沢藤南湘の本棚

小説&時代小説

苦闘 中大兄皇子 後編

2019-10-14 18:10:27 | 時代小説
第四話。出会い
 依然緊張状態が続きながらも、中大兄は十八歳の正月を迎えた。
(入鹿は、次に我を標的にするであろう)中大兄は、焦っていた。
一方、天皇家の復活を求める男がいた。
 皇極からの神祇伯(かんづかさのみや)の任用を再三固辞した中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。
(逆賊の蝦夷や入鹿のいる朝廷に勤めることはできん、何とか、奴らを朝廷から締め出さなければ。早くしないと、皇族たちが危ない。お上には申し訳ないが)
 鎌足は体の具合が悪いと皇極の使者に伝えて、摂津の国三島に引っ越して行った。

 【神祇伯とは、律令官制の二官の一つ神祇官の長官で、職掌は神祇の祭祀,大嘗(だいじょう),祝部(はふりべ),神戸(かんべ),御巫(みかんなぎ),卜兆(ぼくちょう)など司り神祇官を決済する役目を持つ職であった。
 この時代は、既に社〔やしろ〕を設けて神を祀る『はふり』という人々がいたようだ。
祝部は把笏〔はしゃく: 右手にて置笏してある笏尾を少し上げ、左手を差入れ笏頭まですりあげて、右膝頭に笏を直立し、左手は笏の中程まですり下げて左膝頭に置き、持笏の姿勢をとること。〕を許されていた。 職掌は、諸社の祭事、社殿の保全・修理等であった。
祝部は神戸の中から任用された。
神戸は、特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のこと。
また、御巫は、神祇官に属し、神事に奉仕した女官。
卜兆は、神祇官に仕えた職員で、占いによる吉凶の判断をつかさどった。】

 鎌足は、明哲の主を求め、動いた。
 まず、皇極の弟の軽皇子に近づいたが、線の細さに目が付き、その器ではないことをすぐに看破した。
 月日が経っても、鎌足のめがねにかなった人材は見つからず虚脱感にさいなまれていた。
そのような時に、家来が中大兄の噂を聞き、その話を鎌足に伝えた。

翌日、飛鳥寺で催された打鞠を、多くの観衆の中の一人、鎌足がいた。前列の鎌足は、中大兄から一瞬たりとも目を離さすにいた。
皆が興奮してきたとき、
「あっ」と声が重なって発せられた。
 中大兄の靴が脱げ、鞠とともに鎌足の前に転がった。
 鎌足は、落ち着き払って、恭しく靴を拾い上げ、跪き、近づいて来た中大兄に謹んで差し出した。
「ありがとう」中大兄も跪き、恭しく受け取った。
「私は、中大兄と申す、そなたの名は」
「中臣鎌足と申します」
二人の視線が、一瞬鋭く交差したが、すぐに
中大兄は、目礼をし、靴を履き直し蹴鞠の輪に戻って行った。

中大兄は、蹴鞠が終わったのち館に戻って、近習の者から、中臣鎌足についての報告を受けた。
「殿下、中臣氏は、二流以下の伴造系の氏族で、蘇我大臣家の足元にも及ばぬ家柄でございますが、鎌足殿は、頭脳明晰との誉れが高いようです。宮廷では、鎌足殿の父上の代以来、蝦夷様や入鹿様に地位を脅かされているようでございます。お二人には、個人的な恨みだけでなく、宮廷での二人の専横を何とかしたいと天皇家のお味方を探しているようです」
「そうか、ご苦労であった」

 その後、中大兄と鎌足の関係は、挨拶から日が経つにつれ親密になり、蝦夷と入鹿打倒の策を二人で練るようになった。
「殿下、蘇我一族を内部から分裂させるために、倉山田麻呂殿をお味方にしたらいかがでしょうか。彼は、摩理勢殿が、蝦夷殿と入鹿殿に殺されたことに反発と不安を抱いています。入鹿殿は、それを見透かし、倉山田麻呂殿を疎外するようにしています。倉山田麻呂殿をお味方にすれば千人力です」


数日後、南淵請安の行の帰り道、鎌足が中大兄に言った。
「殿下、この間の倉山田麻呂殿をお味方にする話ですが、彼の娘をお妃として娶って姻戚関係を結んでいただけませんか。その後、倉山田麻呂殿に我々の計画を説明しようかと思っています」
「分かった。そちの方で話を進めてくれ」
 中大兄たちの計画は、現在の国体を唐のような先進的な律令制に変えるために思い切った改革を行うことであった。

 半月ほど経った契りの日、中大兄が倉山田麻呂の屋敷にやって来るほんの少し前に事件が起こった。

「殿様、お嬢様がいらっしゃいません」
 近習の者が、慌てふためいて板戸の前で言った。
「なに、居なくなったと。そんなはずはない、早く探せ」
 倉山田麻呂は怒鳴って娘の部屋に走った。

 部屋には、舎人が呆然と立ちすくんでいたが、倉山田麻呂の大声で我に返って、
「殿様、弟の蘇我臣日向様が、お嬢様を連れ去ったのを見たものが・・」
 倉山田麻呂は、途方に暮れた。

次女の遠智姫(おちのいらつめ)が、部屋に入ってきた。
「お父上様、どうされたのですか?」
 倉山田麻呂は、長女が連れ去られたことを話した。
 しばらくの沈黙を破って、
「お父上様、私を皇子様に進上なさってはいかがですか。遅くはないでしょう」 
 倉山田麻呂は、喜んだ。
中大兄に承知してもらうよう、遠智姫に言って部屋を出た。
中大兄は、遠智姫を気に入り、契りを早々に結んだ。

倉山田麻呂は、蝦夷と入鹿の言動を、逐次、中大兄に伝えた。
その情報を考慮しながら、策は練られていったが、入鹿の目が厳しく、それを避けるように隠密裏に事は進めるのには限界があると、中大兄は苛立った。
「鎌足、これではいつまでたっても、二人を倒すことができないではないか」
「殿下、味方を増やしましょう」
「誰を。心当たりはあるのか」
「宮内警備の佐伯子麻呂と武勇では一番の葛城網田の二人はどうでしょうか」
「任せる」
 
数日後、鎌足は二人を中大兄に引き合わせた。
二人は、緊張していたが、中大兄が酒を振る舞ったことにより、だいぶ多弁になってきた。
葛城網田が、訴えた。
「皇子、蝦夷たちの専横ぶりは頂点に達しています。大臣と入鹿殿が館を甘橿岡(あまかしおか)に建て、畏れ多くも、大臣の館を上の宮屋敷、入鹿殿の館を谷の宮屋敷と呼ばせ、またそれぞれの子達を皇子と言わせています」
 佐伯子麻呂も口を開いた。
「それだけでなく、館の外を固めています。砦の垣を造り、二つの門の近くには、武器庫も造っています」
「殿下、私も大臣について同じような話を聞いています」
 
 その後も、策は、中大兄、鎌足そして、倉山田麻呂の三人で練られた。
「殿下、大臣と入鹿は常に数十人の警固の兵士を引き連れていて、中々二人を討つのは難しいですぞ。二人を討つのではなく、失脚させる方法を考えた方がよろしいのでは」
「あの二人を失脚させる前に、我の命が無いわい。一日も早く彼らを討たねばならぬ」
「彼らに悟られてはまずいので、しばらく、我々はおとなしく機が来るのを待ちましょう」
「殿下、鎌足殿の言われる通りです、彼らは我々を疑い始めています」
「しかし、彼らを倒した後の制度改革については、詰めておかねばならん」
「殿下、それは南淵請安先生の庵で先生たちのお知恵も借りて案を作るようにしましょう。決して、その案を外に持ち出してはなりません」
「鎌足、そういたそう」

請安の屋敷で中大兄と鎌足は、律令の制定内容について、請安や僧旻そして、玄理たちを巻き込んで案の策定を推し進めて行った。
 中大兄は、それ以外に周孔の道(周とは、周公という名前の人間で、西周時期が卓越している政治家、軍事者、思想家、教育家は、儒学は先駆けて、後世の尊が”元聖”とされる。孔は孔子のことです。春秋時期が卓越している思想家、教育家は、儒家学派の創始者は、後世の尊が”至聖”とされています)、唐の制度、仏教および寺院の在り方について学んだ。
翌年(六四五年)六月八日、請安の庵を出て、中大兄が鎌足に言った。
「四日後、三韓の調が朝廷に持たされる。その時、大臣を討つ。倉山田麻呂達を前日、我が館に集めてくれ」
「承知いたしました」

 謀議が行われた。
「倉山田麻呂、そちが三韓の調の上表文をお上の前で読み上げてもらうことになっている。よいな」
「殿下、承知いたしました」
 倉山田麻呂は、震えていた。
「皆の者、これからいうことは、殿下が決められたことである。しかと聞いて、それぞれの役目、違えるでないぞ」
 鎌足は、細かな説明をした。
第五話。改新
当日、十二日の朝、鎌足が、中大兄に鎌足は念を押した。
「殿下、お考えは変わりませんか」
「入鹿を斬るしかない、後世なんと言われようと、今日斬る。渡来人にこの国を牛耳られてたまるものか」
 鎌足たちは、昨日の打ち合わせ通りに大極殿の外に身をひそめた。
入鹿が、剣を携えて、大極殿に入ろうとした時、入口の警備の者が、
「入鹿様、今日はお上の命令で、剣を持った人間は中には入れるなと命ぜられています。入鹿様の剣、お預かりします」
「儂を誰だと思っている、お上は儂が剣を持って入っても許すに違いない」
「そうは言っても、お上の命です。それに従わなければ、私は腹を切らねばなりません」
 と、腹を切るまねをし、苦渋の顔をした。
「分かった、お前に預ける」
 入鹿が、席についてしばらくすると、皇極が供を連れて、大極殿に入ってきた。
 皆が、平伏し、皇極は、玉座に腰を下ろした。
 儀式は始まった。
 儀式の進行を見据えていた中大兄は、衛門府を呼び、十二ある門すべてを閉門し、一人たりとも出入りをさせぬように命じた。
 だれも、中大兄の行動に不信を持つ者はいなかった。
 倉山田石川麻呂が、皇極の前に進み出でて、上表文を代読し始めた。
 鎌足は、大極殿の傍らに弓矢を持って、佐伯子麻呂と葛城網田とともに、潜んでいた。
 そして、持ってきた箱を空けて、二人に剣と槍を授けて言った。
「佐伯殿、葛城殿。油断せずに、不意を突いて斬りつけるのだ」
 佐伯は、今朝の飯は、恐怖のためほとんど吐いてしまい、顔色が悪い。また、葛城は、緊張のあまり、体の震えが止まらない。
「しっかりしろ」
 鎌足は、弓矢を置き、二人の背を推した。

 倉山田石川麻呂は、全身汗だくになり、声が乱れ、身体が震えだしたが、何とか読み終えた。
 近くに座していた入鹿が、不審そうな顔をして尋ねた。
「どうされたのか」
「お上のおそばに近いことが畏れ多く、不覚にも・・・・・」
(佐伯たちは何をやっているのだ、早くしないと入鹿に悟られてしまう)中大兄は、焦った。
「やあっ」
佐伯と葛城が現れ、中大兄の前を通り過ぎようとした時、葛城が槍に足が絡んで転倒した。
その瞬間、中大兄は、笏を懐に収めるや否や、槍を拾い上げ、
「私が、やる、どけ」
 と、素早く走り出で、呆然と立ちすくんでいた佐伯をどけ、入鹿の前に立ちはだかった。
「入鹿、覚悟!」
「中大兄皇子、一体・・」
 入鹿は、恐怖で顔から血の気が引いていた。
「しらばくれるな、お上の地位を奪わんとしていること、知れているぞ」
「畏れ多くも、この私が、お上の地位を奪うなどと。助けて下され」
 入鹿は、笏を片手に持ちながら、後ずさりして、皇極の前まで、助けを求めて行こうとした時、
「ヤーッ」
「ギャッ~。・・・気がふれたか、皇子」
 葛城が、剣を抜いて、猛然とやって来て、背を刺した。
 続いて、佐伯が片足を斬った。
 入鹿の足から血が吹き出し、板の間に飛び散った。
 中大兄たちも、返り血を衣冠束帯に浴びた。
 入鹿は、這って皇極の前になんとか辿り着いた。
「お上・・、皇位に坐すべきは、天の御子です。私に一体何の罪があるというのでしょうか。無念です。よくお調べください」
 中大兄は、さらに入鹿にとどめを刺そうと剣を抜いた。
「皇子、もうやめよ。なぜこのようのむごいことを」
 中大兄は、床に伏して、
「入鹿や一部の蘇我一族は、ことごとく天皇家を滅ぼして、皇位を傾けようとしました。どうして、天孫を渡来人の入鹿たちに代えられるでしょうか」
「よしなに」
 皇極は、席を蹴った。
 周りにいる群臣たちは、壁際で震えながら、皇極を見送った。
「騒がないで下さい。また、この部屋から一歩たりとも出ることを禁じます。わかりましたか」
 鎌足が、群臣たちに向かって言った。
 わずかにどよめいたが、反論する者はだれ一人いなかった。

 霧雨が舞っている中、近習の者が、筵を運んできた。
「上がって、入鹿を運べ」
 葛城が、自分を奮い立たせるように怒鳴った。
 中大兄は、佐伯と葛城達に官吏たちの見張り役として残し、門外に待たせておいた兵を率いて、飛鳥寺に入った。
「殿下、古人大兄皇子様は、既に館に戻って、門を閉め、戦の準備をしているようです」
 鎌足が、報告に来た。
「いつの間に。しばらく、様子を見るように」
 と伝え、すぐに海犬養連を呼び、入鹿の死骸を蝦夷の館に送りつけるよう命じた。
 鎌足たちは、既に寺を砦として防備を固め終わった。
「殿下、大極殿にいた官吏たちが、我々の援軍として、兵を伴ってこちらに向かっているそうです」
 身に甲冑をつけた中大兄が、戦闘態勢に入るよう下知した。

 古人大兄は、息を切って屋敷に戻っていた。
 すぐに、門を兵で固めるよう近習に命じた。
 妻が、白湯を持ってきた。
「皇子、どうされたのですか」
 古人大兄は、甲冑を身に着け終わったところだった。
「あの百済人石川麻呂の奴が、入鹿を殺した。蘇我の内部対立を中大兄が、煽っている。悲しいことだ」
「中大兄様の企みですか。なぜですか」
「政を牛耳っている帰化人たちを排除して、皇位に就くのが目的であろう。我々も危ない。女どもも、準備させよ」
 古人大兄の屋敷内は、戦闘態勢に入った。

 一方、蝦夷は、配下の漢直(あやのあたい)と呼ばれる渡来一族全員を集め、陣を張らせていた。
 お互いに、相手の出方をしばらくの間見守っていた。
「殿下、敵は怯んできたようです。この機を逃さず、敵に降伏するよう使者を送ってはいかがでしょうか」と鎌足が、具申した。
「巨勢臣徳太(こせのおみとくた)を呼べ」
「はっ、承知いたしました」
 鎌足は、近習の者にすぐに巨勢臣を連れてくるよう命じた。

中大兄は、近習に連れて来られた巨勢臣に、中大兄の手勢も連れて、蝦夷の館に説得に行くように伝えた。

巨勢臣は、蝦夷の館前に松明を持った兵で、取り囲み、叫んだ。
「誰か、おらんか。拙者、巨勢臣徳太。無駄な抵抗せずに、門を開けよ。天地開闢より、お上に逆らうは、賊である。この戦、抗戦の挙に出ても、勝てる見込みはない。武器を捨て、門を開けよ。そうすれば、命だけは助けてやる」
しばらくして、門が開き、一人の男が出てきた。
「拙者、大臣の臣下の高向国押と申す。我々の命を救うことに偽りはないな」
「しかと」
「分かった、しばらく待て」

 高向国押は、門の中に戻り、兵たちを集めて言った。
「この戦、たとえ徹底抗戦しても勝ち目はない。俺は、戦わないでここから去る。去る者は、敵は見逃すと言っている。皆のもの好きにしろ」
「蝦夷様は、如何申されているのだ」
「蝦夷様には、言ってはおらん」
 と言って、高向国押は剣を置いて、門に向かった。漢直たちも続々と後に続いた。
 それを知った蝦夷は、もうこれまでと、翌日、館に火を放って、自決した。
 蝦夷の死により、蘇我大臣家宗家は、滅亡した。

中大兄は、皇極に呼ばれた。
「このようなことが起こったのは、残念です。これから、あなたが皇位を継承するのが必然です。頼みます」
 中大兄は予想もしなかったので、返答に詰まった。
「お上、しばらく考えさせてください」
 中大兄は、次第に嬉しさがこみあがってきたが、それを押さえながら大極殿を退去した。
 朝堂の元大臣の部屋に戻って、この度功労のあった重臣たちを集めた。
 そして、皇極から皇位の譲位の話があったことを伝えた。皆喜んでいた中で、鎌足の顔が険しいのに中大兄が気付いた。
 皆が帰った後、中大兄は、鎌足に本意を聞いた。
「殿下、古人大兄様は、殿下の兄上、軽皇子様は、殿下の叔父君であられます。古人大兄様がいらっしゃるのに殿下が天皇に着かれたら、人の弟としての謙遜の心に反することになりましょう。しばらくは、叔父君を立てるのが良いと思います。いかがですか。反旧勢力から、今回の改新が個人的な権勢力欲かと見られるのは、今は避けねばなりません。当分は、計画してきた改新政治に専念するために、軽皇子様に継承させられたら良いでしょう」
 中大兄は、考えた。
「お上が引退したら、‘皇祖母尊’という称号を贈り、殿下は、皇太子になられるのがよろしいかと」
中大兄は、鎌足の具申を受け入れ、皇極に奏上しに大極殿に上った。
「お上、天位に着かれるのにふさわしい人は、軽皇子様でございます。私ではございません」
 中大兄は、皇極に軽皇子を推挙した。

 翌日、皇極は軽皇子、中大兄そして、古人大兄を呼び、軽皇子に皇位を継承するよう求めた。
しかし、軽皇子は、再三固辞し、言った。
「古人大兄皇子は、先の天皇の御子であられます。また、年長者です。よって、古人大兄皇子が、天意に着くのがふさわしいと思います」
 中大兄は、古人大兄を凝視した。
 すると、古人大兄が、座を降りた。
「お上の勅旨に従いましょう。どうして、私に譲ることがありましょうか。私は、出家いたします、そして、仏道を極める所存です」
 と言って、剣を床に置いて、部屋を出て行った。
(これでよい。古人大兄も恐れをなしたか)
中大兄は、生前の入鹿が推挙していた古人大兄を、何としても朝廷から遠ざけておかなければ、自分が計画した改革が思う通り運ぶことができないと危惧していた。

 翌日、軽皇子は、大極殿の壇に上った。
壇の右左には、金の襷をかけた大伴連馬養、犬上健部君が立った。
百官の臣、連、国造、伴造そして、百八十部たちは、列を作って、軽皇子即ち、天皇に即位した孝徳天皇を拝んだ。
式典が終わるや否や、中大兄は、鎌足を伴って、今まで練ってきた新体制を孝徳に上伸した。
孝徳は、今回の蘇我一族を打倒した立役者である中大兄に従わざるを得なかった。
十九日、中大兄は、敵対する反対派を抑え込むために、大極殿の庭に群臣たちを集め、天皇に従順することを約束させた。
そして、皆に告げた。
「帝道は、一つである。しかしながら、末代には人の情けが崩れ、君臣は秩序を失った。天は、我の手を借りて暴虐の徒を誅滅した。今ここに誠心を持って共に誓う。今後、君は二政を行わず、臣は二心を持たない。もしこの盟約に背けば、鬼神や人が誅滅する」
 大化元年の幕開けであった。
 皇極は、中大兄の妹、間人皇女を皇后とし、別に妃二人を娶った。
新政府は中大兄が、政策立案機関と政務執行機関の両方を統轄して走り始めた。
 中大兄と鎌足は、二人の国博士の助言を得ながら、政策を次々と立案し、左右大臣に執行させたが、
立案した政策が民衆にいきわたらないことに焦りを感じていた。
反対派と孝徳が、それを阻んでいるとの噂が中大兄の耳に入った。
 鎌足を呼んで、いかにしたらよいかを尋ねた。
「殿下、右大臣の倉山田石川麻呂殿に、お上の橋渡しをしてもらったらいかがでしょうか」
「よかろう、頼む」
 また、孝徳と左大臣の阿部内麻呂のラインを政略的に朝政の前面に押し立てることにして、鎌足は、その実行に腐心した。
 それでも、鎌足は不安であった。
「殿下、まだまだ、新政府は盤石でありません。反政府派や地方豪族を一日も早く押し込む必要があります」
「名案はあるか」
「はい、一石二鳥の策があります。名門の大夫を選んで東国の国宰(くにのみこともち)に任命したらいかがでしょうか。これで、宮廷の臣や連たちは改新派になびくでしょう」
「そうだな、東国には、屯倉、子代や名代が多いから早く手を打った方が良いな。早く我々の基盤を磐石にしなければならん」
 大和朝廷に服属しなかった地方豪族に対しては、土地を奪い「屯倉」(大和朝廷の直轄地)を設け、そこで働く農民集団(部)を田部といいます。部の構成員を部民といい、
 他方、国造という姓を与えた氏からは、部曲の一部を割いて、大王家やその一族の生活の資を後納する農民集団である部を設定しました。これを「名代」「子代」「品部」という。
 この方法を発展させ、中央集権的に地方支配を拡大していったのが、屯倉の管理者であった蘇我氏であったが、蘇我氏滅亡により管理者不在であった。
八月、東国に向かう国宰たちに左大臣は、まず国造(くにのみやっこ)に新政府の基本方針を伝え、そして、造籍と田畑の実測をさせることを命じた。また、大化改新以前の「国」を治める世襲の首長の国造は、倭王権に服属して任じられた職で、軍事・裁判権などを保持しており、その権限を侵さぬよう訓示した。
 国宰となった大夫たちが、それぞれの国へ旅立った。

中大兄の計画が着実に進み始めた頃、鎌足から中大兄に古人大兄に謀反の噂が伝えられた。
「殿下、その噂、吉備笠臣垂(きびのかさのおみたる)が持って参りました」
「吉備笠臣垂から石川麻呂にその噂を伝えさせよ」

鎌足から命を受けた吉備笠臣垂が、朝堂で執務を取っていた石川麻呂を訪ねた。
「右大臣、古人大兄様が、新政府を転覆させようと企んでいるようです、お気をつけなされ」
「何っ、それは本当か」
「噂だけかもしれませんが、火のないところに煙は立たないと申します」
「吉野に行って、調べてまいれ」
 倉山田石川麻呂は、吉野にいる古人大兄の様子を探るよう命じた。
 吉備笠臣垂は、朝堂を辞退して鎌足の館を訪ねた。
鎌足は既に吉野に使者を送っていた。
その内容を誇張して、吉備笠臣垂に伝えた。
「そちは、吉野に行かずにこのことを右大臣に伝えよ」
翌日の昼。吉備笠臣垂は、石川麻呂に会った。
「右大臣、蘇我田口臣川堀、物部エノイノ連シカや漢直たちが古人大兄皇子を担ぎだそうとしているようです」
「また、漢直たちか」
「はっ」
「苦労であった、下がってよい」
 倉山田石川麻呂は、孝徳に急ぎ伝えた。
 孝徳は、中大兄を呼んで古人大兄の謀反のことを話した。
「お上、早くしないとお命が危のうござります」
 孝徳は、しばし目を閉じた。
「早く吉野へ兵を送って、討ってでよ」
「承知いたしました」
 中大兄は、館に戻って、吉備笠臣垂を呼んで、古人大兄の討伐の将軍を命じた。
 吉備笠臣垂が、立ち上がろうとすると、中大兄が言った。
「ちょっと、待て」
「はつ」
 吉備笠臣垂は、座りなおした。
「我の兵も連れて行け」
「ありがとう存じます」
 中大兄は、近習の者に、兵を集めるよう命じた。
翌日、朝。吉備笠臣垂は、六百の兵を従え吉野に向かった。
二刻ほどで、吉野に入った。
「皆の者、敵は古人大兄様のみぞ。ぬかるでない、攻めろ」
「オー」

 一方、古人大兄の館では、使者が古人大兄に非常事態を伝えた。
「古人様、吉備笠臣垂が攻めてきました」
「なに、奴め、謀ったな」
 古人大兄は、すぐに甲冑を身にまとった。
「古人様、すでに敵に取り囲まれています」
 古人大兄は、一人自分の部屋に入って、自決した。

 中大兄は、気の許せない敵手であった古人大兄を葬って、ほくそ笑んだ。
(これで、改革をさらに推し進めるのに邪魔が一人減った)
 朝堂に僧旻を呼んで、今後のことについて相談した。まずは、地方にいる反対派を抑えるために孝徳に国宰への詔を発することにして、その案を僧旻に命じた。
 翌日、
「古より、天皇の御世ごとに、名代の民を置いて、御世にその名を伝えた。臣、連、国造たちは、自分の民を置いて欲しいままに使ってきた。また、山海、林野、池、田を自分の財産としてきた。今後は、臣、連、国造たちは、まず自らの分を収め取り、それから民に分けることにする。今後は、『上を敬い、下を益す制度を守り、民を傷つけないこと。今なお、貧しい人民に、勢力のあるものは、田畑を貸し与え、搾取してはならない。そして、勝手に主人となって、人民を支配してはならない』以上、くれぐれもこのことを守るべし」と書かれた天皇の詔を持って、諸国に使者が走った。
 諸国の民たちは、喜んだ。
「さすが、今度のお上は今までと違う」
「いや、中大兄皇子様だ、蘇我氏を滅ぼしただけの御器量があるのさ」
 明日は、正月元日という切羽詰まった年の暮れ、中大兄の館では、朝から鎌足、左大臣の阿倍仲麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂、国博士の旻法師そして、高向玄理が集まって、明日発する詔について、打ち合せていた。
 外が闇に包まれ始めた。
「私が、お上に奏上したのちに、右大臣にこの詔を読み上げていただきたい」
「殿下、承知いたしました」
 
翌日、大化二年(六四六)正月元日。
朝廷では、恙なく賀正の礼を終えると、直ちに昨日完成した「改新の詔」を群臣たちの前で、石川麻呂が読み上げた。
「改新の詔でございます。その一、屯倉や臣・連・国造の所有している田や田を廃止する。
・・・・・・・・・」

 二月中ごろ、孝徳は、中大兄が奏上したことを、右大臣に告げた。
「私が聞くところでは、明哲な治政とは、人民の苦しみを理解し、家を往来に造って道行く人の誹謗を聞くことである。そのため、困った人や、諌言する人が上表文を櫃に投げ込めるよう鐘をかけ櫃を設ける。
そして、上表文を回収し、私が読み、群臣に調査させる。ただし、名を記した分のみ上表せよ。もし、群臣たちが怠けて、丁寧な対応をしなかったり、片方だけにおもねって味方したり、また私が諌言を聞き入れない場合には、困って訴えようと思う人は、鐘を打てばよい。良いか、くれぐれも公平、平等を先にせよ」
 半年が過ぎた。
 中大兄は、鎌足を呼んで聞いた。
「鐘櫃の訴えは、何かあったか」
「はい、民は、飢えで疲弊しているのに、雑役をやらされていることに不満と訴えてきている者が多ございます」
 鎌足は、干ばつで、農作物が昨年より六割ほどの収穫で民たちは食物が手に入りにくく、飢える民が全国に多くいることを詳しく説明した。
「分かった。すぐに雑役をやめさせるよう左大臣に命じよう」
 中大兄の行動は、早かった。
 
そして、大化四年(六四八)。中大兄は、二十二歳になっていた。
 中大兄は、従来の冠位十二階を改訂し、従来冠位外とされていた大臣(おおおみ)の大紫冠を冠位に組み込んだもので、冠位十三階とした。
 改革が進んでくると、反対派は危機感を募り、いろいろな画策を講じてきた。
 そのような時、左大臣阿倍仲麻呂がこの世を去った。
 中大兄は、未だ仲麻呂の死を嘆いていた時、
「殿下、右大臣が、謀反を起こそうと企んでおります。殿下が海に遊行に行かれる時、殺害を計画しております。十分お気を付け下さい」
 倉山田石川麻呂の異母の弟にあたる蘇我日向が、言って来た。
「何を申す、倉山田石川麻呂が、謀反を起こすわけがない。下がれ」
 中大兄は、日向が帰った後、しばらく考え込んだ。
(使者を送って、真意を確かめてみよう)
 
 使者が、倉山田石川麻呂の伝言を持って、戻ってきた。
「石川麻呂様は、ご質問の返答はお上の前で直接申し上げますと言われました」
 中大兄は、怒った。
(なぜ、私に言えないのだ。この私にたてつく気か。やはり、蘇我一族は、天皇家に再び食い込もうとしているのか。いや、一族の葛藤か。どちらにしても、この機会に、蘇我一族の長である倉山田石川麻呂を叩いてしまおう)
翌日、中大兄は、孝徳の面前にて、倉山田石川麻呂謀反ありと伝えた。
「中大兄、倉山田石川麻呂を征伐しなさい」
 孝徳は、命じた。
 中大兄は、大伴狛連を大将軍に命じ、将軍に蘇我日向を命じた。
 大軍が、倉山田石川麻呂の館を包囲した。
 石川麻呂は、我が子二人を連れて、裏山から逃げ長男の興志(こごし)の館に向かった。

「なに、父上が皇子の手に追われていると!」
 興志は、山田寺を造っていた館で使者を迎えた。
「すぐに父上を迎えに参るぞ、軍を起こせ」
 近習の者に伝えた。
 陽が山際に、かかり始めていた。
「父上の弟、蘇我日向殿が将軍ですぞ。姉君まで奪い取って。人でなしめが」
 石川麻呂の唇は震えていた。
「父上、なぜ皇子が父上を討たなければならないのですか?そんな無体なことを。私が、日向の軍を迎え討ちましょう」
「興志、もういいのだ。皇子は、儂が邪魔になったのだ」
「父上、悔しいです」
 興志は、涙した。
 石川麻呂は、興志を説得して、完成に近い山田寺に入った。
 山田寺は、舒明天皇十三年(六四一)より、整地工事を始め、二年後の皇極天皇二年(六四三年)には金堂の建立が始まっている。そして、今は、石川麻呂の一族によって、仕上げの工事が行われた。
 石川麻呂は、金堂に僧たちを集めた。
「私がここに来たのは、最期は安らかに迎えんためである。決してお上を恨むものではない」
 そして、僧たちを外に出して、蘇我倉山田石川麻呂一族は、自害した。

 中大兄の妃、遠智姫(おちのいらつめ)は石川麻呂たちの最期を聞き、号泣した。
「殿下、なぜ父上を攻めたのですか。兄弟までも自害してしまったとは」
「妃、石川麻呂は、私の命を狙っていたのだ。やらなければ、やられていた」
「そんな、父上が、殿下のお命を狙うなんて、嘘です」

 遠智姫は、悲しみに明け暮れとうとう傷心がいやされること無く、この世を去った。
 そして、白雉元年(六五〇)二月九日。
 穴戸の国宰が、群臣たちが見守る中、孝徳に白雉を献上しに大極殿に参上した。
 厳かに、献上の儀は終わった。
旻法師が、孝徳の前に進み出て、礼をして言った。
「王者の治政が四方にあまねくゆきわたると白雉が現れるのです。お上は人徳があり聖人である証なのでございます。おめでたいことでございます」
 孝徳は、白雉と年号を改元した。

 白雉二年(六五一)、十二月晦日。
 孝徳は、難波長柄の新宮、味経宮((あじみのみや)に遷った。
その五日後、孝徳は、宮に二千人余りの僧尼を招請して、庭に三千の灯火をともし経を読ませた。
中大兄、鎌足そして、国博士は、一年をかけて、戸籍と班田収授の法を作り始めていた。


  そして、白雉三年の夏。
 雨が降り続き、川は氾濫し、田は水浸し、崖は崩れ、家々はつぶされ、人馬が死んで行った。
 このような時期に、中大兄は、孝徳に戸籍法を上申した。
「お上、この法は、五十戸を里とし、里ごとに長一人を置きます。戸主にはすべて家長をあてます。戸はすべて五家で隣保を作り、一人を長として互いに見張らすのです。これによって、安定した国が作れます。」
「皇子、国宰に使者を使わそう。下がってよい」
 孝徳は、腹が立ってきた。
(私は、中大兄皇子の言いなりではないか)

 一方、中大兄は、大化の詔から七年、やっと苦労が実ったと喜んでいた。
 その後も、中大兄は、独断で政を推し進めて行った。
 
白雉四年(六五三)五月、孝徳と中大兄は、安曇の寺で床に臥せっている旻法師を見舞った。
「お上、皇子。わざわざ来ていただき・・・・」旻法師は、起き上がろうとした。
 中大兄は、それを押さえて、
「もしお前が今日死ねば、私も法師に従い明日死ぬであろう」
 と言って、旻法師の手を取りながら涙した。
 一か月後、旻法師は、他界した。
中大兄は、海外から学ぶことも無くなったので、難波から飛鳥への遷宮を考え始めた。
「皇子、飛鳥へ行くことは許さんぞ。もし、行くならば私は、皇位を去る」
 孝徳は、意地でも難波の地で政を行うと主張した。
「お上、何を仰せになるのですか」
 中大兄は、説得を試みたが、孝徳が承知しなかったので、孝徳の反対を押し切り皇極、孝徳の妻間人皇后や多くの群臣を引き連れて、飛鳥に勝手に移った。
 孝徳は、それを知って激怒したが、中大兄の専横に対しては、なすすべはなかった。
 翌年、孝徳は、心身の苦労のため、難波で寂しく息を引き取った。

 中大兄は、孝徳の死を知り、皇極に再度皇位についてもらうよう上申した。
 皇極は、中大兄が皇位を継承するのが順当であると固辞していたが、再三にわたる中大兄の説得で白雉六年(六五五)、皇極は、名を代え斉明として即位した。
 半年後、飛鳥の岡本に宮殿が完成し、斉明はそこに移った。
 斉明は、これをはじめにいろいろな土木工事に手を出した。
まずは、香具山から石上山まで溝を掘らせ、それに水を通し、舟二百隻に石上山の石を運ばせて、岡本宮の石垣を造らせた。
 多くの民たちは、
「お上は、気が狂ったようだ。疲弊した我々十万人を使役させた」
 石垣の完成から間もなく、斉明の岡本宮が炎上した。
「誰が火付したのか、皇子、徹底的に探しなさい」
「お上、承知しました」
(改新の詔の意味が無くなってしまう)
 中大兄は、斉明が自分の気持ちを察してくれないことを苦々しく思っていた。
 そして、斉明が行った。
「皇子、新しく吉野に宮を作るから手配をしてください」

 中大兄は、斉明にこの四年間振り回され続けていた。
政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に行っていた孝徳天皇の子、有間皇子は飛鳥に帰って来た。そして、吉野宮を訪れた。
「お上、おかげさまで病気が完治しました」と斉明に伝えた。
「よく来てくれました」
有馬は、療養していた牟婁の湯の素晴らしさを話して聞かせた。
中大兄は、有馬が戻ってきたことを聞き、危機感を持った。
(有馬皇子が、政に口を出すに違いない。このままいくと、お上は、皇子に皇位を継承させるかもしれない。何とか早く手を打たねば)
 中大兄は、蘇我赤兄を呼び、有馬の失墜させるよう命じた。

中大兄は、斉明のお供で、牟婁の湯に行った。
一方、命を受けた蘇我赤兄は、飛鳥に残っていた有間皇子に近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は有馬の味方である事を伝えた。
「皇子、お上の政事に三つの過ちがあります。民の財産をいやおうなしに造った蔵に集めたことが一つです。二つ目は、あまり必要もない長大な溝を作らせて、三つ目は、それを利用して多くの石を舟で運ばせ石垣を作らせたことにより、より民を疲弊させました。このような狂ったことをこれ以上させてはいけません。私もお味方いたしますので、是非お立ちあがり下さい」
有馬は喜んだ。
「赤兄分かった。良く言ってくれた」
有馬は、赤兄に斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。
有間は、確信した。
(母の小足媛の実家の阿部氏の水軍をもって、お上達を急襲すれば絶対に勝てる)
赤兄は、すぐに中大兄に有馬の謀反を文にして送った。
中大兄は、すぐにその文を斉明に見せた。
二日後、有馬は、天空に光が走ったのを見て、不吉な予感を感じたため、謀事を中止することを館に呼んだ赤兄に伝えた。
赤兄が帰った後、有馬は寝入った。
夜の静けさを破る近習たちの大声で、有馬は目を覚ました。
「何事だ」
「皇子を捕縛しに赤兄が、館を兵で取り囲んでいます。さあ、御仕度を」
「ばた、ばた」
「おとなしくしろ」
「お前たちの目的はなんだ」
「静かにしてください、謀反の疑いです」
 有馬は、中大兄に尋問されたが、
「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ。ぬれぎぬだ」
  と答えて、後は黙しているのみであった。
  二日後、一番重刑の晒し首にされた。

ほっとする暇もなく、中大兄は国宰から沿海州の外敵が、蝦夷の地に侵攻してきたとの報告を受けた。
「阿倍比羅夫を呼べ」
 宮殿に来た阿倍比羅夫に、外敵の討伐を命じた。
「比羅夫、日本海側に設けてあるヌタリノ柵、イワフネノ柵に越後国守として参って、外敵を討伐しろ」
「殿下、承知いたしました」
 
 比羅夫は、舟軍二百艘を率いて、秋田、能代まで進んで、外敵を殲滅させた。

 一方、中大兄が、国内問題に振り回されている間、中国、朝鮮半島情勢は進展していた。
翌年、斉明は、遣唐使を派遣したところ、唐は東征の準備に入っており、その遣唐使たちは
長安に抑留されてしまった。
その後、百済は、唐と新羅の軍によって、挟撃された。
斉明に百済の使者が、支援を求めに宮殿を訪れた。
 水時計(漏刻と呼ばれていた)を造ろうと屋外にいた時、
「殿下、お上がお呼びです」
 近習の者が、走って来て伝えた。
 大極殿に中大兄は、急いだ。

 斉明が、朝鮮半島の情勢を説明して、
「皇子、出兵しますぞ。準備せよ」と、命じた。
「お上、承知いたしました」
 中大兄は、大規模な動員に一年余り準備を要し、そして、斉明と伴に、筑紫の朝倉宮に軍を進めた。
 しかし、斉明は、旅の疲れから病を患い、床に臥せった。
「皇子、私はもうだめです。後を頼みます」
 斉明の顔は、やつれて生気を失っていた。
「気をしっかりお持ちください。ごゆっくりお休みになればお元気になります」
 中大兄は、斉明の命がもう長くはないことを悟った。
それから毎日、祈祷師が、斉明の平癒を祈り続けたが、その甲斐も空しく、五日後、斉明は崩御した。
中大兄は、皇位を選ばずまた自身は、称制という形で実権を握って政治を代行することにし、まず、博多湾岸に長津宮を造営し、そこで大本営として指揮を執った。
中大兄は、大錦中安曇連を大将軍に命じ、百七十隻の大軍を朝鮮半島に送るとともに、日本に人質として来ていた豊璋を再建した百済の王とした。
第六話。惨敗

 六六一年正月、ついに中大兄は、皇位についた。天智の誕生であった。
 しかし、朝鮮半島では、風雲急を告げる状況であった。
三月、百済は、新羅軍に攻められ苦戦をし、日本に援軍を求めてきたので、将軍に任命された阿倍比羅夫は、二万七千人の兵を率いて出発した。
百済では、豊璋が福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、日本国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
百済の再起に対して唐は増援の水軍七千の兵を派遣した。唐・新羅連合軍は、水陸併進して、日本国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。百七十隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して日本国軍を挟撃した。比羅夫は、中大兄に援軍を要請するために使者を日本に送った。
 中大兄は、要請に応え、廬原君(いおりはらきみ)を将軍として、一万の兵を送った。
日本国と百済連合軍は、白村江への到着が十日遅れたが、皆相手を飲んでいた。
唐軍は、既に船軍の配置を終えていた。
その状況を知っていたにもかかわらず、
「我等先を争はば、敵自づから退くべし」と比羅夫は、号令を発し、
唐・新羅連合軍のいる白村江河口に対して突撃した。
しかし、日本国軍は三軍編成をとり四度攻撃したが、干潮の時間差などにより、六六三年、唐・新羅水軍に大敗した。
百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した千隻余りの日本国船のうち四百隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられた。白村江で大敗北した日本国水軍は、各地で転戦中の日本国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。 
六六三年もう暮れの時、中大兄は、白村江の敗戦を聞いて愕然とした。
(奴らは、勢いに乗って、攻めて来る。何とか、防がなければ、皆殺しに会うぞ)
唐・新羅の侵攻を怖れて、北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。
次々と、百済から亡命の民が、舟でやって来た。
「鎌足、唐が攻めて来るぞ。ここでは危ない。都を内陸の近江に遷都しよう」
「殿下、ここで逃げては民の信を得られません。ここにとどまって下さい。」
 鎌足が引きとめるのを、振り切って近江に遷都した。
 遷都を願わない民たちの火付と言う暴挙が、あちらこちらで起こった。
 それには構わず、中大兄は、近江宮の防備に三年間専念した。
近江も落ち着きを取り戻した頃、
「殿下、この機に即位したらいかがでしょうか」
鎌足が、具申した。
「万民も落ち着いてきたようだ、そう致そう」
 六六七年正月、中大兄は天皇に即位し、天智と名のった。
 天智天皇、四十三歳であった。
  この年、天智の弟、大海人の妻の額田王が、十市皇女を産んだ。
 それを知って、天智は、お祝いに行ったところ、額田王に一目惚れしてしまった。
 ふっくらした頬、穏やかな目、情熱的な唇そして、知的な鼻筋、天智は、数日後に、額田王を閨に誘い、そのまま、宮中で働かせた。
 天智には、この時、古人大兄の娘を皇后として他に九人の妻がいたのだが。
 数日後、浜楼で天智は宴を催した。
天智は、機嫌よく酒を飲んでいた。その時、大海人が、槍を持って天智の前に立った。
「お上、人の妻をなんと心得る。人としてあるまじきことを」
槍を振り回し、床を刺し抜いた。天智は、盃を落とし、驚き床を這いつくばって逃げようとした。
「皇子、お待ちください。今日はめでたい宴席、お静まりなされ」
 鎌足が、大海人の腕を掴んで言った。
 しばらくもめたが、腕力の強い鎌足に槍を取り上げられ、大海人は、悔し涙を見せて部屋を出て行った。
(お上は、石川麻呂の姫君の事件より、おかしくなりあそばれた。だんだんひどくなってきた)
 鎌足は、自責の念にとらわれた。
 この事を、額田はすぐに知った。
(大海人様は、それほどまでに私を思って下さったのか)
額田は、天智の目を盗んで、大海人と逢瀬を楽しんだ。大海人の館で人目を憚ることなく、酒宴に出るようになっていた。
天智は、額田の行動に気づき、鎌足を呼んだ。
「額田の行動を逐次見張って、一部始終、私に知らせるよう」
命じた。
「お上、承知いたしました」
(お上の嫉妬心にはいささかまいる。いつか、大海人皇子の怨みから、お上に何かなければよいが)
 鎌足は、心配になった。
 数日後、天智に鎌足が宮中に報告に来た。
「お上、大海人様と額田王は、ただ会って、酒を飲んでいるだけのようです。そのようなたわいもない時を過ごして、歌を互いに詠んでいました」
「どんな歌を詠んでいたのだ」
「はい。‘あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る’それに大海人様応えて‘紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも’と詠われました」
「なんと、それは二人の愛を確かめ合っているのではないか」
「お上、お気に召されるな。天皇は、寛容な心をお持ちのはずです」
第七話。無念
 六六九年十月庚申の日(十五日)
 天智は、昨月病に倒れた中臣鎌足を見舞った。
 鎌足が憔悴していたのに、驚いた。
「鎌足、気をしっかり持て。天道は、仁徳を備えた者を助けるものだ。善行を積み重ねた者には、幸福が持たされるものだ。何か必要なことがあれば、すぐに申し出るがよい」
 鎌足の手を取って、言った。
「私は、全くの愚か者です。申し上げることなど何もありません。ただ、葬儀は簡素にしてください。存命中、国の軍事に責務を果たしておりませんのに、死去に際してまで、お上を煩わすことはできません」
 鎌足は、天智から顔をそむけた。
「もういい、静かに休め」
 天智の頬に一筋の涙が流れた。
 翌日、天智は鎌足に藤原の姓と大臣の位を授けるため、鎌足の館に使者を出した。
 
 その五日後、妻の鏡王女(かがみのおおきみ)や息子の不比等たちに見守られて、鎌足は五十六歳の生涯を閉じた。
 不比等は、一日中泣きじゃくっていた。
「不比等、いつまでも泣くではない。早く、お上に伝えてくるのです」
 鏡王女は、しっかりと不比等に命じた。
不比等は、下僕に馬を引かせ宮に行った。
 
「天はなぜ、鎌足をもう少しこの世に残さなかったのか、哀しいことだ」
 天智は、不比等から話を聞き、嘆いた。
(お上は、本当に父上を信頼していたのだ)と、不比等は、父鎌足に嫉妬するとともに、父親への尊敬の念を持った。
「不比等、父上に負けず、勤めに励めよ」
「有り難きお言葉、承知いたしました」
 不比等は、天智が部屋を出るまで、笏を両手に低頭し続けた。
 
 翌年、天智は、鎌足と作り続けていた庚午年籍を施行し、国宰に盗賊と浮浪者を取り締まるよう使者を各地に送った。
 六七〇年四月の末、雷雲から、光を発するや否や、雷鳴とともに法隆寺から火柱が立った。
 天智は、蚊帳に入って雷鳴が遠ざかるのを待った。
しばらくして、あっという間に、寺は、半焼したと、使者が天智に報告に来た。
 その後、大雨が降り、地震が起こりよからぬことが続いた。
 天智は、大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄を左大臣、そして右大臣を中臣金連と人臣の一新を図った。
 
六七一年、近江令を施行したのち、天智は病に倒れた。
 床に臥せった天智は、近習の者に大海人を呼んで来るようにと命じた。
「兄上様、いかがいたしましたか」と息を切らせてやってきた大海人がいった。
「私はもう長くはない。後事をお前に託したい。頼む」
 大海人は、天智の真意を読み取り、天智のさらに近づいていった。
「私も病です。大友皇子に託してください。私は、お上の平癒を祈念するために、出家いたします」
(ここは、大友に譲らないと、何をされるかわからない。もうしばらく待てば、奴にとって代わることができる)
「そうか、分かった。大友を頼んだ」
 と言って、目を閉じた。

 天智は、弟の大海人が、息子の大友より権謀術策に優れていることが心配の種であった。
 大友皇子は、皇位継承して、弘文天皇となったのを天智は見届けたが、
十二月三日、翌年の壬申の乱によって、大海人が弘文を破って勝利し、天武天皇となることを知らずに、天智天皇は四十六歳の一生を閉じたのであった。


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