いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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木村カエラ 「Snowdome」「You」「Level42 」「happiness!!!」

2024年12月29日 08時10分26秒 | 音楽

木村カエラ 初期名作集

 

「You」と「Snowdome」が最高の名曲

シングル「リルラ リルハ」 2005年3月30日、

「You」 2006年1月18日。

「Snowdome」2007年1月17日。JR東日本「JR SKISKI」CMソング(本人もCMに出演)。

ボーダフォンのCM「リルラ リルハ」で初めて注目した。シングル発売は3月だが、CMは2005年の初めだろうか。2006年新春に「You」がチャート番組で流れているのを聴いていい曲だと思った。

その後、アルバム「KAELA」「Circle」をレンタルコピーして、2012年に車の内蔵メモリーに入り、癒されている。

10年ほど前、you tubeで「TREE CLIMBERS」を見ていたら、この曲を桑田佳祐が21世紀最高のJロック曲と評価していることが評判になっていて、21世紀になってまだ10年も経っていないし、まだ名曲はでてくるだろうし、木村カエラには別の名曲もあるのにと、笑ってしまった。

2003年3月31日、テレビ神奈川(tvk)制作の朝の音楽情報番組『saku saku』でテレビ初登場。以後、2006年3月まで番組MCを務めた。『saku saku』はちょうどyou tubeが登場した2006年ごろからyou tubeで録画がupされていたのを見ていたし、最後の頃は実際にテレビで見たこともあった。2007年にライブを3回見た。

「butterfly」(2009年6月)は紅白に出場できた代表曲だが、名曲ではない。「リルラ リルハ」も飽きてくる。

初期名作集② 

You

リルラ リルハ

Twinkle

トゥリル トゥリル リカー

C-hildren

Dancing now

I ♥ hug

tea cup

はちみつ

 

初期名作集① 「Whatever are you looking for?」「Level42 」「happiness!!!」

「Whatever are you looking for?」思い思われて人は通り過ぎて

「Level42 」 心と身体がバラバラで 誰かのフリしたっていいじゃない

「happiness!!!」いつも幸せに抱かれたい

「untie 」こんなはずじゃない まだ未完成な私 伝えたいこと やりたいこと

「誰」

「You know you love me?」

「INVENTOR」

「あの頃」

シングルリリース:「Level42」2004年6月23日、「happiness!!!」2004年10月27日。

アルバム「KAELA」リリース: 2004年12月8日

 

 


山形県鶴岡市 致道博物館③重文・旧渋谷家住宅 田麦俣の多層民家

2024年12月28日 08時49分52秒 | 山形県

致道博物館。山形県鶴岡市家中新町。

2024年9月11日(水)。

 

美術展覧会場。

婦人図(横光利一夫人)。荒井篁一郎。

重文・旧渋谷家住宅。

出羽三山のひとつ湯殿山麓の山村、鶴岡市(旧朝日村)田麦俣1822年(文政5年)に建てられた多層民家である。一重三階寄棟造茅葺き。

深い雪と山峡の険しい土地に建っていたため、生活に適応して3層4層に空間を求めたつくりとなっている。田麦俣には、谷あいに数多くの多層民家がみられたが、急速に姿を消したため、1965年(昭和40年)に当地へ移築された。

明治以降、養蚕を生業としたため、2階3階や屋根裏部屋までも養蚕などの作業場・収納場として有効活用していた。これに伴い、通風や採光を目的とした高ハッポウとよばれる高窓が取り付けられ、その結果、妻の部分の屋根を切り上げた独特の形状である兜(カブト)造りといわれる均整のとれた美しい茅葺き屋根となった。

茅葺屋根の防虫を目的とした火焚き(囲炉裏に火を入れ、煙で燻す作業)が毎年1月から3月頃までの期間で行われている。

 

重要有形民俗文化財収蔵庫。

当館で収蔵している民具のうち、次の8件5,350点が重要有形民俗文化財に指定され、「庄内の米作り用具」を除き、この収蔵庫で展示されている。

1)「庄内地方のバンドリ」116点(1963年指定)

2)「庄内地方の木製酒器」77点(1964年指定)

3)「庄内地方の仕事着」126点(1966年指定)

4)「大宝寺焼」234点(1967年指定)

5)「庄内山村のくりもの」250点(1972年指定)

6)「庄内浜及び飛島の漁撈用具」1,937点(1975年指定)

7)「最上川水系の漁撈用具」810点(1982年指定)

8)「庄内の米作り用具」1,800点(1990年指定)

16時ごろ入口方向に戻る。

このあと、近くにある鶴岡カトリック教会天主堂へ向かった。

山形県鶴岡市 致道博物館②重文・旧鶴岡警察署庁舎 御隠殿 鶴ヶ岡城 酒井玄蕃

 


プーチンのロシア独裁国化の方法と国民意識への帰結

2024年12月27日 17時14分22秒 | 社会

プーチンのウクライナ攻撃を支える“まさかの世論”…ロシア国民の本音がヤバすぎた

Yahoo news  2024/12/27(金)   ダイヤモンド・オンライン 駒木明義

 

2024年3月の大統領選挙で圧勝し、最長で2036年まで大統領を務めることが可能となったプーチン大統領メディア弾圧や選挙制度の操作など、彼はいかにしてロシア国民を“骨抜き”にしてきたのか。

※本稿は、駒木明義『ロシアから見える世界 なぜプーチンを止められないのか』(朝日新書)の一部を抜粋・編集したものです。

 

自由なメディアを潰し首長選挙を形骸化 プーチンによって民主主義が失われた

茶番と化したのは、大統領選だけではない。より根本的な問題は、言論の自由、情報公開、地方自治、政権を監視するメディアや議会の存在といった、民主主義が健全に機能するために必要不可欠な前提条件が、プーチン氏の統治のもとですっかり失われてしまったところにある。

 

プーチン氏は2000年に大統領選に初当選したころは、エリツィン前大統領の路線を受け継ぐ西側志向の指導者だと受け止められていた。しかし、民主主義の形骸化を進めたという点については、プーチン氏の姿勢は、政権の座についた直後から一貫していた

2000年に大統領に就任したプーチン氏が真っ先に標的にしたのは、自由なメディアだった。チェチェン紛争の悲惨な実態を伝える報道辛辣な政治風刺番組で人気を集めていた民間テレビ局NTVは、オーナーが詐欺などの嫌疑をかけられて追放され、政府系企業の傘下に入った。

日本の都道府県に相当する、州や地方といった「連邦構成主体」の首長選挙は、2004年9月にロシア南部北オセチア共和国のベスランで起きた学校占拠テロを機に廃止され、大統領による任命制が導入された。

首長公選制は2012年に復活した(一部の地域では、議会による間接選挙制)が、実態としてはその後も大統領による事実上の任命制が維持されている。

その仕組みはこうだ。政権が首長を交代させたいときには、まず現職に辞任させ、プーチン大統領が意中の候補を首長代行に任命する。このため首長代行はその後に行われる本番の選挙に、事実上の現職として臨むことができる。

つまり日本とは異なり、首長が任期途中で退陣した場合、後任を選ぶ選挙は新人同士の争いにはならないのだ。こうして選挙は形式的な信任投票の色彩が濃くなる。

実態として、プーチン政権下で、首長職は大統領府が任命権を持つ重要ポストの一つという扱いになっている。そんな首長たちが政権にたてつくことなどあり得ない。

大統領府から任命された首長たちは、常時大統領府から厳しい査定を受けている。大統領選や議会選での投票率や与党候補の得票率は、特に重視されているようだ。

 

チェチェン攻撃にはあった議会からの弾劾 プーチン政権下では想像さえできない

かつては大統領と激しく対立することもあった議会も巧妙に手なずけられた。2007年の下院選を機に小選挙区制が廃止され、比例代表区で当選に必要な最低得票率が5%から7%に引き上げられた

これによって、一部の地方で個人的な人気がある反政権派の有力政治家や、小政党が締め出された。その後、選挙制度はほぼ元に戻されたが、すでに批判勢力が議席を獲得することは困難な状況となっていた。

プーチン氏の前任のエリツィン時代、大統領と議会の関係はまったく異なった。エリツィン氏は下院から3回も重大犯罪を理由に弾劾の手続きを受けた。

特に1999年のケースがよく知られている。今はすっかり牙を抜かれてしまった共産党が、エリツィン氏への弾劾手続きの音頭を取った。問われた罪状は5件。その中には、エリツィン氏が1994年12月に開始したチェチェンへの大規模な攻撃も含まれていた。

共産党はこの紛争を引き起こしたエリツィン氏の大統領令について「多数の犠牲者をもたらした犯罪行為だ」と主張した。

1999年5月に行われた下院での採決の結果、定数450のうち過半数の284人が弾劾に賛成票を投じた。しかし、手続きの継続に必要な300票には届かず、弾劾には至らなかった。

大統領令で始まった軍事行動に対して下院から犯罪に問う声が上がること、ましてそれが過半数の賛同を集めることなど、今となっては想像もつかないことだ。

プーチン氏はこのとき、KGBの主要な後継組織として国内の治安を司る連邦保安庁(FSB)の長官を務めていた。弾劾のなりゆきをつぶさに観察していたプーチン氏が、議会を政権に逆らえない存在にする必要があると痛感したことは間違いないだろう。

2011年の下院選では、不正疑惑に怒った市民がモスクワなどで大規模な抗議デモを行った。その翌年、プーチン氏が4年ぶりに大統領に復帰すると、選挙監視団体などを「外国の代理人」に指定する制度が作られ、活動が抑え込まれた。

「外国の代理人」制度は、導入当初は外国からの資金援助を受けてロシア国内で政治的な活動をするNGOが対象だった。それが2017年にマスメディア、2019年に個人へと対象が広がった

さらに2022年2月のウクライナ全面侵攻開始後、資金提供の事実を立証できなくても「外国の影響下にある」と政府が認定すれば指定できるようになり、侵攻を批判するジャーナリストや文化人らが軒並み指定されてしまった。

政権にとって目障りな有力者に好き勝手に「非国民」のレッテルを貼るための制度と化してしまったのだ。

 ちなみにロシア語で外国の代理人は「иностранный агент」と書く。「агент」は英語の「agent(エージェント)」に相当する。「スパイ」や「工作員」といった語感を持つ言葉だ。

 

プーチンが絶対権力を手にした結果 国民は国家に対して無責任になった

一連の動きに通底するのは、民主主義やそれを支える制度の背景にある思想や歴史を軽視し、形だけのものだと冷笑的に理解し、操作する対象としてとらえる傾向だ。これは、プーチン氏がKGBで工作員としてのキャリアを積んだことと無関係ではないだろう。

ロシアでは本来違法とされている民間軍事会社「ワグネル」を設立し、個人的な友人だったプリゴジン氏をトップに据え、軍が表立って行えないような工作や作戦に従事させたことも、民主主義の軽視と同根だ。

 

2020年にプーチン氏が進めた憲法改正は、こうした取り組みの集大成と言えるかもしれない。これまでの大統領任期をいったんリセットすることで、プーチン氏がさらに2期12年、最長で2036年まで大統領を務めることを可能にしたほか、大統領経験者の生涯にわたる不逮捕特権が新設された。

「祖国防衛者の記憶の尊重」や「歴史的真実の保護」を国家の責務と位置づける条項も導入された。その背景には、ソ連をナチスドイツと並ぶ占領者としてとらえるバルト三国や旧東欧の国々の歴史観への反発がある。政権とは異なる歴史解釈を許さないという考えは、ウクライナ現政権への「ネオナチ」のレッテル貼りに通じる。

「在外同胞の権利を擁護し、ロシアに普遍的な文化的アイデンティティーを維持することを支援する」という新たに盛り込まれた条項も、ウクライナ全面侵攻への道を用意する役目を果たしたと言えるだろう。

改正憲法には、プーチン氏が近年重視している復古主義的な道徳観の数々も盛り込まれた。

 

すでに四半世紀に及んでいるプーチン氏による統治の深刻な帰結は、ロシアという国家の行為に対して、国民一人ひとりが責任を負っているという自覚の欠落だ。

ウクライナ戦争についての世論調査がそのことを浮き彫りにしている。

2022年12月にレバダセンターが「ウクライナで起きている一般住民の死や破壊について、あなたに道義的な責任があると思いますか」と尋ねた調査では、「完全にある」と答えたのはわずか10%。「ある程度ある」も24%にとどまった。一方で、59%もの人々が「まったくない」と答えたのだった。

もともとロシアの国民は、年金や物価の問題を巡って政権に反発することはあっても、外交や軍事といった分野は自分たちとは関係ないと考える傾向が強い議会、報道機関、地方自治が骨抜きにされて、そうした問題が公然と批判される場がなくなってしまったことで、ますますその傾向は強まっている。


山形県鶴岡市 致道博物館②重文・旧鶴岡警察署庁舎 御隠殿 鶴ヶ岡城 酒井玄蕃

2024年12月27日 10時05分01秒 | 山形県

致道博物館。山形県鶴岡市家中新町。

2024年9月11日(水)。

重文・旧鶴岡警察署庁舎

旧鶴岡警察署庁舎初代県令三島通庸が、明治新政府の指導の下で新しい秩序を作り、庄内の近代化と復興を勧めるために建築したものである。欧化政策が積極的に進められた山形県の擬洋風建築を代表する建物の1つで、和風と洋風の要素を巧に融合させており、明治前期に各地の工匠によって建設された擬洋風建築の1つの到達点を示すものとして、高い価値をもっている。

旧鶴岡警察署庁舎は、1884年(明治17)11月、鶴岡市の馬場町に完成した。設計・施工は大工棟梁高橋兼吉があたった。

建物は、桁行18.2m、梁間12.9m、木造2階建て中2階建築面積238㎡延床面積378㎡高さ19mの木造2階建ての擬洋風建築で、入母屋造りの堂々たる外観を示している。

1階は署長室と事務室、中2階に留置室、2階には取調室があった。2階正面中央にはベランダを突出して設けている。

木造入母屋造りの建物は、屋根の大棟、破風妻飾りなどの在来様式に、ベランダや車寄せ、下見板張り。上げ下げ窓などの洋風建築を取り入れており、明治新政府の警察署としての威厳が感じられる。

1957年(昭和32年)に現在の致道博物館内に移築保存された。

2018年までに大規模な保存修理工事を行った。工事中の調査によって建物当初の姿とその後の変遷が明らかになった。取調室の復旧や外部の塗装色の復元(白→水色)が行われた。

御隠殿(ごいんでん)。

御隠殿1863年(文久3年)に庄内藩の江戸中屋敷を解体して、その一部を鶴ヶ岡城三の丸の御用屋敷地に移築したもので、木材や瓦などは、江戸から西廻り航路で酒田へ、さらに川船を利用して鶴岡へ運ばれた。帰郷した九代藩主酒井忠発(ただあき)が隠居所とした。現在は玄関と奥の座敷(関雎堂)が残り、関雎堂からは酒井氏庭園を望むことができる。

建物内では、江戸時代の鶴ヶ岡城下の様子を紹介し、庄内地方で盛んに行なわれていた磯釣り関係の資料や旧庄内藩主酒井家に伝わる武具・調度品、歴代藩主の書画などを展示している。

酒井氏庭園は、御隠殿の北面に造られた築山泉水庭で。国の名勝に指定されている。築庭年代は不明だが、典型的な書院庭園とされる。

幕末の名将・酒井玄蕃(了恒、のりつね)。

山形県鶴岡市 致道博物館①西田川郡役所 庄内の縄文遺跡 古代中国から渡来した青銅刀子と石斧


山形県鶴岡市 致道博物館①西田川郡役所 庄内の縄文遺跡 古代中国から渡来した青銅刀子と石斧

2024年12月26日 10時36分23秒 | 山形県

致道博物館。山形県鶴岡市家中新町。

2024年9月11日(水)。

致道博物館は酒田市の本間美術館とともに1980年代初めに見学した。致道博物館は明治建築で有名なので見学したのだが、40年前なので記憶を新たにしたいと思い再訪した。

午前中に鼠ケ関跡や加茂水族館、午後には羽黒山頂の出羽三山神社や麓の国宝・羽黒山五重塔を見学して、14時45分頃に着いた。

致道博物館は鶴ヶ岡城三の丸跡地にあり、かつては藩主の御用屋敷があった。現在は、御隠殿と呼ばれる藩主の隠居所の一部と酒井氏庭園に加え、広大な敷地を利用して旧西田川郡役所、旧鶴岡警察署庁舎、旧渋谷家住宅が移築され、さらに収蔵庫・民具の蔵がそれぞれ独立して配置されている。庄内藩校致道館の資料、書院造の庭園、民具など、重要有形民俗文化財8種5,350点を収蔵・展示している。

重文・西田川郡役所。

1878年(明治11年)に山形県初代県令となった三島通庸の命令により、現在の鶴岡市馬場町に建設され、棟梁の高橋兼吉や石井竹次郎らの手により1881年(明治14年)に竣工したルネッサンス風の擬洋風建築である。

中央玄関2階にバルコニー、建物中央に時計塔が付いた木造2階両翼1階建てで高さは20メートルである。

内部は庄内地方の考古学資料などを展示している。

越中山(えっちゅうやま)遺跡。

山形県鶴岡市越中山にある後期旧石器時代から中石器時代にかけての遺跡群の総称。赤川と梵字川の右岸に発達した立岩段丘群中,洪積低位の大鳥苗畑面 (GtII面,標高 100m) と中位の越中山開拓地面 (GtI面,標高 130m) の二つの広大な段丘面に立地している。石器群の包含層はいずれも段丘を覆う鶴岡ローム層の最上部である。 GtII面のA遺跡は,1958年東北地方で最初に発掘調査された旧石器時代遺跡である。その後,致道博物館 (鶴岡市) ,山形大学,朝日村教育委員会が協同調査を実施。少なくとも四つの階程の石器文化が明らかにされており,(1) 国府型ナイフ形石器を主体とするもの (K遺跡) ,(2) 半両面加工尖頭器,ナイフ形石器を伴うもの ( A' 遺跡) ,(3) 細石刃を主体とするもの (S,M遺跡など) ,(4) 両面加工尖頭器を主体とするもの (A遺跡) があることがわかった。

5遺跡からは北海道と同じ作りの石器が見つかっている。K遺跡からは、近畿地方など、西日本に見られる作りの石器が見つかっている。これらから、石器の材料となる石が遠くの地域から運ばれてやって来たと考えられ、当時の人々が大移動をしていたと推測されている。

吹浦(ふくら)遺跡。

牛渡(うしわたり)川北岸台地上にある縄文時代前期末葉~中期初頭の集落跡で、鳥海山泥流台地の西南麓、吹浦川の北にあり、縄文時代前期の吹浦式土器の出土地として知られている。

庄内平野と庄内砂丘の北端を限る山裾にあり、眼下の牛渡川が遺跡の西で月光(がつこう)川(吹浦川)に合流してすぐ日本海に注ぐ。縄文海進時には河口から内陸深く潟湖であったと推定される。

1951~53年に致道博物館が4次の調査を行ない,台地上から住居跡,袋状土坑,石器製作跡,台地崖面から洞穴,ヤマトシジミ主体の小貝塚を発見。

土器には長胴の深鉢形土器と球胴の鉢形土器があり,当遺跡を標識として吹浦式土器と呼ばれ,東北北部の円筒式文化圏と東北南部の大木式文化圏の接触型式とされていたが,その後の検討で大木式系を主体に一部円筒式の影響を受けた土器群と考えられている。

石器は鏃 (やじり) ・槍・錘・擦切磨製石斧 (せきふ) ・砥石 (といし) 等のほか 玦 (けつ) 状耳飾りが見られ,縄文前期の特色が見られる。イシガメ・クジラ・イノシシ・シカ等の動物,オニグルミ・クリ等の植物も検出された。 83,84年にはバイパス工事に伴い山形県教育委員会が再調査し,縄文期の竪穴住居跡,土坑多数のほか,平安時代前期の竪穴住居跡,大型掘立柱建物跡が確認され,拠点集落の存在が推定される。

遺跡近くには大物忌神社や神宮寺があるが,『三代実録』によれば,885 (仁和元) 年6月,出羽国飽海郡神宮寺西浜の地で石鏃が発見され,それに関連して大物忌神社に奉幣した記事が見える。吹浦遺跡との関係が注目され,9世紀の正史に天変地異として石鏃発見の記録があることは興味深い。

 

山形県の縄文中期前半の文化動態 多賀城市埋蔵文化財調査センター 菅原哲文

1 はじめに

縄文時代中期前半は、今から約 5,500 年前から約 5,000 年前の時期である。山形県内の状況は、中期初頭から前葉、中葉にかけて遺跡数の大幅な増加が認められ、各盆地に拠点的な大規模集落が形成されていく。また、そのような拠点的集落跡には、10mを超えるような大型住居跡が建てられ、全体として放射状や環状の配置がとられていた。集落の中で不要となった土器、石器などを廃棄した捨て場も形成され、数百箱や千箱を超えるような出土数量となる。また、土偶や石棒を用いる縄文時代の祭祀が盛んに行われるようになる時期でもある。

 ここでは、県内の縄文時代中期前半の文化の様相を、縄文土器を中心に検討していきたい。

2 縄文土器に見られる活発な文化交流

 大木式土器は東北地方南部を中心とする縄文時代前期から中期の土器型式であり、山形県も分布域に含まれる。宮城県七ヶ浜町大木囲貝塚の土器を標識とし、山内清男により土器型式が設定された。大木式土器は幾つかに細分されており、中期前半は、大木 7a・7b・8a 式である。

県内の中期前半の大木式土器が出土している代表的な遺跡として、最上町水木田遺跡(中期初頭・前葉)があげられる。

当遺跡の出土資料は、中期初頭・前葉の大木7a 式土器、大木 7b 式土器が中心であるが、中期中葉の大木 8a 式土器も報告されている。遺物出土箱数は 1000 箱に及ぶ。平成 23 年に出土資料は重要文化財に指定された。

水木田遺跡で出土している大木 7a 式土器には、関東や中部地方を主な分布域とする五領ヶ台式土器の影響を受けたと考えられるものが認められる。この五領ヶ台系の土器は、山形県内だけではなく、福島・宮城・岩手・秋田県の広域にわたって出土している。

次の時期の大木 7b 式土器は、当遺跡の出土の主体を占めている。大型の長胴の深鉢、4単位の大波状口縁、波頂部の装飾、体部の Y 字状懸垂文や縦方向の綾絡文などが特徴的で、押圧縄文による装飾も多用される。この時期も引き続き五領ヶ台系の土器が伴う。他の地域からの影響が見られる土器として、北陸の新崎式土器が少量ながら出土し、北東北に由来する円筒上層b式土器も認められる。

山形県内の中期前半の縄文土器は、大木式を主体としながらも、関東地方、北陸地方、北東北などの他地域の影響が見られる土器が含まれ、広域にわたる土器文化の交流が顕著に表れる時期といえる。また県内の各地域では、その影響の受け方について、それぞれ特徴的な在り方が見られる。

庄内平野と周辺地域の様相

当地域は日本海沿岸に面しており、海沿いのルートを通じて縄文時代前期から北陸地方や北東北の影響を受けてきた地域である。遊佐町吹浦遺跡では、前期末大木 6 式期を主とする時期であるが、北陸地方や北東北に見られる土器が出土している。この傾向は、中期初頭・前葉を通じて認められる。

中期前葉の時期であるが、鶴岡市(旧羽黒町)郷の浜 J 遺跡は前期末大木 6 式期から大木 7a 式期の土器が出土している。内容を見ると、北陸の新崎式が出土の多くを占めており、大木 7a 式土器は客体的である。円筒系土器も量的に多くはないが出土している。

鶴岡市西向遺跡は、中期前葉の時期に位置づけられる。北陸地方の新保・新崎式土器が出土の主体を占め、全体の 74%と報告されている。北陸系土器は 6 群に分類され、2 段階の変遷が想定されている。大木式土器については大木 7a 式、7b 式土器が出土しているが、北陸系土器の手法を用いて文様が描かれたものがある。北東北に由来する、円筒上層 a~c 式土器が少量ながら出土している。

北陸系土器の出土が顕著な傾向は庄内地方の他遺跡にも認められる。

酒田市飛島に位置する蕨山遺跡では中期前葉の北陸系土器、大木 7b 式土器、円筒上層 b 式を主とする土器が出土している。

遊佐町小山崎遺跡でも、前期末~中期前葉の時期の北陸系土器が出土している。

中期中葉の大木 8a 式期になると、北陸系土器の出土割合は少なくなる。円筒上層式土器も稀である。

鶴岡市岡山遺跡では、第 6 次調査で大木 8a 式土器が出土の中心を占めているが、少量ながら馬高式土器の出土が認められる。

遊佐町柴燈林遺跡では、全体の器形が把握できる火焔形の馬高式土器が出土している。大木 8a 式期に伴うものである。同地点で出土している 8a 式土器は、突起の形状などが馬高式土器の影響を受けたとみられるものや、県内の内陸では見られない形態のものも確認される。

岡山遺跡。

岡山集落背後の通称岩台(いわだい)という台地頂上部にある。標高約61m。岩台は「大泉旧聞抄」に石鏃出土地とあり、江戸時代中頃から幾多の研究者が訪れている。縄文時代の集落跡であるが平安時代の遺物も出土し、山頂に遠賀(おが)神社跡がある。遺跡の範囲は頂上を中心に南北350m、東西250mと広範で、標高50mの傾斜面まで含まれる。

この遺跡から出土した「中空の大型土偶の頭部」は、致道博物館旧西田川郡役所内で展示されている。

杉沢の土偶。複製。山形県遊佐町杉沢遺跡出土。

1952(昭和27)年、遊佐町杉沢地区から縄文晩期中葉(約2500年前)のものと推定される「杉沢の土偶」が出土した。高さ18.3cm、頭部の一部が欠けたほかはほぼ完全な状態である。現在は奈良国立博物館に国の重要考古資料として収蔵されている。

ほぼ完形の中空の土偶であるが、右の頭髪部などを若干欠損する。目はいわゆる遮光器(しゃこうき)状に表現され、肩や腰の文様は縄目文様を施した後に部分的に縄目をすりけす、磨消縄文(すりけしじょうもん)の手法で飾られ、腹部を縦に貫く線は、2重の隆線で強調されている。また臍(へそ)の部分は内部に連なり、腰部の文様も巧みに強調して表現されている。

出土状況は特異で、北側と東西に、約20センチメートルの川原石を置いて作った石囲の中に、頭部を北に向けて仰臥した状態で埋納され、その上に長径約30センチの蓋石が被せられていた。あたかも人間が埋納されたかのように置かれ、土偶の性格を考える上に貴重な出土例である。

環状注口土器。山形県有形文化財。

縄文時代後期の土器で、松森胤保(たねやす)が『弄石(ろうせき)餘談』で「夷五器」として、この土器を挿図入りで紹介している。江戸時代に岩手県一ノ戸の条右衛門の所持であったが、明治に庄内の研究家達の手を経て現所蔵となっている。出土地は岩手県一ノ戸町あたりと考えられる。

胴部がドーナツのように環状で、肩部に大きな注入口、反対側に注出口をつけた痕跡があり、底には高台をもつ特殊な器形である。器高は15㎝、胴部上端までが7.5㎝、胴径12.5㎝、高台の高さ1㎝、底径4㎝、胴部の容積は約390ccである。注入の口縁部は波状の起伏があり、沈線の間を刺突文で埋めた文様がある。胴部は縄文を地文として、弧状の沈線で連結文を施し、文様の接点に小さな瘤を貼り付け、部分的に縄文を磨り消している。

精緻精錬されたみごとな土器で、祭祀などの特別な用途とみられる。

玉川遺跡。縄文時代晩期。

羽黒街道の大鳥居から南に約1km、標高100m前後の地にある。昭和26年(1951年)から発掘調査が実施され、縄文時代中~晩期の遺物と集落跡が発見された。

中期と晩期の竪穴住居跡5軒は、平面が直径5m前後の円形ないし楕円形で、石囲炉や地床炉があった。B地点で23個、C地点で29個と集中的に出土した埋甕は、人骨を納めた晩期の甕棺墓で、日常の深鉢を使っており、磨製石斧や硬玉製勾玉が入っていたものもある。また、組石棺や集石遺構も出土している。多くの土器とともに打製・磨製の石器類、土版・岩版・土偶・三角土製品も発見されており、ことに玉類の出土数は、実に約150点を数え特筆される

庄内でも有数の広大な遺跡で、長期にわたり縄文人の生活が展開していた。C地点の一部が指定され保存されている。

玉川遺跡は縄文時代中期から晩期の遺跡で、江戸時代から多量の玉類が出土する地として知られていた。この玉類は晩期の遺跡から出土し、不老長寿などの霊力をもつものとして首や胸飾りにもちいたと考えられる。勾玉、丸玉、小玉などの形で、翠緑色をしたヒスイ製のものは、その原産地が新潟県糸魚川周辺に求められる。

玉川遺跡から出土した硬玉製主体の玉類は、致道博物館、鶴岡市、個人など6件でそれぞれ所蔵し、合計149点が指定されている。

大半は地元民の採集品であるが、致道博物館所有の一部は、発掘調査による出土品である。玉類の種類は勾玉・丸玉・臼玉・小玉で全長55㎜の勾玉を最大とし、小玉の径6㎜を最小とする。硬玉を用いているが、緑色の見事な翡翠(ひすい)も使われ、縄文時代晩期の製品とみられている。

これらの玉類は縄文人の首飾りやペンダントである。翡翠は原産地の新潟県糸魚川(いといがわ)市姫川流域からの移入で、縄文人の広範な交易を示しており、高度な研磨や穿孔(せんこう)の製作技術、さらに玉類着用に係わる独特な信仰など、魅力的な課題を含んでいる。

重文・青銅刀子。複製。遊佐町三崎山出土。

所蔵:東京国立博物館。殷時代・前11世紀. 青銅製. 長26cm 刃長16.6cm 脊厚0.75cm 。

吹浦地区の三崎山から出土した。日本列島において最古級の金属器であり、大陸との交流を考える上で極めて貴重な文化財である。

青銅刀子は昭和29(1954)年晩秋、遊佐町三崎山で採石作業中に出土した。その後、致道博物館や山形大学柏倉亮吉教授などが出土地周辺(三崎山A遺跡)を調査し、縄文土器やシカ骨などが確認された。学会に報告されるや、「中国から渡来した日本最古の青銅刀子」と話題をよんだ。国の重要な文化財として買い上げられ、現在は東京国立博物館に収蔵されている。日本がまだ縄文時代後期のころ、大陸の青銅文化が鳥海山麓三崎山にどのようにして渡来したのだろうか。刀子は、中国・シベリアなどでの出土例も報告されている「オルドス型」である。

昭和62(1987)年にソ連の学者グループが現地を踏査するなど国際的な研究もなされ、平成13(2001)年に東京文化財研究所が行った分析の結果、中国商時代の特に殷墟(いんきょ)出土の青銅器と同じ鉛の成分率であると報告された。日本列島での金属器文化渡来を考える上で重要な資料である。

刻文付有孔石斧(刻文付石鉞)。縄文時代中期。

山形県鶴岡市羽黒町の中川代遺跡から出土した古代中国の刻文付有孔石斧。付着した土の成分分析から中川代遺跡からの出土と確認された。縄文時代中期中葉の大木8a土器に伴って出土した。

形・厚さ・石質・孔の開け方が、古代中国と類似している。

広島大学教授(当時)李国棟氏の説では、古代中国長江デルタに栄えた良渚文化(BC3400~2250)のもので、甲骨文字風刻文は、「之」と「生」の合体字で「之越而生」。良渚国の亡命者が身分証明書として刻字、携えたもの、とする。

田川太郎と奥州合戦。

田川行文(ゆきぶみ。田川太郎)は奥州藤原氏の郎党で、平安時代後期に出羽国田川郡(現・鶴岡市田川)を本拠地として、田川郡郡司となり庄内南部一帯を治めて栄えた豪族である。奥州藤原氏の命を受け、羽黒山本社を修造したとの伝記が残り、源義経の「義経記」にも田川太郎が登場する。

文治5年(1189年)、鎌倉幕府の奥州征伐に際し、主君・藤原泰衡の命を受け、秋田致文と共に、越後国方面より北進してきた比企能員と、宇佐美実政の率いる幕府軍と戦って敗れ、さらし首にされた。

行文の墓は、田川氏の菩提寺である蓮華寺があった所と言われる鶴岡市田川字蓮花寺の北端にある

山形県鶴岡市 国宝・羽黒山五重塔 いでは文化記念館 芭蕉真筆