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岩手県大船渡市 国史跡・大洞(おおほら)貝塚 大船渡市立博物館①大洞式土器

2023年12月21日 16時30分54秒 | 岩手県

国史跡・大洞(おおほら)貝塚。大船渡市赤崎町大洞。

2023年6月13日(火)。

大船渡市の道の駅「さんりく」で起床。本日は、国史跡・大洞貝塚、碁石海岸、大船渡市立博物館、道の駅「陸前高田」、陸前高田市立博物館、北上市樺山遺跡・河野通信の墓、江釣子古墳群の順に見学した。

2022年に北海道・青森県・岩手県・秋田県を周遊して世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」を見学したが、北海道南部や北東北では大洞式土器(亀ヶ岡式土器)が頻出している。その標識遺跡である大洞貝塚を見学することにした。大洞貝塚は、三陸鉄道リアス線陸前赤崎駅の南東に所在する。まばらな住宅地の間を迷った末に、8時ごろ民家の横に説明板を見つけた。ここはC地区であったようだ。

大洞貝塚は,東北地方北部の太平洋岸に発達した大船渡湾貝塚群を代表して当時の生業,生活の内容を典型的に示すと共に学史的にも縄文時代を代表する遺跡である。

東北地方北部の太平洋岸には変化に富んだ雄大なリアス式海岸が発達し,特に三陸海岸は豊かな漁場としても有名で,その中央部に大船渡湾が位置する。

大船渡湾は北方の内陸に向かって大きく湾入し,自然の良港・漁場となっている。その沿岸には16カ所の縄文時代の貝塚が分布し,湾口部東岸の蛸の浦貝塚と西岸の下船渡貝塚は昭和9年に史跡指定されるなど,この地域は貝塚密集地としても全国に知られている。

大洞貝塚は,湾奥の東岸に位置する縄文時代晩期の貝塚であり,後ノ入川が形成した扇状地の南東から舌状に張り出した標高31mの丘陵を中心に立地する。貝層は,舌状台地の北と南の緩斜面にそれぞれ2ヵ所ずつ分布している。

湾の東岸より少し入った谷に挟まれたなだらかな丘陵にある貝塚は丘陵の北斜面と南斜面に形成されているが、北斜面西側の崖の上の貝塚をA地区、崖下をA′地区北斜面東側の貝塚をB地区、これから少し離れた南斜面の貝塚C地区とよんでいる。

大正14年に長谷部言人(はせべことんど)と山内清男(やまのうちすがお)が発掘調査し,それぞれから出土した土器を標識にして、山内清男は縄文時代晩期全般の編年を示す大洞B,B-C,C1,C2,A,A\'式と呼ぶ土器の諸型式を設定した。

「大洞式土器」は,東北地方から北海道南部を中心に広く分布し,この遺跡が標識遺跡となっている。また,貝塚は良好に保存され、優れた骨角器や多くの食料残滓が出土し,この地域の漁労の実態をよく示している。

大洞貝塚は,南北緩斜面に貝塚が形成され,台地頂部の東側に墓域があり,西側の貝塚に囲まれて居住域が広がっていたと推定される。それらを中心にして,さらに広い範囲に晩期の遺物が包含されている。貝層は,厚いところで1m近くに発達する。B地点貝塚の分析結果では貝類は圧倒的にアサリが多く,ほ乳類はニホンジカ・イノシシを主体とし,魚類はカレイ科・アイナメ・サバ属・マフグ科・スズキの順に多くの骨が発見され,鳥類はガンカモ科・ウ科などがわずかに知られる。

 出土遺物は,晩期を中心とした多くの土器,石鏃・石錐・石匙などの石器,釣り針,骨鏃,組み合わせ式を含めたヤス類,燕尾形などの銛頭類,骨篦などが出土した。また,石鏃装着の根挟み,穿孔されたヒトの切歯,ヒスイ製などの玉類,土偶,ボタン状土製品なども発見されている。

大洞ムラの風景

大洞貝塚は大船渡湾の奥に位置しています。縄文時代晩期(今からおよそ 3,000 年前から 2,200 年前)を中心とする貝塚遺跡です。

 遺跡は標高約 20m のなだらかな丘の上を中心に広がっています。住居(居住域)は、北風をよけるように、丘の上のくぼんだ所にありました。そのまわり、南北の 4 か所に貝塚がつくられ、南東の平らなところには、ここで一生を終えた家族の墓域がつくられました。

 住居のまわりにつくられた貝塚やお墓は、食べ物や家族、役目のなくなったものを葬った所で、大自然のなかで お祈りしながら暮らした縄文人の心が伝わってきます。 丘の南北に小川が流れ、水くみ場となっていました。

遺跡の西側では、小さな入り江があった痕跡がありました。この入り江は、ムラから海に出る玄関口だったと考えられます。この丘には、水産のまち大船渡のルーツとも言える、縄文漁師たちのムラがあったのです。

 貝塚の大きさをみると、縄文時代晩期では全国有数の貝塚遺跡です。このことは、大洞貝塚のある場所が、かりや漁にとても適していて、安定して住み続けることができるめぐまれた環境であったことを示しています。

海に生きた大洞縄文人

 大洞貝塚ではおよそ20体の人骨が見つかっています。 縄文人は平均して現代の日本人より小柄で、立体的な顔立ちをしていました。

 大洞貝塚の人骨では、耳の穴をふさぐような形のコブが高い割合で見つかります。これは、現代ではサーファーズイヤー(外耳道外骨腫)とよばれている病気の跡で、冷たい水の刺激が原因になると言われています。大洞ムラの縄文人は、海の仕事を熱心に行っていたと考えられます。

また、人骨の成分をくわしく調べたところ、食べ物の3割ほどがドングリや根っこなどの植物で、7割が貝類・魚類・ほ乳類などの動物でした。そして、このうちの 5 割が海産物であったことが分かりました。

残っていた魚とりの道具

昭和 31(1956)年から 35(1960)年にかけて、慶応義塾大学と早稲田大学によって、数回にわたる発掘調査が行われました。とくに動物の骨や角で作られたツリバリやモリなど、さまざまな漁具が工夫され、さかんに漁業が行われていたことが分かりました。大洞貝塚は、「縄文漁師のムラ」として注目されました。

大洞貝塚で発見された骨や角の道具のうち、代表的なものは魚とりの道具です。縄文人は、シカの角でモリやヤス、ツリバリを作り、魚とりをしていました。とくに、ツバメの尾のような返しをつけたモリ、組みあわせ式のヤスなどは、大洞貝塚を中心に流行しました。さまざまな形や大きさのものが発見され、工夫を重ねていたことが分かります。それだけに、魚とりはとても大変な作業だったのでしょう。

 縄文のアクセサリー

大洞貝塚では、アクセサリーも多く見つかっています。アクセサリーには、石、角、キバ、貝がらなど さまざまな材料が使われています。

ヒトの前歯で作られたペンダントは、大変めずらしいものです。縄文時代には健康な前歯をぬくという風習(抜歯習俗)がありましたが、抜いた歯をどのようにしたのか分かっていませんでした。このペンダントの歯は、抜いた歯と思われる 日本で初めての発見で、おまじないをする特別な人が使ったものと考えられます。

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