三内丸山遺跡を中心とした縄文文化①盛土、墓、アオトラ石、ヒスイ、黒曜石
縄文時代中期中頃の三内丸山集落の様子。
三内丸山遺跡の規模は、全体で約42ha。遺跡は八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端にある。当時は豊かな落葉広葉樹の森が広がっており、クリ、クルミ、山菜などが豊富であった。
また、近くの陸奥湾は、年間平均の波の高さが約30㎝と穏やかな内湾で、魚が豊富でした。集落の北側を沖館川が流れており、海にそそぐ河口近くの小高い丘の上に縄文の人々は村を作っていた。この場所は食料を得る上では好都合で、海と森の恵みを組み合わせることにより一年間この場所で安定した生活をすることができた。
集落の構造。縄文人は土地の使い分けをしていた。特に墓と普段生活している住居は厳密に分けられていた。他に家が密集して作られる所、まつりの場所、物をしまう・貯蔵する場所、ゴミ捨て場などを作っていた。
大人の墓と子供の墓は区別されていた。また、道路に沿うように墓を配置するなど、墓を作るにはいろいろなきまりがあった。
大人の墓。
集落の東側から大規模な大人の墓地が見つかっている。大人は亡くなると地面に楕円形の穴を掘って埋葬した。大きさは1~2.5mで、手足を伸ばして埋葬されたものと考えられる。中からヒスイのペンダントややじりがまとまって出土した墓もある。
墓の配置。
大人の墓は南北を向くように道路をはさんで東西方向2列に、それぞれ足を向けて、向かい合うように配置されていた。
墓と道路。
2列に並んだ墓の間には道路が通っていた。縄文時代の道路は地面を掘り下げて、浅い溝のようになっていた。幅約12m、長さが420m以上海の方向へ延び、その両側に大人の墓が並んでいた。
環状配石墓。
集落の西側から、周りを石で囲んだ、この集落の有力者のものと考えられる墓が見つかっている。直径が約4m程で、土を盛っているものもある。これらは道路にそって斜面に並んでいる。
子供の墓。
子供は亡くなると、 普段使っている土器の中に遺体を入れ、埋葬する。土器の大きさから考えて、おそらくは1才前後の子どもと考えられる。中から丸い石が見つかる場合が多い。これまでに800基以上の子どもの墓が見つかっている。
子供は亡くなると、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いた埋設土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬された。土器の中から握り拳大の丸い石が出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられる。
盛土。
竪穴建物や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物を捨て、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになる。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられる。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土している。
交流・交易。
遠方からヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなどが舟を使って運ばれてきた。集落が大きくなる約5000年前から、他地域と活発に交流・交易がさらに行われるようになった。
コハク。
岩手県北部の久慈周辺から琥珀の原石が運ばれてきた。ここで加工され、他の集落へ運ばれたものと考えられる。
ヒスイ。
約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれた。原石、加工途中の未完成品、完成品の珠などが見つかっている。非常に硬い石で、その加工は熟練した技術と知識が必要であった。
黒曜石。
ガラスとよく似た、鋭く割れる石。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきた。