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兄妹の恋のつづき(PART 2 OF 3)

2014-12-04 13:10:25 | 日本史


 

兄妹の恋のつづき(PART 2 OF 3)




ここで、前言を翻(ひるがえ)して 中大兄皇子と間人皇女(はしひとのひめみこ)の間には恋愛感情があったなどと言うつもりはないでしょうねぇ~!?



もちろん、そのような事を言うつもりはありません。

でも、タイトルには“兄妹の恋のつづき”と書いてござ~ますわァ。。。 つまり、デンマンさんは 中大兄皇子と実の妹の間人皇女の間に恋心があったと言おうとしたのに 間違いがないのですわァ。。。 でも、あたくしが古い記事を持ち出してきたので、デンマンさんは都合が悪くなったので、撤回したのです。 そうでしょう?

卑弥子さんは、なかなか鋭いことを言いますねぇ~。。。 実は、そうだと言いたいところです。。。 でも、違うのですよ。 上の引用の一番下に万葉集の中の政治批判と書いてあるでしょう。。。!?

それがどうしたと言うのでござ~ますか?

つまり、『古事記』や『日本書紀』の中にも政治批判が書き込まれてるのですよ。

それは初耳ですわ。。。 そのようなお話は聞いたことがござ~ませんわァ。

あのねぇ~、僕は次のように書いたことがある。


『日本書紀』に隠された真実の声

この事件(乙巳の変)の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとの おおえのみこ)は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 

しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということで この事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
下の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。


(korea03.gif)

これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。

中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。

従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、次のページを用意しました。ぜひ読んでください。


(fuhito02.jpg)

『藤原氏の祖先は

朝鮮半島からやってきた』


『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。

その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。

執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。



(fuhito03.jpg)

「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」


(yakunin8.jpg)

「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」

「彼は韓からやって来たのかね?」

「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」

「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」

「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してください、ということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」

「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」


恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等と しらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。


(shotoku03.gif)

執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。

この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。

古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。

古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。

古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。

しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。

このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。

中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。

後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。




『韓人(からひと)」とは誰か?』より
(2003年9月24日)




つまり、『古事記』や『日本書紀』の編集に携わった人の中には反骨精神が旺盛で、政治的批判をそれとなく書き込んだ人たちがいたと、デンマンさんは言いたいのでござ~ますか?



その通りですよ。

でも、その事と “兄妹の恋のつづき”は、どのように関係しているのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕に言わせれば『古事記』も『日本書紀』も、藤原氏が当時の政権の正当性を反動派や当時の官僚や後世の官僚に訴えるために書いたものですよ。 でもねぇ~、執筆者の中には表面上は藤原氏に従っている振りをしながら、反発精神に燃えて人たちもいた。 その仮面をかぶった反動派の執筆者たちは、史書の各所で、後の世の人が読めば、天智政権・藤原政権の横暴が解るように書いている。

たとえば。。。?

だから、『日本書紀』の中でも 古人大兄皇子の言葉として「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言った、と書き込んで執筆者がいたのですよ。 表面には おくびにも出さないけれど、内心、藤原不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうとしたわけです。

“兄妹の恋”の中にも、そのように真実をどこかに書き残そうとした執筆者の苦心が見えるのでござ~ますか?

見えるのですよ。 だいたい、木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋の物語などは、本来ならば、藤原氏は書かせたくはなかったでしょう。

どうして。。。?

『ウィキペディア』にも書いてあるけれど、「間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。 しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く」研究者もいるのですよ。 つまり、このような関係があることを匂わせるために、『古事記』の執筆者の中に 木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋の物語をどうしても書かなければならないと思った人がいたのですよ。

実際、当時、政権に携わっている人たちや、反動派の人たちにも、間人皇女と中大兄皇子の関係を疑っていた人たちがいたのでござ~ますか?

いたのですよ。

その証拠でもあるのでござ~ますか?

あのねぇ~、もうずいぶん昔のことだから、二人が関係しているところを撮った写真があるわけではない。 でもねぇ、状況証拠がある。

その状況証拠とは、いったい どのようなものでござ~ますか?

中大兄皇子は、本来ならば、大化の改新を断行した時に、天皇になれるはずだったのですよ。 でもなれなかった。

どうして、その時に天皇になれなかったのでござ~ますか?

中大兄皇子は、次期天皇に目されていた異母兄の古人大兄皇子を殺している。 兄殺し! 更に、乙巳の変(645年6月)、つまり、大化の改新で、皇極天皇が譲位する。 この時にも、中大兄皇子は過去の悪行が災いして人望がなく、天皇になれず、皇極天皇の弟、つまり、中大兄皇子の叔父さんである軽皇子が孝徳天皇として即位する。

。。。で、この時に、中大兄皇子はスパイ兼監視役として妹の間人皇女を叔父さんのお嫁さんにすると画策したのでござ~ますか?

そうです。。。 翌年、大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。 実権を握っていたのは、大化の改新で活躍した中大兄皇子だった。 それで、叔父の天皇とは不仲だった。 白雉4年(653年)、よせばいいのに、中大兄皇子は叔父さんを一人残して、多くの官僚と共に、実の妹でもあり、叔父さんの妻でもある間人皇后を無理やり飛鳥に連れ去ってしまう。 当然のことながら、噂が立つのですよ。 中大兄皇子と妹の間人皇女は恋愛関係にあったと。。。 そして、それを裏付けるように そういう事が過去にもありましたよ、と『古事記』の執筆者は木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋物語を書き込んだわけですよ。



(laugh16.gif)

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