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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

行田物語 ピアノ (PART 1)

2017-06-07 11:11:09 | ふるさと 行田市
 

行田物語 ピアノ (PART 1)

 


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『実際のページ』


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デンマンさん。。。 今日はピアノのことでデンマンさんが行田で暮らしていた頃の思い出を語るのですかァ~?


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そうです。。。 真由美ちゃんは、なんだかつまらなそうな顔をしてますねぇ~。。。

別に、つまらないと思っているわけではありませんわァ~。。。 ただ、行田とは全く関係ないような映画のポスターが出ているでしょう。。。 デンマンさんのお話がまた長くなりそうなのでちょっと心配しているのです。

あのねぇ~、真由美ちゃん。。。 長くなるといっても、1時間以上はかかりませんよう。。。 おそらく、どんなにゆっくりと読んでも30分以内には読み終えますよ。。。

分かりました。。。 それで、どういうわけでアメリカの映画を持ち出してきたのですか?

僕は上の映画をバンクーバー図書館でDVDを借りて 今年(2017年)の3月29日に観たのです。。。 残念ながら日本語の『ウィキペディア』には出てないのです。。。 意訳すると大体次のような物語なのですよ。。。


The Homesman


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メアリー・カディーは31歳で元はニューヨークで小学校の先生をしていた。
ニューヨークの生活に飽き足らず、より良い可能性を求めて中西部にやって来たのだった。

当時、まだ州に昇格する前のネブラスカ準州のループという農民が集まったに落ち着いて活発にコミュニティ活動に勤(いそ)しんでいた。
一生懸命に働いてかなりのお金をため、広大の土地を所有するようになった。
でも、まだ31歳で独身だった。


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メアリーは気丈な女で独立心が強かったが、ときには孤独と憂鬱に悩まされた。
隣に住むボブ・ギーフェンは、彼女にとって申し分のない夫になるように見えた。

ある晩、彼女はボブを夕食に招いた。
食後、ピアノはないけれど、テーブルに紙製の鍵盤を広げて、ピアノを語り弾くようなつもりで彼のために歌を歌った。


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ロマンチックな気分に浸ろうと思ったからだ。
そして、歌が終わると、彼女はボブに結婚しようと言い出した。

ところが、彼女の期待に反して、ボブは彼女の申し出を断った。
「悪いけれど、僕の理想からすればキミは、あまりにも平凡で、亭主を尻にひくような気がするんだ」
ボブは、そう言うと嫁探しに東部へ旅立って行った。

過酷な冬の後、メアリーと同じに住む3人の女性は、直面した苦難のために精神不安の兆候を見せ始めていた。
アラベラ・サウアズはジフテリアにより3人の子供を失った。

貧しい収穫が家族を飢えの危険にさらすため、テオリン・メルクナプは自分の子供を殺してしまった。
デンマークの移民であるグロウ・スヴェンドゥセンは家庭内暴力で夫に苦しめられており彼女の実の母の死後、精神に異常をきたした。


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牧師のダウドは、3名の夫の一人に3名の精神異常の女性たちを東へ向かわせ、精神病患者をケアしているアイオワ州のヘブロンの教会に連れてゆくように説得しようとした。
3名の夫たちは結局、くじ引きで決めようということになったけれど、男性の1人は、くじを引くことを拒否した。

それで、メアリーが彼の代わりにくじを引くことを申し入れた。
皮肉なことに、彼女がくじに当たってしまった。

メアリーが旅の準備をしている時、メアリーはジョージ・ブリッグスがリンチされるところに出会った。
ジョージはボブ・ギーフェンの留守の間に彼の土地を盗んで逃げようとしているところを捕まったのだ。
ジョージはメアリーに助けを求める。


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護送を一人ですることに不安を感じていた彼女は、監視をする者が誰も居ないのを幸いに、縄を解いてジョージを助けてやる。
その代償として3名の女性を護衛するように伝える。

しかし、ジョージはその仕事がうまくゆくようには思えなかったので、いつでも仕事を放棄する自由が欲しいと言い張った。
しかたなく、ジョージを護衛に縛り付けるために、彼女は「300ドルの大金を郵便で送った、アイオワ州のへブロンの教会に無事3人の精神異常の女たちを護送したら300ドルがジョージの手に入るように段取りがついている」ことを告げた。
ただしこのことはメリーとの間の秘密だと念を押した。


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ある時、怪しいインディアンのグループに遭遇する。
下手をすると殺されるかもしれなかったが、ジョージの経験で、一頭の馬を彼らに賄賂として贈ることで命は助かった。

その後、アラベラが荒くれ者に誘拐されてしまう。
ジョージが追跡して、二人は格闘するのだが、危ういところで、アラベラが正気に戻ったように荒くれ者を銃で撃ち殺してしまう。

やがて、メアリーたちはインディアンによって荒らされた11歳の少女の墓に出くわす。
メアリーは墓を元通りにするように主張するが、ジョージは、そんな面倒なことには関わりたくないので先へ行ってしまう。

やがてメアリー1人で墓を元通りに直すと、彼女はジョージと女たちの後を追う。
ところが、道に迷ってしまい、ジョージたちにい追いつくつもりが、元の墓に戻ってしまう。

翌日、最終的に、ジョージたちに追いつくけれど、砂漠を放浪して散々な目に遭ったことで気持ちがめいり、ジョージに結婚しようと言い出す。
ジョージも、これまでの男のように、「俺は野良仕事をするのはいやだ。 300ドルが欲しいだけさ!」と口実を並べてメアリーの申し出を拒絶する。

その夜遅く、メアリーは裸になるとジョージに迫る。
迷ったがジョージはメアリーと体を一つにする。

ところが、翌朝、ジョージが目覚めると、首をつったメアリーが木からぶら下がっているのを発見するのだった。
ジョージは精神異常者の3人の女たちを「オマエ等のせいで、こういうことになったのだ!」と罵倒し、彼女の遺体を埋める。
その時になって、ジョージは彼女が300ドルを彼女の荷物の中に保っていたことを発見する。

それで、その金を持って、3人の女たちを置いて逃げ出してしまう。
ところが、女たちはそれを察してか、ジョージの後を追う。

アラベラは、川の中に入って溺れかけてしまう。
仕方なく、ジョージはアラベラを救い、アイオワ州に3人を連れてゆくことを決心する。


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その旅の途中で、アロイシウス・ダッフィーが所有するホテルに着くと、食べ物と宿泊を求める。
ホテルは明らかに空(あ)いているのだけれど、ホテルのオーナーは16人の投資家のグループがまもなく来る事になっていると言って、「オマエ達が泊まる部屋はない。 それに精神異常者は御免だ!」と言って断る。
大喧嘩が始まりそうになるけれど、仕方なく、ジョージはそのホテルを後にする。

だが、夜になってから馬に乗ってジョージはホテルにやってくる。
彼は若い料理人を逃がし、ホテルに火をつけて、オーナーの足を拳銃で打ち抜く。

そして、自分たちが食べる分の子豚の丸焼きを持ってホテルを出る。
ホテルの内部に居たオーナーと仲間の従業員たちは焼け死んでしまう。


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やがてジョージはヘブロンに到着し、精神異常者の女性たちを教会の牧師の妻であるアルサ・カーターに託す。
ジョージは彼女にメアリーの死を知らせるが、真の原因は明かさなかった。
メアリーの結婚の申し出を拒否したことに後ろめたさを感じていたジョージは木製の大きな位牌に彼女の名を刻んで、それを墓にするつもりでいる。

ジョージは滞在中のホテルの働き者の裸足の若いメイドのタビタ・ハッチンソンに靴をプレゼントし、そして言った。“西部に行く若い男と結婚するくらいなら町に住んで俺と結婚したほうがましだよ。”
それに対して彼女は、“たぶん”と答えた。

その後、西部へ向かう川フェリーに乗り込んで、2人のミュージシャンと一緒に荒れ狂った歌を歌い始める。
“やめろ!”と言われると、西部にに行こうとしている桟橋の人々に向かって“オマエ等は悪魔の呪われた土地に行こうとしているのだぜ”と罵(ののし)った。

そして、また歌い始めた。
フェリーが出発すると、船頭の一人がメアリーの位牌を川の中に蹴り飛ばしてしまう。

【デンマン訳】

 


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   予告編

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 全編 (2時間14分)

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出典: 「The Homesman」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




なんだか、すごいお話ですわねぇ~。。。



そうなのです。。。 映画を観た後で、憂鬱な気分がしばらく続きますよ。。。 うつ病の気(け)がある人は観ない方がいいかもしれない。。。

それで、このお話のどこが行田物語と関わってくるのですかァ~?

あのねぇ~、メアリーさんは、決して悪い女じゃない。。。 ボブがどうして結婚の申し出を断ったのか僕には理解できません。。。 彼女は働き者だから、彼女の夫は、怠け者だとしても裕福な生活が送れるかもしれないのですよ。。。 


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映画の中のメアリーさんは決してブスではありません。。。



実際は、ブスだったとデンマンさんは考えているのですか?

いや。。。 そういうわけではありません。。。 あのねぇ~、メアリーさんが あんまりロマンチックな気分にしようと盛り上げてしまったので、ボブはひいてしまったのかもしれません。。。 ディナーの後で、本物のピアノはないけれど、テーブルに紙製の鍵盤を広げて、ピアノを語り弾くようなつもりでメアリーさんはボブのために歌を歌うのですよ。。。 


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ここの所が僕に行田物語を思い出させたのです。。。



あらっ。。。 デンマンさんにも似たような経験があって、女性の家に夕食を呼ばれ、そこの娘さんが愛のセレナーデなんかをピアノで弾いて その後でデンマンさんにプロポーズしたのですかァ?


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もし、この曲の後で、このピアニストが僕にプロポーズしたら、僕はたぶん結婚を承諾したと思いますよ。。。 (微笑)



つまり、そういうことはなかったのですかァ~?

もちろん、ありませんよ。。。 もし、そういうことがあったら、僕はカナダまでやって来ていなかったと思います。。。 日本で暮らしながら一流の松下電器産業(株)で三流の社員で一生を終えていたと思うのですよ。。。

じゃあ、メアリーさんのピアノ弾き語りで、デンマンさんは何を思い出したのですか?

あのねぇ~、僕がはまだお袋の背中に負ぶわれていた頃の話です。。。  たぶん2歳になるか?ならないか? とにかく、僕はお袋の背中に負ぶわれていたのですよ。。。


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まだ2歳にはなってないころでしょうねぇ~。。。 それで、どうしたのですかァ?



うちの親父は小学校の音楽の先生になったのです。。。 なぜなら、音楽で試験を受ける先生が極めて少なかったらしい。。。 僕の親父は小学校だけしか出ていないので、検定試験を独学で受けたのですよ。。。 音楽で試験を受けると合格し易かった、というような話を聞いた覚えがあるのです。。。

私は残念ながら、デンマンさんお父さんに お会いしたことがないのですわ。。。 写真だけでしか知りません。。。 一度でいいからお父さんが弾くピアノを聴きたかったものですわァ~。。。

ホームビデオがとってあるから、いつか真由美ちゃんに聴かせますよ。。。 僕の思い出話に戻るけど、お袋がお昼時になると弁当を作って僕を背中に負ぶって当時の行田中央小学校へ歩いてゆくのですよ。。。


忍町尋常高等小学校


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(このような校舎でした。 実物ではありません)

 

市庁舎、産業文化会館、体育館の北が、忍城東方の守りの内行田沼を埋め立てた地で、忍町尋常高等小学校が大正11年1月に竣工した。
だから昭和54年現在71歳の人が第1回卒業生で、20数歳の人が最後の入学生ということになるから、この忍町尋常高等小学校の大校舎を知っている人は市民に多いと思う。 (略)

教員数32名、児童数1,888名という小学校で、昭和12年星川村が合併を機に小学校が東西南北となり忍町南小学校になり、16年には忍町国民学校、22年また忍町南小学校となり、24年市制により行田市立南小学校、29年に南小学校が分離して行田市立中央小学校と名前も6回替り、現在に至っている。

玄関の前に軍艦の大砲があった。
郷土出身の小山与四郎大佐の口添えで、須加小学校と忍町小学校の2校が払い下げを受けたことを、知っている人は少なくない。

また昭和4年4月7日、今の体育館のところにロシア軍艦の11メートルの主砲で立派な表忠碑が立っていた事も、昔の語り草となってしまった。
児童数も昭和20年度には3,020人、新制中学で高等科がなくなっても、28年度は教員数67人、児童2,878人というマンモス小学校となった事も、当時の人には思い出深い事であろう。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




113-115ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社




オヤジは、この忍町尋常高等小学校を卒業すると、家が貧しいから旧制中学校に行けなくて、給仕になって独学で勉強しながら先生になる検定試験を受けたのです。。。



デンマンさんのお父さんは ピアノも独学で勉強したのですか?

たぶん、音楽の先生に教わったのでしょう。。。 詳しいことは聞いてないのです。。。 でも、音楽の先生に教わったとしても、初めだけで、後は独学だったのですよ。。。 だから、お袋が僕をオブって弁当を持って学校に行くと たいてい講堂に直行するのです。。。 すると、講堂の舞台の前にあるピアノで練習しているのです。。。

デンマンさんはお母さんお背中で、そんなお父さんの練習する姿を何度か見たのですか?


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そうなのです。。。 で、夕方になって家に帰ってくるとメアリーさんじゃないけれど、座敷で畳の上に紙製の鍵盤を広げて、おさらいするように手を動かしながらピアノを弾くのです。。。 


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もちろん、音は出ないし、歌も歌わなかったけれど。。。、あんなことをして練習になるのかと不思議な気持ちで見ていたことを 今でもはっきりと覚えてますよ。。。



その当時ピアノのある家というのは珍しかったのですか?

僕の知る限り、昭和の30年代に町内でピアノがある家は一軒もなかったですよ。。。 恐らく、行田市全体でもピアノがある家は 5軒もなかったでしょう!? よほどの金持ちで音楽愛好家でない限り、テレビは買っても ピアノなんかを買う時代ではなかったですからねぇ~。。。

畳の上に紙製の鍵盤を広げて、練習するなんて聞いたことも見たこともありませんわァ~。。。

そうでしょう。。。 僕だって、上の映画を観るまでは、一度も見たことがない。。。 ところで、この話には、まだ続きがあるのですよ。。。

どのような。。。?

僕は、まだ言葉がしゃべれなかった。。。 お袋から聞いた話です。。。 僕自身は忘れていたのだけれど、お袋が亡くなる2年か3年前に、僕に話してくれたのですよ。。。 2歳になる前でしょうねぇ~。。。 僕は割合 言葉を話すのは早かったらしい。。。 生後10ヶ月には、言葉を話し始めたと言うのです。。。 たまたま、雑誌か何かにピアノの絵がついているのを目にすると、僕が小さな手でピアノを弾く真似をするというのですよ。。。

つまり、まだ言葉がしべれるか、しゃべれないかの頃に、お父さんがピアノを弾いたことを覚えていて、ピアノの絵を見ると、手を動かして弾く真似をしたと言うのですか?

そうなのです。。。 するとお袋が「そうだよねぇ~。。。 そうやってお父ちゃんがピアノを弾いていたんだよねぇ~。。。」と、僕に話しかけるのだそうです。。。 すると、僕は調子に乗ってピアノを弾く真似を続けるというのです。。。

なんだか、ほほえましいですわねぇ~。。。 (モナリザの微笑)

ところで、この話には、まだ続きがあるのですよ。。。

まだ他にもあるのですかァ~。。。 どのような。。。?

すでに記事に書いたので、真由美ちゃんも読んでみてください。。。


ん? クラシックで片思い?


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そうなんですよね。
僕は多分、恵美子さんに片思いしていたと思うんですよ。


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中学校に入学して間もなくだった頃だと思いますが、
全校生徒が体育館に集まった時に
同学年の恵美子さんが“乙女の祈り”をピアノで独奏したのです。

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僕はその時初めてこの曲を聴いたのですが、すばらしいと思いました。
感動しました。

曲も良かったけれど、あの恵美子さんが弾いたのだという事も感動的でした。
この恵美子さんは小学校のとき6年間隣のクラスに居た可愛い女の子だったのです。

よく目にした事はあっても口をきいたことが一度もなかったのです。
初恋の人ではなかったのですが、僕の気に入った女の子でした。
遠くから見ていて、可愛い女の子だなぁ~と思っていたのです。

小学校ではクラス替えがなくて6年間同じメンバーだったのですが、
中学校では学年毎にクラス替えがあったので、この恵美子さんと同じクラスになる事を期待していたのです。

しかし、とうとう同じクラスになる事はありませんでした。
(こういう思い通りにならない事って、人生にはずいぶんとあるものですよね?)

とにかく、僕が気に入っていた“乙女”が弾いた“乙女の祈り”が忘れられなくて、僕はどうしてもこの曲が弾きたくなった。
大学に入学して下宿から通うようになった頃、下宿にピアノがあったので楽譜を買ってきて、独習で弾き始めたのです。

とにかく、一生懸命に独習したので、何とか全曲を弾けるようになったのです。
自分では結構マシに弾けると思ったので、ぜひ恵美子さんに聞いてもらいたいなぁ~と思い始めたんですよ。


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そう思ったら、何が何でも恵美子さんに聞いてもらいたいと思うようになった。
それで、夏休みに帰省した時に思いきって恵美子さんに電話したのです。

当時、恵美子さんは音楽大学に通っていました。
恵美子さんはビックリするだろうと思ったのですが、極めて落ち着いて冷静に受け答えしていたので僕のほうがその落ち着き方に内心ビックリしたほどでした。


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これまでに一度も言葉を交わしたことのない女性に初めて電話して僕のピアノの演奏を聞いて欲しいと言ったのですからね。
もちろん、どうしてそういう気持ちになったのか、かいつまんで説明しましたが、
今から思うと“すっご~い心臓”を持っていたものだと、自分ながら呆れる思いです。

その後、恵美子さんがコンサートピアニストになったのかどうか、僕は、もうぷっつり連絡していないから全く分からないのです。
僕は社会人になると間もなく海外へ出てゆきましたから。。。

当時、彼女の家にはグランドピアノがあって、その頃でもピアノ教室が別棟にあって、そこで子供たちに教えていました。
とにかく、恵美子さんに会ったのは前にも後にもそれっきりなんですよね。
電話した事もなければ、手紙を書いたこともない。
本当にその時会ったのが初めで最後!

まず、このように書いても誰も信用してくれないと思いますが、これは実話です。
恵美子さんの名前は本名です。
僕の生まれは行田市です。

もしかして、この記事を恵美子さんが読む事があれば、すぐに僕が誰かと言う事が分かるはずです。
もちろん、僕は恵美子さんにまた会いたくなったから、と言うのでこの記事を書いているわけではありませんよ。

小学生のときに芽生えた“乙女”に対する思いが僕の“乙女の祈り”の演奏を聴いてもらう事によって完結した。
言ってみれば、そのような儚(はかな)くも淡い“恋”ではなかったのか?

もちろん、それは“片思い”にすぎなかったのだけれども、僕はその片思いをあのような形で完結したのだと。。。
今から思い返すと、そう思えるのです。

しかし、ずいぶんと下手くそで間違った演奏を聞かせたものだと、気恥ずかしくなりますよ。
この記事を恵美子さんがもし読む事があったら、夢のような馬鹿ばかしい思い出として、苦笑しながら思い出すことでしょう?

お恥ずかしい事ですが、クラシックだと言われている“乙女の祈り”を誰が作曲したのか?
この記事を書くまで知らなかったという“おまけ”までがついていますよ。
うへへへへ。。。。

ついさっき調べたら次のような事が分かりました。



(girlwell.jpg)

1856年作曲

乙女の祈り (La prière d'une vierge)

テクラ・バダルジェフスカ (Tekla Badarzewska)

(1834年1月1日~1861年9月29日)

生誕地:ワルシャワ、 ポーランド


なんと、この人物は27歳で亡くなっているんですよね。
冥福を祈りたいですね。

とにかく、この人物が“乙女の祈り”を作らなかったら、僕は恵美子さんに会うことはなかったんですよ。

小学生の時に、恵美子さんのことを可愛い女の子だなぁ~と思っていただけで、一生会って言葉を交わす事はなかったはずです。

クラシックの“威力”なのでしょうか???

実は、この片思いの事は6月13日に書いた記事の一部です。
全文はもっと長いのですよ。
興味があったら次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。
クラシックに限らず音楽好きの人なら面白く読めると思います。

『ん? クラシック興味ある?』

Realogで書いた、この記事に対してRealogのメンバーの藤守美愛さんから次のようなコメントをもらいました。
ありがとね。

(デンマン注: 残念ながら、Realogは閉鎖・消滅しました。)



(gal06c.jpg)

初です☆
クラシック好きなので、
タイトルに釣られて来てしまいました。
コントラバスしてたんですか?
私はペットとパーカッション&ドラムしてました(^O^)

乙女の祈りはエレクトーンで弾いたので懐かしい~
独学でピアノは大変ですよね。
とても素敵な想い出だと思います=^▽^=

 

by 藤守美愛 2006/06/14 03:45





『ん? クラシックで片思い?』より
(2006年6月19日)




あらっ。。。 ピアノの思い出で こんなことがあったのですかァ~?



そうなのですよ。。。

ちょっと信じられないような。。。 でも、私も いいお話だと思いますわァ。。。 つまり、小さな頃 デンマンさんのお父さんが講堂のグランドピアノで練習していたことが 無意識のうちに 上の思い出の種をまいたのでしょうねぇ~。。。

僕は、その頃 全くオヤジのピアノのことは忘れていたけれど、独学でピアノを習ったというのは 無意識のうちにオヤジと同じやり方をしたのでしょうねぇ~?

デンマンさんは、お父さんにピアノを教えて欲しいとは言わなかったのですかァ~?

言わなかったし、オヤジも僕にピアノを習えとも言わなかった。。。 教えようともしませんでしたよ。。。

なんだか、不思議な親子ですわねぇ~。。。


(mary127.jpg)



上の映画を見て、メアリーがピアノを弾く真似をしながら歌うのを見て、とにかく、この思い出がよみがえってきたのですよ。。。



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)





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