには、ハプスブルク家の紋章であるピンクの薔薇が、小さな宝石のようにかがやいていた。
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pp.27-29 『トリエステの坂道』
デンマンさんは、どんな気持ちでその老人たちの中でコーヒーを飲んだのでござ~♪~ますか?
僕は全く場違いな所にやって来てしまったと、初め、ひどく後悔して、すぐにでも立ち去ろうと思ったほどですよう。
でも、立ち去らなかったのでござ~♪~ますか?
せっかく物珍しい場所にやってきたのですよう。こういう機会は二度とないと思ったから、もう僕はピエロに徹して、誰が僕に注目しようが、うす馬鹿笑いを浮かべようと心に決めましたよう。うしししし。。。
。。。んで実際に、うすばか笑いを浮かべたのでござ~♪~ますか?
やっぱりねぇ~、上流社会の人って、ちゃんとお行儀がいいのですよう。僕は明らかに観光客で、その場の雰囲気にそぐわない。誰が見たって僕は“異物”なんですよう。でもねぇ、おそらく、これまでにも僕のような場違いな男が間違って迷い込んできた事があって、その人たちは慣れていたのかもしれません。
デンマンさんをジロジロと眺めなかったのでござ~♪~ますか?
じろじろとは見なかった。でも、“どこからかハエが飛んできたようだなぁ~。。。”という感じで、一度だけ僕の方に視線を走らせると、もうそれ以上は無視していましたよう。ウへへへへ。。。
。。。んで、デンマンさんは、どうなさったのでござ~♪~ますか?
うす馬鹿笑いを浮かべる必要はなかったのですよう。とにかく、オーストリア・ハンガリー帝国時代がそこにあったのですよう。全く驚きましたよう。博物館の中でコーヒーを飲んでいる感じですよう。でも、僕の周りの人たちは、皆、生きているのですからねぇ。まるで3次元の立体映画を見ているような不思議な気分でしたよう。
ところで、デンマンさんは、どうしてウィーンへ行って、それからトリエステへ行く気になったのでござ~♪~ますか?
あのねぇ、僕は小学生の頃、外国にかぶれていたのですよう。主にアメリカだった。だから、テレビっ子の僕はアメリカのテレビドラマを飽きずに毎日毎日見ていたものですよう。
どういう番組でござ~♪~ますか?
「名犬ラッシー」、「名犬リンチンチン」、「ララミー牧場」、「ローハイド」、「ガンスモーク」。。。ほとんどがアメリカを舞台にしたシリーズ・モノでした。
アメリカの番組だけでござ~♪~ますか?
ところが、小学校5年生の頃だと思うのだけれど、『第三の男』をテレビで見たのですよう。
あのオーソン・ウェルズが出た映画でござ~♪~ますか?
そうですよう。卑弥子さんは良く知っていますねぇ~。
あたくしの父も、その映画にハマッタと言っておりましたわ。
ほおォ~。。。偶然ですねぇ~。
デンマンさんもハマッテしまったのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。でもねぇ~、どういうわけか僕には話の筋が分からなかった。高校生になるまでに4,5回見ていますよう。
話の筋が分からないのに、面白かったのでござ~♪~ますか?
あのテーマ音楽にハマッテてしまったのですよう。そのテーマを聴きながら見るスクリーンには、アメリカとは違った外国の雰囲気が漂っている。僕は、初めてウィーンの町をあの映画の中で見たのですよう。
それで、いつかウィーンに行ってみようと思ったのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。小百合さんが中学生の時に『エマニエル夫人』を観て、社会人になってからバンコクに行ったようなものですよう。
それで、デンマンさんは未だに『第三の男』のあらすじが分からないのでござ~♪~ますか?
社会人になってから、映画雑誌で“あらすじ”を読んで初めて話の筋が分かったのですよう。
。。。んで、『第三の男』のテーマって、それ程素晴しいものでござ~♪~ますか?
実にいいですよう。これまで聴いたことがない人は次のリンクをクリックして、ぜひ聴いてみてください。
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デンマンさんがウィーンに関心を持ったのは分かりましたわ。『第三の男』を見たからですわね。。。んで、トリエステはどう言う訳で関心をもったのでござ~♪~ますか?
世界的に有名な二人の作家がトリエステで、ある時期暮らしていたのですよう。
その作家って誰でござ~♪~ますか?
『ユリシーズ(Ulysses)』を書いたジェームズ・ジョイス(James Joyce)と、『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』を英訳したリチャード・バートン(Richard Burton)ですよう。
そうだったのでござ~♪~ますか?知りませんでしたわ。
それで、僕は、いつかトリエステにも行ってみたいと思っていたのですよう。
『ウィーンの空の下で』より
(2009年1月27日)
つまり、玲奈さんが夏休みにトリエステにゆくので、参考のために上の記事を読んだというのですか?
そうです。。。 小百合さんは、信じられないのですか?
別に、私が信じるとか、信じないとか、どうでもよいのですけれど、ただ、この事を話題にするために、私をお呼びになったのですか?
もちろん、それだけではありませんよ。。。 小百合さんと、いずれトリエステに行って、あの有名なカフェで格調高く夏休みを過ごすのですよう。。。 どうですか? そのうち時間を作って一緒に行きませんか?
そういう事は、このように記事を書くよりも、メールで言えばいいではありませんかァ!
でも、僕はブロガーだから、どうしてもメールよりも記事に書いてしまうのですよ。。。 小百合さんは、こうして呼び出されるのは迷惑ですか?
こういう記事を読まされると、ここまで読んできたネット市民の皆様が白けるのですわァ~。。。 そのような事がデンマンさんには分からないのですかァ~?
でも。。。、でも。。。、面白いと思って、ここまで読んできたネット市民もいると思うのです。。。
では、私はこれで帰らせていただきますわァ~。。。
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