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稚内市北方記念館④オホーツク文化 オンコロマナイ遺跡

2024年08月30日 09時04分33秒 | 北海道

稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

抜海岩陰遺跡。

抜海市街地のはずれ、抜海岩と呼ばれる砂岩質の岩陰にある。抜海岩は高さ30m程の小山で、大岩が小岩を背負うように見え、アイヌ語の「パッカイ・ペ=子を背負う・もの」に由来し、岩の下にある海食小洞窟が先史時代の生活の場として利用されていた。

昭和38年に発掘調査され、遺跡はオホーツク式土器が大半を占めるが、少数の擦文式土器と続縄文時代の後北式土器も出土している。オホーツク文化の初期に位置し、富磯貝塚や泊内川左岸遺跡と時期的に近い。

オンコロマナイ2遺跡

宗谷岬に近い稚内市宗谷村清浜、恩頃間内橋近くにある3~4世紀頃の集落遺跡オンコロマナイ遺跡(オンコロマナイ2遺跡)である。司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズ、「オホーツク街道」にも考古学者の泉靖一が発見したオホーツク遺跡として紹介されている。

オンコロマナイ川河口左岸の海岸砂地に営まれ、オンコロマナイ川によって削られた崖に薄い貝層が露出し、川岸から50m程の拡がりであった。昭和34年東大の泉靖一助教授を中心とする東大文化人類学教室の発掘調査によって続縄文時代の層から5体の人骨が出土し良好な資料として有名である。昭和41~43年にも調査が行なわれ、3体の人骨と縄文時代晩期~続縄文・擦文・オホーツク・アイヌの遺物が検出されている。

8体の人骨は「オンコロマナイ人」として詳しく報告され、額が広く顔の高さが低く幅が広い、眼窩は横長の長方形で眉間が発達し、鼻根部が立体的で下顎枝の幅が非常に広いなどの特徴がある。出土し整理された土器・石器などの発掘資料は北方記念館に展示されている。

2002年度秋季大会シンポジウム「環オホーツク研究の新しい視点」報告

考古学からみた環オホーツク海交易

菊池俊彦*北海道大学大学院文学研究科.◎2003日本気象学会

オホーツク文化には中国の松花江流域の同仁(どうじん)文化(紀元後5~10世紀)アムール河下流域の秣輻(まつかつ)文化(紀元後4~9世紀)女真(じょしん〉文化(10~13世紀〉の遺跡から出土する土器・鉄器・青銅製品と共通,あるいは類似している遺物が多く,そのことはオホーツク文化の人たちが大陸側の人たちと交流があったことを示している。

オホーツク文化の年代は,これらの大陸の諸文化との対比から,3・4世紀から13世紀と推定されている。

オホーツク文化の遺跡からは北宋銭が2枚発見され.稚内市オンコロマナイ貝塚からは煕寧重宝(1034年初鋳)が,網走市モヨロ貝塚からは景祐元宝(1034年初鋳)が採集されている。アムール河下流域の女真文化の遺跡からは多数の北宋銭が発見されているので,まさにこれらの北宋銭は中国からアムール河下流域へ,そしてサハリンのオホーツク文化の人たちの所にもたらされ,次いで北海道に運ばれて来たと見てよいだろう。

「続縄文時代人とオホーツク文化人」札幌医科大学標本館収蔵標本解説第30号(2001年 12月1日)

石田肇 琉球大学医学部解剖学第一講座教授・札幌医科大学非常勤講師

 =続縄文時代人

 弥生時代は紀元前後をはさみ、九州や本州、四国を中心に弥生文化が栄える時期である。縄文時代が、北海道から沖縄本島まで、縄文文化という一つの大きな文化圏で括れるのに対して、弥生時代は、日本列島で地域性がはっきりと現れた時代と言ってよい。

北海道では、その弥生時代から古墳時代並行期を続縄文時代と呼ぶ。

北海道南部では弥生時代並行期の文化を恵山文化としているが、この時代の人骨は、虻田郡豊浦町の小幌洞窟、礼文華貝塚、室蘭市の絵鞆遺跡、伊達市には南有珠6遺跡、南有珠7遺跡、有珠モシリ遺跡などから発見されている。有珠モシリ遺跡の4号人骨は、眉間の部分の隆起が著しく、鼻骨の彎曲が大きく、いわば鼻が高い、そして彫りが深い、そして眼窩が低くやや斜めになっている。このような人骨ばかりではなく、山口(山口敏 : 元札幌医科大学助教授、前国立科学博物館人類研究部長、国立科学博物館名誉研究員)は、この集団は縄文的な形質を一方で保持しながら著しく多様化し、全体として近世の道南アイヌの形質に近づきつつあったのではないかと述べている。男性の大腿骨の最大長は平均432.5mmで、推定身長は159.5cmである。大腿骨と脛骨の長さの比(脛骨大腿骨示数)は82.7で、遠位部が比較的長くなっている。大腿骨骨体の柱状性は強いものの、脛骨の扁平性は変異があるようだ。

北海道の北部、東部では、稚内市の宗谷オンコロマナイ貝塚および江別市坊主山遺跡から出土した人骨群について、1963年に山口が報告している。その形態は、顔面が著しく低く広く、眉間の部分から鼻にかけての形態が立体的である、四肢骨では前腕の部分が相対的に長い、大腿と下腿の比を調べると下腿が相対的に長めであるという特徴がある。つまり、縄文時代からひき続き、この地域ではアイヌ的特徴がみられる。

北部九州・山口地方を中心に眉間の発達が弱く、鼻根部が平坦で、上顔高が高い頭蓋を持ち、四肢骨は長く、前腕や下腿が相対的に短く、また、断面形で柱状性や扁平性がない人骨群が現れている。その周辺地域では、頭蓋の形態は、縄文時代人的であるが、四肢骨の形態は、とくに断面形で、北部九州・山口地方群に類似する人骨群が存在する。従来、高顔・高身長対低顔・低身長という対立形式で見ることもあったが、同じ弥生時代(続縄文時代を含む)の人骨のなかで、何が「現代化」しているのかを捉える視点が大事かと思う。

オホーツク文化人

 5世紀ごろから11世紀にかけて、北海道の北部ならびにオホーツク海沿岸に、サハリンから来たとされるオホーツク文化が広がる。この人類集団の頭蓋は、顔面の高径も横幅も大きく、全体に顔が大きい。男性の上顔高は、77mmに達する。日本国内で時代を超えて、顔面の最も高い人々である。上顎骨が大きく、頬骨は横に張り出している。また、顔面が極めて平坦なのも大事な特徴である。鼻の骨も平坦で、横から見ると頬骨と鼻が重なるくらいである。

オホーツク文化の人骨で頻度が高い項目として、眼窩上孔、舌下神経管二分、頬骨横縫合後裂残存、顎舌骨筋神経溝骨橋がある。四肢は、肘から先、膝から下の部分が相対的に短い。推定身長は、男性の平均が約160cmである。これらは、シベリア・極東の寒冷地に暮らす人々の形態と共通する。サハリンの南部にも、同じ形態の集団がいたのである。

現在まで、モヨロ貝塚などから多数の人骨が見つかっているが、時期がはっきりしたものは少ない。オホーツク文化の早い時期の人骨としては、礼文町浜中2遺跡出土の十和田式土器を伴う女性人骨、利尻町種屯内遺跡出土人骨がある。全身骨格が良好に残っている浜中2遺跡の女性人骨の形質を調べてみると、頭蓋の形態、四肢骨の形態ともオホーツク文化人骨の特徴そのものであった。いいかえれば、オホーツク文化の早い時期から、その集団は北アジアの人々そのものであったということである。

それより前の時期の人骨については、サハリンでは不明であるが、北海道東北部の続縄文時代の人骨として知られているのは、先に述べた稚内市オンコロマナイ貝塚で発見された人骨である。オンコロマナイの人骨は鼻が高いなどオホーツク文化人骨とは大きく違った形態を持ち、近世のアイヌにつながる形質を持つ。このように、オホーツク文化になって、今までの続縄文時代人と違う形態の人々が北海道の北東部に現れたと言える。

日本各地でみられた縄文時代人骨のいわば「旧石器時代人」的特徴は、弥生時代に入り各地で失われてくる。とくに脛骨の扁平性は、沖縄から東北・北海道の一部にいたるまで広範囲に失われる。また、弥生から古代にかけて、顔面の平坦さも日本の広い範囲で見られるようになる。

弥生時代に北部九州・山口群に頭蓋形態小変異の頻度の変化が見られたが、古代には関東地域まで広がる。一方、上顔高や身長の増大は、北部九州から畿内にかけての限定的な変化であったようだ。その後、咀嚼器官の退化に伴うと思われる長頭化と短頭化が見られ、現代に入っていくことになる。北海道では、オホーツク文化の進入にもかかわらず、縄文時代から近現代に至るまでの形態のかなりの安定さが見られるのが特徴であろう。

左写真は稚内市オンコロマナイ貝塚出土の続縄文時代人頭蓋。右写真は稚内市大岬出土のオホーツク文化人頭蓋(顔面比較のため、大岬頭蓋は反転してある)(札幌医大標本館展示:解剖学骨格系SK-20, SK-21)

稚内市北方記念館③9人の乙女が自決した真岡郵便電信局事件


稚内市北方記念館③9人の乙女が自決した真岡郵便電信局事件

2024年08月29日 09時01分36秒 | 北海道

稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

真岡郵便電信局事件とは、太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。

自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。

1945年8月9日にソ連が対日参戦し、8月11日から樺太へもソ連軍の侵攻が始まった。8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決め、8月15日に玉音放送で国民にも公示されたが、樺太ではソ連軍が侵攻を止めず戦闘が続いた。

1945年8月10日、樺太庁(豊岡市)・鉄道局・船舶運営会・陸海軍等関係連絡会議で、樺太島民の緊急疎開要綱が作成され老幼婦女子、病人、不具者の優先的輸送計画が決定された。8月13日、大泊港から第1船(宗谷丸606名)が出帆した。一方、真岡町を含む西海岸方面の疎開者は15日、真岡港から海防艦、貨物船「能登呂丸」、漁船等で出港するなど、島民の北海道への緊急疎開が開始された。

8月16日、真岡郵便局長は豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との女子職員に対する緊急疎開命令を通知し、女子職員は各地区ごとの疎開家族と合流して引き揚げさせることにした。電話交換業務は女子職員の手により成り立っており、引き揚げ後の通信確保のため真岡中学の1~2年生50人を急ぎ養成することで手筈が決められた。

一方、同日真岡郵便局の朝礼で主事補の鈴木かずえにより残留交換手に関する説明がなされた。主事補は緊急疎開命令が出されて職場を離れる交換手が出ている現状を話し、仮にソ連軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けてもらえる者は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を説いた

鈴木の言葉に誰もが手を挙げ、声を出して残る意思を現した。これに対し鈴木は、本日は希望者を募らないとし、一度家族と相談の上で班長に伝えるよう指示。後日希望を聞くと告げた。

8月17日、電話担当主事が「全員疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と、局長に報告したため、局長はソ連軍進駐後生ずるであろう事態を説くとともに説得にかかったが、応じてもらえなかった。最終的には、局長が豊原逓信局業務課長との相談で、逓信省海底電線敷設船(小笠原丸)を真岡に回航させ西海岸の逓信女子職員の疎開輸送に当たらせる了承を得たので、同船が入港したら命令で乗船させることとし、20人だけ交換手を残すことになった。しかしこの計画は予想以上に早いソ連軍の上陸で日の目を見なかった。

先に引き揚げた交換手は、疎開命令が出た後もみな「(通信という)大事な仕事なのでもう少しがんばる」と言い張ったが、局長からは「命令だから」といましめられた。そして公衆電話から電話交換室に別れの電話をかけると、「頑張ってね」「そのうち私達も行きますからね」「内地へ行ったらその近くの郵便局へ連絡してすぐ局へつとめるのよ」と残留する交換手たちからかわるがわる励ましの言葉をかけられた。

最終的に決定した残留交換手20名は比較的経験年数の少ない10代の交換手が多くを占めていた。20名中10代が全部で何人だったかは不明だが、8月20日当時の高石班11人中6名が10代であり、上野班にも少なくとも1名10代の女子交換手(藤本照子・当時17歳)がいた。

8月19日朝、非常体制が敷かれる。電話・電信業務は、昼夜を通して行われるため、通常3交代制であたっていたが、この時から非常勤務体制となった。電話交換手の夜間勤務は上野主事補を班長とする上野班と、高石主事補を班長とする高石班に分けられた。同日午後7時過ぎ、電話交換手は夜勤体制になった。この夜、当直の電話交換手は高石班長以下11名の女性であり、この他に、電信課には、電信主事・平井茂蔵を筆頭に、職員7名の男女(男性5名、女性2名)が勤務していた。

8月20日早朝。ソ連軍艦接近の報告が入ると、高石班長は郵便局長・上田豊蔵に緊急連絡したのを始め、局幹部に緊急連絡を行った。緊急連絡を受けた電話主事・菅原寅次郎は電話交換手・志賀晴代に出勤を求め、電話交換手は12名となった。

緊急連絡からおよそ1時間後、ソ連軍艦が真岡港に現われ、2艘の舟艇が上陸を試みる。ソ連艦隊から艦砲射撃も始まった。

この当時、真岡郵便局には平屋建ての本館と、2階建ての別館があった。電話交換業務は別館2階で行われていた。8月20日にソ連軍艦からの艦砲射撃が開始されると、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立することになった。

高石班長が青酸カリで服毒自決、続いて代務を務める可香谷が自決。ただし、自決の経緯については激しい銃砲火の中だったことや生存者が少ないことなどから、証言が錯綜しており、高石班長はむしろ若い交換手をなだめたとするものや、青酸カリを分け合って年齢の高い順に飲んだとするものもある。

この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ、あるいはモルヒネで自決した。この間、電話交換手は、泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡している。

この後、伊藤は、既に7名が自決し、自分も続くことを泊居郵便局に連絡。更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をした。この時点では、伊藤のほか境、川島、松橋、岡田の4名が生存していた。伊藤は、続いて、内線電話で電信課へ自決を連絡し、服毒。この時点で、松橋も自決をしていたので、殉職者9名、生存者3名となった。急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出し、本館へ移動させた。

一方、本館では、戦闘が始まって郵便局舎も被弾するようになり、被弾を恐れた女性達は、奥の押入れに隠れた。境、川島救出後暫くしてソ連兵が現われると、最初は男性局員のみが応対し、女性はそのまま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現した。その後、局員は港の倉庫へ移動した。電話交換手のもう一人の生き残りである岡田は、その後、港の倉庫に移った。

事件から10日以上経ってから遺体は仮埋葬され、12月に火葬・本葬が行われた。

『樺太1945年夏 氷雪の門』。1974年公開の日本映画。株式会社JMPが製作。

1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後も継続された、ソ連軍の樺太侵攻がもたらした、真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の最期(真岡郵便電信局事件)を描いているが、生存者への配慮から意図的に事実と変えている部分もある。

当初の構想では、真岡郵便電信局事件での生存者たち、すなわち「服毒後、意識を取り戻され現在(1973年)も生存される方」「たまたま引き揚げる家族を見送るために、砲撃直前、局を出られたと思われる方」「緊急連絡のために局を出られた方」たちを主人公とすることを念願していたが、取材に応じてくれた非番の交換手から、「生きのびた服毒者」の深い悔恨を知らされて断念するに至り、「12人編成が正しいと思われる」交換手の編成をあえて9人として生存者については触れないことにした。そのため「この脚本の中に、事実関係の設定上で、全く事実と違うところがある」と断り書きをしている。すなわち、完成した映画『氷雪の門』でも、9人編成の全員が一斉に服毒死を遂げたとしている部分は史実とは違うフィクションである。

「ソ連のクレームがついて、大手映画会社が手を引いたとかいわれる“幻の映画”」は真実か。

元新東宝のプロデューサーだった望月利雄が、真岡郵便電信局事件の映画化を立案し、1972年(昭和47年)5月に三池信(元郵政大臣)代表取締役会長、望月専務取締役などの顔ぶれで、株式会社ジャパン・ムービー・ピクチュアー (JMP) が設立され、1973年5月末に『氷雪の門』は撮影を開始した。

映画公開は「東宝配給の予定だった」とされているが、東京新聞の記事では、「『氷雪の門』は東宝が配給するわけではない」「公開は配給形式ではなく、JMPが東宝系の映画館を借りて行う興行形式だ」と関係者が繰り返し述べている。製作会社JMPと東宝興行部の間で上映に関する内諾があった、と解すべきであろうが、正式の上映契約には至らなかった。

当初は1974年1月中旬、全国主要都市でのロードショー、2月下旬一般封切が予定されていると報じられていた。その後、3月30日から東京5館、札幌、大阪、福岡などの東宝系9館で全国ロードショー公開することを決定していた。

1974年3月7日、モスクワで開かれた東宝・モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』の完成披露パーティーの席上、モスフィルム所長ニコライ・シゾフが東宝系劇場での『氷雪の門』の上映にクレームをつけ、なりゆき次第では『モスクワわが愛』の「公開にも支障が出そうな気配になっている」と、3月12日の東京新聞夕刊が報じた。東宝の松岡功営業本部長、越塚正太郎興行部長らが12日に協議の結果、「ソ連との友好関係を損ねる恐れがある」と判断、「JMPへの劇場賃貸を断ることにした」と報じられた。

この後、松岡らは、東映の岡田茂社長を訪ね、「東宝は社内事情で公開できないので宜しく」と依頼した。東映側は決定に先がけて、事前に在日ソ連大使館の参事官に話を通したところ、「たいへん結構です」と言われたという。岡田は「営業面でもひとつのメドがついたので東映洋画部配給ということでJMPとの間で話がまとまった」と説明している。6月25日に東映とJMPの間で正式調印が行われ、7月27日から札幌東映パラスで、8月17日から新宿東映パラス、名古屋東映パラス、福岡東映グランドなどでも公開が決定したと発表された。ところが、公開直前になって、興行規模が大幅に縮小された。札幌東映パラスこそ7月27日から8月30日までの5週興行であったが、本州の上映館は全て削減され、北海道・九州では8月17日からの2週間ほどの劇場公開になった。だが、その理由は今だに明らかになっていない。

東宝による上映中止を大きく取り上げた各紙も、東映による上映館削減の理由については報じていない。その後の報道でも、東宝と東映を混同して「配給会社がソ連の圧力に屈して全国公開が阻まれた」とする不正確な論調が多く、「ソ連のクレームがついて、大手映画会社が手を引いたとかいわれる“幻の映画”」という不正確な情報はさらに広まった。

その後、『氷雪の門』は名画座での限定上映や、ホール等での非劇場上映などが行なわれていたが、製作から約36年後の2010年(平成22年)7月17日より全国で順次劇場公開されることになった。

稚内市 北方記念館②樺太(サハリン)日露国境 樺太の鉄道


稚内市北方記念館②樺太(サハリン)日露国境 樺太の鉄道

2024年08月28日 09時00分34秒 | 北海道

稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

 

樺太(サハリン)。

樺太の鉄道。

日露戦争の講和によるポーツマス条約により、樺太(北緯50度線以南)が日本領となり、物資輸送のため軍用鉄道が1906(明治39)年樺太のコルサコフ(楠渓町(なんけいちょう))~ウラジミロフカ(豊原)間に軌間600㎜の軽便鉄道として敷設された。車両は、2両を背中合わせに結合させた双合式と呼ばれる機関車と貨車で、客車はなく、無蓋車に天幕を張り客車の代用としていた。

翌年には豊原に樺太庁が設置され、樺太庁鉄道、樺太鉄道局が発足。栄町(大泊(おおどまり))への延伸、線路改良や機関車、客貨車が増備された。1910(明治43)年には軌間を内地と同じ1067 ㎜に改軌し、泊栄線(東海岸線)や西海岸線、川上線が整備された。

 

日露国境の標石。

 

稚内市開基百年記念塔・北方記念館①稚内港 稚泊連絡船(樺太航路)


稚内市開基百年記念塔・北方記念館①稚内港 稚泊連絡船(樺太航路)

2024年08月27日 09時01分40秒 | 北海道

稚内市開基百年記念塔・北方記念館。稚内市ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

稚内港の北防波堤ドームと巡視船を見学したのち、南方の丘の上にある稚内市開基百年記念塔・北方記念館に向かった。

稚内市開基百年記念塔高さが80mで塔の展望室は海抜240mの地点にある。エレベーターで昇った展望室からは、天候に恵まれれば利尻島や樺太も見えるというが、生憎の曇天であった。

フェリーが入ってきた。

樺太(サハリン)方向。

さきほど見学した北防波堤ドームと巡視船「りしり」「もとうら」。

稚内港の防波堤ドームと巡視船を眺めていると、ちょうどフェリーが入港している場面に出会った。時刻表からすると、利尻からの便のようだ。防波堤に沿って港内に入り、回転して船尾から接岸するまでを見届けた。

稚内市街地方向。

その後、1階まで降りて北方記念館を見学すると、現在は内部が空洞である北防波堤ドームの一部が、稚内桟橋駅であり、その陸側に稚内港駅が存在していたことを知った。

1990年代後半に利尻山を登頂したときに、同行したM君と夜行寝台急行の「利尻」に札幌駅から乗車して稚内駅にやってきた。

「利尻」道北向けの代表的夜行列車で、札幌から宗谷本線を経由して日本最北端の地、稚内を結んでいた。

1958年10月1日、札幌駅 - 稚内駅間の夜行準急列車として運行を開始し、1966年3月5日に急行列車となった。1982年11月15日からは座席車に14系500番台客車が投入され、1983年4月25日から寝台車も14系に置き換えられた。

1991年3月16日からは、「宗谷」と共通のキハ400形・キハ480形気動車に14系寝台客車を併結する編成を初めて投入した。

2000年3月11日の宗谷本線高速化竣工に伴うダイヤ改正では、特急列車化され、座席車を「サロベツ」と共通のキハ183系に変更したが、引き続き14系寝台車を混結していた。

2006年3月のダイヤ改正では臨時列車化され、同年6月から夏季に特急「はなたび利尻」として運転されるようになったが、なおも利用が減少傾向にあることから、2008年4月にJR北海道が廃止を発表し、事実上2007年(平成19年)9月30日の運行を最後に廃止された。

ヘッドマークは急行時代から、海上に浮かぶ利尻島(利尻山)を描いたものを使用していた。

稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)は、1923年から1945年まで、日本の鉄道省により北海道の稚内と樺太の大泊の間で運航されていた航路(鉄道連絡船)である。

航路概要。稚内 - 大泊間:167.0 km(営業キロ:210.0 km)

所要時間:8時間(1928年、1934年12月当時)

運賃:1928年に一等7円50銭、二等5円、三等2円50銭。

宗谷海峡は冬になると流氷で閉ざされるため、就航船には砕氷船が使用された。厳冬期の大泊では氷上で旅客・貨物の取り扱いをすることもあった。

鉄道連絡船の性格上、宗谷本線の優等列車と接続するダイヤを組み、1938年からは稚内側では列車が船に横付けできるよう、稚内駅構内扱いに稚内桟橋駅という仮乗降場が設けられていた。また大泊側も桟橋上に大泊港駅が設けられ、樺太東線と接続していた。なお、稚内から樺太への定期航路稚泊連絡船の他に北日本汽船経営の稚斗航路(稚内 - 本斗間)があり、こちらは樺太西線と接続していた。

最北端の稚内駅 北防波堤ドーム 巡視船「りしり」「もとうら」


最北端の稚内駅 北防波堤ドーム 巡視船「りしり」「もとうら」

2024年08月26日 09時05分00秒 | 北海道

礼文島を出港した稚内港行きフェリーから見る礼文島。朝は見えていた利尻山は見えなかった。

2022年6月17日(金)。

桃岩展望台コースのミニトレッキングを終え、桃岩遊歩道入口に15時10分ごろに着いた。香深港17時10分発のフェリーに乗らねばならないので、16時ぐらいには香深港に着いておきたいが、時間の余裕ができたので、海岸沿いの裏通りを歩いて、ミニスーパーを数件覗いてみた。16時ごろに香深港フェリーターミナルに着いた。

稚内港へは9時5分ごろに帰着して礼文島への日帰り旅が終わった。稚内駅周辺を歩いて弁当屋や安い定食屋がないか探したがなかったので、稚内駅にある「セイコーマート」で買い物をしたあと、車を停めていた道の駅へ向かった。

稚内駅。稚内市中央。

以前の日本最北端の線路として使用していた車止めとレールが、JR北海道から稚内市に寄贈され、駅前広場上のモニュメント「日本最北端の線路」として2012年3月に復元されている。

2022年6月18日(土)。

礼文島へ行く当初の予定日は18日であったが、雨予報だったので17日に早めた。そのため、枝幸町の「オホーツクミュージアムえさし」を通過したので、本日見学することにして、稚内市の北方記念館・開基百年記念塔、宗谷岬、枝幸町とオホーツク海沿いに戻り、道の駅「さるふつ」で泊まる行程とした。北方記念館が9時開館なので、それまで道の駅「稚内」周辺を見学することにした。

稚内駅は、JR北海道宗谷本線の駅で、現存する日本国内の鉄道駅としては最北に所在する。稚内における鉄道は、1922年(大正11年)に開業したが、当初の稚内駅は現在の稚内駅の約2 km 南に位置し(南稚内駅の前身、その後移転)、南樺太の大泊へ向かう鉄道連絡船「稚泊(ちはく)航路」への乗船客は徒歩で、貨物は荷車で連絡していた。この不便を解消するため、1928年(昭和3年)に稚内港駅(わっかないみなとえき)まで鉄道路線が延伸されたのが、当駅の始まりである。

1936年(昭和11年)には稚内港の北防波堤桟橋が竣工し、さらに防波堤桟橋内への線路延長敷設工事(約850 m)が始まり、1938年10月から防波堤桟橋内(現:北防波堤ドーム内)に稚内桟橋駅(わっかないさんばしえき)を、稚内港駅の構内乗降場の扱いで設置している

1939年(昭和14年)2月1日に稚内港駅を稚内駅に、稚内駅を南稚内駅に改称した。その後、稚泊航路は1945年(昭和20年)8月24日に稚内港に入港した便を最後に運航停止となって、稚内桟橋駅も実質的に廃止となった。2010年、単線の駅になった。2011年4月3日には「稚内駅前地区第1種市街地再開発事業」に伴う稚内駅再開発ビル「キタカラ」に新しい駅舎(4代目)が開業した。

宗谷本線は、旭川市の旭川駅から名寄市の名寄駅を経て、稚内市の稚内駅を結ぶ鉄道路線である。

旭川市から上川管内北部・宗谷管内と道北地方を縦断し、北方領土を除く日本最北端の自治体である稚内市に至る全長259.4 km の鉄道であり、地方交通線としては日本最長である。士別市から幌延町にかけては、天塩川の右岸を走行する。

宗谷本線は、樺太(サハリン)と本土を結ぶことを急務として建設された路線であった。始まりは北海道官設鉄道による1898(明治 31)年の旭川~永山間だが、1912(大正元)年に官設鉄道の宗谷線として音威子府(おといねっぷ)までを開業し、1922(大正11)年に浜頓別(はまとんべつ)経由で稚内(現・南稚内)まで延伸。現在線は、天塩線として1926(大正15)年に稚内まで開業。1928(昭和3)年に稚内港(現・稚内)まで全通した。

終点の稚内から対岸の大泊(コルサコフ)への鉄道連絡船(稚泊航路)が第二次世界大戦終戦時の1945年8月まで就航していた。

沿線を流れる天塩川の舟運に代わり、各支線と合わせ道北各地で産出される木材や石炭等の鉱物、水産物を輸送する重要な貨物輸送路線としての使命も担った。

1995年9月4日までに天北線・深名線など接続する支線は全て廃線となった。

稚内港北防波堤ドーム。稚内市開運。土木学会選奨土木遺産、北海道遺産。

北防波堤ドームは、稚内港にある大型の防波堤である。防波堤の外観としては異色となるドーム状の形態を取っていることから命名された。高さ約14メートル、長さ427メートル、古代ギリシア建築を彷彿とさせる70本のエンタシス状の柱列群は、斬新な印象を与えている。

北防波堤ドームは、稚内港の防波堤としての役割および、北海道と樺太を結ぶ鉄道連絡船(稚泊連絡船)の桟橋など港湾施設の保護、桟橋から駅までの乗客の乗り換え通路を兼用するため、1931年(昭和6年)から5年間をかけて建設され1936年に竣工した。

設計者の土谷実は北海道帝国大学を卒業して3年目の26歳で、稚内築港事務所に赴任してきた北海道庁の技師であった。施工は間組(現安藤ハザマ)。

建設後、稚内駅からドームの手前まで国鉄の線路を延長し、同駅の構内仮乗降場扱いで「稚内桟橋駅」が開設され、乗客はドーム内を歩いて桟橋に待つ連絡船に乗り込んだ。その後、第二次世界大戦を経て終戦を迎えたことから稚泊連絡船は消滅し、これとともに稚内駅から桟橋駅に続く線路も消滅したが、防波堤としての機能は維持されており、以後も礼文島や利尻島への航路など多くの船が発着する稚内港を守り続けている。

巡視船「りしり」は、番号PL11(PLは大型巡視船Patrol Vessel Large)、総トン数 1,500トン、全長96.0m、幅11.5m。平成28(2016)年に下関造船所で建造され、同年から稚内海上保安部の所属船になった。主兵装はブッシュマスターII 30mm単装機銃を搭載

船尾甲板は発着甲板(ヘリコプター甲板)とされており、ヘリコプターに対して電源や燃料を供給できる。ヘリコプター甲板付きの巡視船は道北地区では、りしりだけである。

巡視船「もとうら」。番号PM12(PMは、中型巡視船Patrol Vessel Medium)、総トン数325トン、全長67.80m、幅7.90m。1986年(昭和61年)、香川県高松市にある四国造船所で建造され、同年11月から平成24年1月まで浦河海上保安署の所属船として、主にえりも岬から恵山岬沖にかけて、海上保安業務に当たっていた。2012年(平成24年)1月18日に巡視船しらかみ解役に伴い稚内海上保安部に配属替え。 「もとうら」という船名は、日高地方の清流、「元浦川」より名づけられた。

 

このあと、南方の丘の上にある稚内市開基百年記念塔・北方記念館に向かった。

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