アンネとハンナ(PART 1)
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デンマンさん。。。 “アンネとハンナ”に どうして わたしが出てくるのですか?
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ジューンさんは忘れてしまったのですか?
何をですかァ~?
かつて、ジューンさんは次のように書いていたのですよ。
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こんにちはジューンです。
藤原氏の時代も大変な世の中だったようですが、
ナチスの時代も酷かったのですよね。
その時代の状況を最もよく伝えているのは
なんと言っても『アンネの日記』ではないでしょうか?
感動的な作品ですよね?
この作品を読めば、
ナチズムがどういうものであったかが
伝わってきますよね。
あなたは読んだことがありますか?
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いつでも、こんな風に写ってたらいいなぁ。
私のお気に入りの写真ですよ。
これだったらハリウッドも夢じゃないと思う。
1942年10月10日 アンネ・フランク
【ジューン意訳】
ところで、英語の面白いお話を集めてみました。
もし、時間があったら読んでみてくださいね。
■ 『あなたのための 楽しい英語』
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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『萌える恋歌の裏に』より
(2011年5月7日)
あらっ。。。 わたしは 5年前にこんな事を書いていたのですわねぇ~?
そうですよ。。。 懐かしいでしょう!? ジューンさんがアンネの事を書いた翌年、僕は小百合さんとアンネの事で次のように語り合ったのです。。。
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最近、また子供の事でいろいろと。。。
あのねぇ~、小百合さんが子供と一緒に深刻に悩んでは駄目なのですよ。 そういう時には気分転換に花見でもして、おおらかな気持ちになるのですよ。 心配したっていい事は何もありません。 それよりも、笑顔を忘れずに子供のために、いつでも元気を与える存在であり続けてくださいね。 母親は子供にとって最後の希望ですから。。。
うちの子供もそう思ってくれるかしら。。。?
子供というのは、いつでも母親の顔色をうかがっているものですよ。 だから、母親の笑顔を見ると安心するものです。
そうかしら? それにしても、どうしてデンマンさんは自殺などを持ち出してきたのですか?
最近、日本では子供が自殺すると言うじゃありませんか。
そうですわ。 イジメにあって自殺した子供も何人かおりますわ。
あのねぇ、僕はつい最近バンクーバー図書館でDVDを借りて 『アンネの日記』のAnne Frankのドキュメンタリーを観たのですよ。
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■『バンクーバー図書館のこのカタログページ』
予告編
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あらっ。。。デンマンさんはコメントまで残しているではありませんか。
上のDVDを観て、しばらくぶりに感動しましたよ。 アンネと小学校時代に親友だった女の子だとか、食べ物を毎日のように届けていたミープ・ギーズ(Miep Gies)さんの話だとか、アウシュビッツの収容所で一緒だった女性の話だとか。。。それは、もう生々しい話でしたよ。
ホーム・ムービーにアンネが映っているのですか?
アンネが12歳当時、近所の新婚さんが通りを歩いているところをアパートの2階の窓から見下ろしているところが映っているのですよ。 アンネが生前にムービーに納められた唯一の映像だそうです。 1分にも満たない映像だけれど、ニコニコしていて、やがて収容所で死んでしまうことを思うと、見ていて本当に可哀想でしたよ。 アンネは、これから青春を謳歌したいという15歳で死ななければならなかった。 日本でイジメにあって自殺する少年少女をアンネが天国から見ていたならば、きっと言うでしょうね。 「あなたたち、どうして自殺するの? それほど命を粗末にしたいのならば、私にあなたの命を頂戴よ」
そうでしょうね。 まだこれからだという時に、死ななければならない運命にあったのですものね。 本当に可哀想ですわ。
“死んで花実が咲くものか”という格言が日本にはあるけれど、死んでしまっては何もかもおしまいですよ。 日本での20歳未満の自殺は中年や老人の自殺に比べて少ないとは言え、本当に悲しい出来事ですよね。 だから、小百合さんも子供に夢と希望を持たせてくださいよ。 アンネもハリウッドを夢見ていた時があったのですから。。。
マジで。。。?
(ここでもジューンさんの書いたことが引用される)
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デンマンさんは『アンネの日記』にずいぶんと拘(こだわ)りがあるようですわね?
そう見えますか。。。
だってぇ、DVDを観たり、ジューンさんの話を持ち出してきたり。。。最近の子供たちは『アンネの日記』なんて読まないと思いますわ。 本を読むくらいならコンピューターゲームをしたり、ケイタイをいじったり、さもなければ、漫画やアニメを見ますわ。 それに、女の子ならまだしも、男の子は『アンネの日記』などに関心を持たないと思いますわ。
日本の少年少女は、皆、そうなってしまったのですか?
全部が全部そうでもないでしょうけれど、今時、『アンネの日記』を電車の中で広げて読む子供なんて考えられませんわ。
小百合さんの子供時代はどうだったのですか?
一応、私は『アンネの日記』を読みましたけれど、なんとなく別世界のような気がして物語の中へ入って行けませんでしたわ。 デンマンさんはどうでしたの?
実は、僕は、少年の頃、本を読むタイプではありませんでした。 だから、『アンネの日記』は本で読んだのではないのですよ。
テレビで見たのですか?
いや、熊谷高校の1年生の時に劇団民藝が巡業で熊谷にやって来た。 それで、体育館で公演したのですよ。
誰がアンネ役になったのですか?
日色ともゑさんでした。
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あらっ。。。これは、ずいぶん若い時のお写真ですわね。
小百合さんも日色ともゑを知ってますか?
名前ぐらい知ってますわ。 母から話を聞いたことがありました。 NHK連続テレビ小説「旅路」のヒロインになったとか。。。そのような話を聞いたことがありますわ。
後で知ったことだけれど、劇団民藝では『アンネの日記』は歌舞伎18番のようになっているのですよ。 今でも、時々公演してますよ。
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実は、劇団民藝では日色ともゑさんは6代目のアンネ・フランク役だったそうです。 この役につくと出世すると言われているそうで、実際、この役をもらってから日色ともゑさんはNHK連続テレビ小説「旅路」のヒロインになったのですよ。
。。。で、熊谷高校の体育館での『アンネの日記』公演はどうでしたの?
なんと言うか。。。新鮮だったというか。。。僕は、生まれて初めて生で演劇を見たのですよ。 それまでは、学芸会ぐらいのものだった。 でもねぇ、僕の座っているところは舞台からずいぶん離れていたので、役者の声があまり聞き取れなかった。 それに、遠くて顔もよく見えなかった。 だから、感動したという記憶はない。 でも、全校生徒が静かに野次(やじ)一つ飛ばさずに真剣に見ていましたよ。
あまり騒がなかったのですか?
あのねぇ~、熊谷高校の生徒は午前中の公演を見たのです。 午後の公演は隣にある熊谷農業高校の生徒が見にやってきた。 熊谷高校は男子校で女子生徒は居ない。 熊谷農業高校は共学なのですよ。 だから、文化祭でもないのに女子高生が校庭を歩いているなと思って、ちょっと意外だった。 2,3日してから担任の先生が、話してくれたのだけれど、午後の公演は野次が続出して、とても満足に演劇ができるような雰囲気気ではなくなってしまったらしい。 とにかく、両校の生徒の演劇を見る態度があまりに違いすぎたので劇団民藝の関係者は呆れ果てたというのですよ。
女子高生と一緒に見ると男子高生は騒ぎたくなるのでしょね!?
そういうものでしょうかねぇ~。。。そう言えば、小百合さんは女子高出身でしたよね。 学校で演劇などありましたか?
実は、私は演劇部に居たのですわ。 うふふふふ。。。
あれっ。。。小百合さんはバスケ部じゃなかったのォ~?
演劇部の部員が少なすぎるというので私にお声がかかったのですわ。
じゃあ。。。本気で演劇をやっていたら、吉永小百合になっていたのですね? (爆笑)
まさかァ~。。。
。。。で、何を演じたのですか?
私は台詞(せりふ)覚えが悪くて、もっぱら裏方の仕事でしたわ。 出ても通行人とかパーティーの騒ぎ役とか、台詞の無い役ばかりでしたわ。 うふふふふ。。。
あのねぇ~、今度、子供が問題を起こしたら一緒になって深刻に悩まないで、演劇の真似でもいいから子供を笑わせてやってくださいよ。 母親と子供が一緒に深刻に悩んだら、子供はホッとする場所がなくなってしまいますからね。 悪くするとマジで子供は自殺してしまいますよ。
うちの子供はそれほど深刻に悩みませんわ。
あのねぇ~、自分の子供を理解しているつもりでも、親というのは子供の事を本当は良く解(わか)っていないのですよ。
どうして、そのような事をデンマンさんは言うのですか?
アンネのお父さんが1979年にインタヴューに答えているのだけれど、「アンネの日記」を読むまでアンネの事を理解していなかったと言っているのですよ。 子供は本当の事を親に話しませんからね。。。小百合さんだって、子供の頃そうだったでしょう?
そうですわねぇ~。。。
『小百合ママの悩み』より
(2012年3月27日)
あらっ。。。 デンマンさんは、こんな事を小百合さんと語り合ったのですかァ~? ところで“アンネとハンナ”のアンネというのは『アンネの日記』の主人公だというのは、すぐに判りますけれど、“ハンナ”というのは どなたですかァ?
次の女性ですよ。
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あらっ。。。 アンネのお姉さんですか?
似ているけれど、親戚でも友達でもない、全くの赤の他人です。。。 “ハンナ・セネシュ”という名前です。
聞いたことがない名前ですわ。。。 デンマンさんが『アンネの日記』を持ち出してきたということは、この女性も例のナチスのユダヤ人虐殺と関係あるのですか?
そうなのです。。。 この女性はナチスのゲシュタポによって殺されてしまったのです。
あらっ。。。 そうだったのですか? でも、アンネはよく知られているのに、“ハンナ・セネシュ”は、どうして知られてないのですか?
あのねぇ~、ユダヤ人の間では、結構知られているらしい。。。 実は、バンクーバー市立図書館でDVDを借りて次の映画を見るまで僕も全く知らなかったのですよ。。。
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■『実際のページ』
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今年の2月27日に観て、例によってデンマンさんはコメントを書き込んだのですわねぇ~。
そうです。。。
でも、どうして急にハンナさんを取り上げる気になったのですか?
『アンネの日記』のアンネが世界的に有名になったのに、どうして“ハンナ・セネシュ”はユダヤ人の間だけでしか知られてないのか?
そのことでこの記事を書く気になったのですか?
そうですよ。。。
ハンナ・セネシュ
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(July 17, 1921 – November 7, 1944)
ハンナ・セネシュは、第二次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所に追放されたハンガリーのユダヤ人救出を助けるために イギリス委任統治領パレスチナからイギリス軍空挺部隊として、ユーゴスラビアに空挺降下した37人のユダヤ人の一人である。
生い立ち
ハンナ・セネシュは 1921年7月17日に ハンガリーで同化したユダヤ人の家庭に生まれた。
ジャーナリストそして脚本家でもあった彼女の父ベーラ・セネシュは、ハンナが6歳のときに亡くなった。彼女は母カタリナそして兄ジョルジとともに暮らした。
ハンナは「書くこと」に対して人一倍の関心と欲求を持っていた。
それは13歳のときから記しはじめた日記の中に明らかである。
父親から受け継いだものだろう、確かにハンナには豊かな才能があった。
彼女は、カトリック教徒そしてユダヤ人子弟をも受け容れる プロテスタント系キリスト教女子学校に入学した。
ユダヤ教徒はカトリック教徒の3倍の授業料を支払わなねばならなかったが、しかしハンナだけは才能を認められて、通常の2倍を支払うこととされた。
ハンナが16歳のとき、ハンナにとって人生の曲がり角となった事件が起きた。
学校の文学会の役員に、推薦されてハンナが選ばれたとき、学生自治会はハンナがユダヤ人であるという理由だけで、ハンナをこの役から降ろした。
ハンナは文学会の活動に情熱を傾けていたために、この事件は彼女の心を深く傷つけた。
同時に、ハンナに「ユダヤ人」の意識を強く目覚めさせる契機になった。
これは、ハンガリーにおけるユダヤ人の立場が不安定になりつつあるという認識とともに、シオニズムを抱くようにハンナを促し、彼女は"Maccabea"(ハンガリーシオニズム学生組織)に参加した。
ユダヤ人同胞救出作戦への志願
1942年8月、パレスチナ人自身の手によるユダヤ人同胞救出作戦が決定された。
それはバルカン諸国やハンガリーに残っているユダヤ人約125万人を、ドイツの虐殺から救出し、逃亡させるために空挺降下して各国に潜入し、ユダヤ人と接触するというものだった。
ハンナはすぐさま作戦に志願し、厳しい条件をクリアしてメンバーに選ばれた。
ハンナは念願の「パレスチナのためになる仕事」を果たすべき時が来たことを確信した。
1943年、彼女はイギリス婦人補助空軍に登録され、エジプトにおいて特殊作戦執行部隊員としての訓練を始めた。
逮捕と拷問
1944年3月14日、彼女と同僚のヨエル・パルジ そして ペレツ・ゴルトシュタイン はユーゴスラビアに空挺降下し、パルチザンに合流した。
降下後、彼らは すでにハンガリーがドイツによって占領されていることを知り、男たちは危険すぎるとしてミッションの中止を決めた。
しかしハンナはハンガリー国境を目指した。
国境において、彼女と彼女の戦友は、彼女のイギリス軍通信機を発見したハンガリー警備兵に逮捕された。
彼女は投獄され、裸にされ、椅子に縛り付けられ そして 3日間にわたって鞭打たれ 棍棒で打ちのめされた。
彼女は拷問のため歯を失った。
看守たちは、他の空挺隊員を探し出すために通信機の暗号を知りたがった。
ブダペストの監獄に移送された後も、ハンナは繰り返し尋問され そして残酷に拷問された。
しかし彼女は、また彼女の母親が逮捕されたときでさえ、自分の名前を答えるのみで通信機の暗号を自白することを拒んだ。
彼らは、もし彼女は協力しないなら母親を殺すと脅したが、彼女は頑なに拒み続けた。
監獄にいる間、ハンナは 鏡に反射する光をフラッシュさせたり 一文字ずつ切り抜かれた大きな文字を窓に置くことで、他の房にいる収容者と連絡を取り合った。
彼女は歌うことで彼らの士気を維持しようとした。
苦痛のうちにおいても、ハンナは士気を維持しミッションに忠実であろうとした。
裁判と処刑
1944年10月28日、彼女は反逆の罪で裁判に掛けられた。
判事たちが評決を出すために8日間の延期があり、つづいて新しい法務官の任命のための延期があった。
彼女はドイツ軍の銃殺によって処刑された。
1944年11月7日、彼女は 最後の日まで日記をつづった。
彼女の日記は1946年にヘブライ語で刊行された。
彼女の遺体は1950年にイスラエルに運ばれエルサレムのヘルツェルの丘に葬られた。
詩、歌そして脚本
彼女はハンガリー語とヘブライ語で詩や脚本を記した。
これらもっとも知られたものは Halikha LeKesariya (「カイザリアへの歩み」)、一般的には Eli, Eli (「わが神、わが神」)として知られる。
よく知られたメロディーはダヴィド・ザハヴィによって編曲された。
多くのシンガー – オフラ・ハザ、レジーナ・スペクター そしてソフィー・ミルマンらによって歌われた。
映画「シンドラーのリスト」にも使われた。
出典: 「ハンナ・セネシュ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲシュタポに厳しい取調べと拷問を受けて、挙句の果てに 満23歳で銃殺されて亡くなったのですわねぇ~。。。 酷すぎますわァ。。。 言ってみれば、アンネ・フランクよりも悲劇的な死を迎えたのに、どうして世界的には無名だったのでしょうか?
あのねぇ~、考えてみればアンネもハンナも、二人とも可哀想ですよ。。。 でもねぇ~、アンネは満15歳でベルゲン・ベルゼン強制収容所で栄養失調になりチフスに感染して亡くなっている。。。 ハンナは満23歳まで生きた。。。 つまり、8年長生きしたわけですよ。。。 子供を持つ親にしてみれば、当然、アンネの方により同情するのですよ。。。 それで、ハンナよりもアンネの方が世界的に同情を集めたのだと僕は思います。
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