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北海道猿払村 道の駅「さるふつ公園」ソ連の囚人船インディギルカ号の遭難

2025年02月27日 08時52分48秒 | 北海道

「さるふつ憩いの湯」とキャンプ場。道の駅「さるふつ公園」。北海道猿払村浜鬼志別。

「キャンプ場」手前に駐車車両が見える。イベント広場としても利用されており、奥には広大な猿払村営牧場が広がっている。

2022年6月19日(日)。

 

6月18日(土)枝幸町のオホーツクミュージアムえさしを見学後、17時ごろに道の駅「さるふつ公園」へ到着した。翌19日の行程として、オホーツク海沿岸から西の日本海沿岸に移動して、豊富町の豊富温泉、幌延町の名山台展望公園、羽幌町の野鳥センター(月休)を予定していたからだが、道の駅併設の「さるふつ憩いの湯」入浴も予定していたためでもある。

旅行前の下調べでHP「障害者手帳で行こう」記載の温泉施設の料金を調べていると、「さるふつ憩いの湯」は、障害者の入浴料が200円と安かった(一般450円)ので予定していた。実際には温泉ではなく水道の沸かし湯なので銭湯であったが、久しぶりに入浴できた。

猿払村は北海道北部にある日本最北の村で、総面積は590㎢、村としては北海道で一番広く、天然ほたて貝の水揚量が日本一の村という。

オホーツク海に昇る朝日。いさりの碑。

6月19日(日)4時30分頃に日光の明るさで目が覚めた。日の出時刻を過ぎたようだが、まだ朝日らしい風景が残っているかもしれないと、オホーツク海の海辺へ歩いていった。すると、海面から少し浮き上がった太陽が海面に反射する風景に出会うことができた。

逆光の朝日が岩礁を照らし出す。

北の宗谷岬方向。「いさりの碑」展望台から。

南の枝幸方向。「いさりの碑」展望台から。

「いさりの碑」。碑文。

 猿払の海を拓いた多くの先人の苦労と偉業を偲び、建てられたのが「いさりの碑」である。

(以下、碑文抜粋)

帆立貝漁場造成事業10周年に当り猿払の漁業のうつりかわりを振返って見る。

我々の先人がオホーツクの海の魚貝類に生活の糧を求めたのは明治の始め頃のことだ。

それから一世紀になんなんとしている。

春、4月5月、鰊の群来で海は乳白色になり獲っても獲ってもなくならないものと思われた。

鮭鱒は海の荒くれ男と力比べをするように網もさけよとばかり来網した

海扇と呼ばれた帆立貝は海の底に幾層にも重なり合っているのではないかと錯覚を起こさせる位生棲していた。

しかし之等の生物の運命も貪欲な人間の前には所詮は滅亡の運命が待ち受けていた。

今日ではあらゆる資源は有限であることが認識されている。

しかし生物資源は自然と人間の適正な育成管理によって永続させることが出来る筈だ。

私達も自然の摂理にかなった生物資源の育成管理を科学的調査と人智をあつめてやってみた。

春夏秋冬、自然の摂理は一世紀の昔も今と変わりなく繰返され生物の生命力は見事に部族と子族の繁栄に其の力強さを見せてくれた。

今、オホーツクの海は先人の開拓した時のように帆立貝が美事に結実してたわわな実を見せている

鮭鱒もまた間もなくふ化事業の結実を見せようとしている。

猿払の海を拓いた多くの先人の苦労と偉業を偲び其の意志を我々も子孫もうけつぎそして実践することを肝に銘じ、今此の碑を建てる。

人間は神々と力を競うべきでない。人間は自然の摂理に従うべきだ。

  昭和56年11月22日。猿払村漁業協同組合。

猿払村は、ホタテの水揚げ地として知られ、漁獲量は日本一である。古くからホタテの好漁場であり、明治時代にも香港に輸出されるなどしたが、濫獲により資源が消滅した。戦後まもなくは天北炭田の採炭と林業によって栄えたが、これが衰退すると村は疲弊、一部の権力者による密漁が横行し、道内管区から目を付けられる事態であった。

そこで村の興亡を賭けて、元来の産業であったホタテ漁の再興に取り組み、資源管理型漁業への転換に力を入れ、漁場造成や孵化・放流・育成事業など「育てる漁業」に取り組んだ。これが軌道に乗り、加工業も盛んになった。現在も稚貝の放流、害敵の駆除など、徹底した資源管理を行っている。ホタテ漁に携わる漁業組合員が高収入を得ていることから、住民平均所得は全国の自治体中4位(2016年)を誇る。

1971年(昭和46年)、猿払村漁業協同組合10年計画による初のホタテ稚貝放流事業を実施。以降、巨額を投じてホタテ放流事業に村の復興を賭ける。

1981年(昭和56年)、ホタテ漁業造成事業を終了。以後、計画的な稚貝放流と徹底した資源管理により驚異的なホタテ水揚を維持することとなる。これにより、道内で最も貧しいといわれた村は、支庁内高所得者の6割、全国でも有数の高所得自治体となっている。

「いさりの碑」から北へ向かう。北西の「風雪の塔」方向。

ホタテ化石群。

発見場所、中頓別鍾乳洞付近。年代、新生代第3期(約4000万年前)。重量、約40トン。

ホタテ化石。

松浦武四郎宿営の地。

当時の猿払公園あたりに松浦武四郎が宿営したというわけではないようだが、1846(弘化3)年、1856(安政3)年、1858(安政5)年に猿払で宿泊している。

インディギルカ号遭難者慰霊碑。

この慰霊碑は、昭和14年12月、浜鬼志別沖の荒れ狂う吹雪の中で、旧ソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁転覆した際に失われた700名以上の貴い命を悼み、昭和46年に建立された。

 世界の海難史上に残る大惨事の発生を知り、村民総出で約400人を救出した行為と犠牲になった人々の魂よ安かれと祈る心を顕している。

インディギルカ号は、旧ソビエト連邦の全長80m内外の貨客船で、1939年12月12日の未明、猿払村浜鬼志別沖合で座礁、沈没した。

インディギルカ号は、シベリアのマガダンからウラジオストクを目指している途中に暴風雨に巻き込まれ、宗谷岬の位置を見誤ったことから漂流12月12日午前2時頃猿払村の浅瀬に座礁。左舷に穴が開き浸水しながら西北方に押し流された。ここにきてSOS信号が発出されて稚内港から北日本汽船の樺太丸などが出航。樺太丸は現地でボートを出してインディギルカ号の乗客を救助、13日午後までに395人が救助されたほか、7人が海岸に泳ぎ着いたことから猿払村の住民が総出で救出活動にあたった。

結果的に子供も含め429名の生存者を救出するものの12月14日午前10時時点で海岸で収容された遺体は293人となった。収容できなかった者も含め700名以上が死亡したと思われたが、なぜか正確な乗客数を把握している乗組員は存在しなかった。

また、先に救助された船長が「船内にもう残る乗員はいない」と述べたため、船内に取り残された乗客が多数犠牲になったという証言もある。

当時、船長や乗客の説明では、乗客は漁期を終えた漁業者であり、カムチャツカ半島から引き上げてくる途中に遭難したというものであった。しかし個々の乗客の素性や目的等、その詳細については明らかにされなかった。

前述の船長による乗客の扱いも不審な部分であり、一方、事件を知ったソ連政府は日本政府に対して、船体の所有権を放棄したばかりか遺体の収容は不要、遺品の返還も無用、という異例の連絡を行っている。救助された乗組員らは、当月中に小樽港から離日、ウラジオストクへ向け帰国していった。

猿払村は、1971年(昭和46年)にオホーツク海に面した場所に慰霊碑を建立するなど、事故後も手厚く遭難者の慰霊を行ってきた。ソ連当局は慰霊碑の建立には協力したものの、冷戦時代に付きものであった派手なプロパガンダはなく、事故に対して比較的冷淡な姿勢を示したことは、長らく事故の詳細と共に謎とされてきた。

ソビエト連邦の崩壊後の1991年、歴史学者の原暉之は旧ソ連の公文書をひもとき、乗員の多くがコルィマ鉱山などのシベリア地方に点在していた強制収容所(グラグ)からの送還者であり、船自体が政治犯および家族の護送船であったとの説を発表している。

道の駅さるふつ公園の敷地には、事件の資料などを展示した「日ソ(ロ)友好記念館」が1972年にオープンしたが、施設の老朽化を理由に2011年に閉鎖・解体された

 

昭和14年12月12日に起きた1000人乗り「インディギルカ号」遭難の悲劇

2022/04/12 日刊ゲンダイ 保阪正康 作家

ソ連のインディギルカ号(以下、イ号と略す)は、シベリアのマガダンからウラジオストクに向けて、樺太を海岸沿いに南下していた。宗谷海峡から日本海に入って寄港地に向かっていた。ところが日本海を暴風雨が襲い、イ号は波に流されてさまよう状態になった。このイ号遭難を調べた澤田三尚がまとめた「検証 インディギルカ号遭難事件」(私家判)によると、以下のようになる。

「午前二時頃通称トド岩(海馬島)に激突座礁し、船体に大穴が開き横転、さらに押し流され、海岸から七百米浅瀬に乗り上げ右舷が着底し、船体の半分ほどが浸水した」

 この貨物船は乗組員40人。漁期にシベリアで漁業に従事していた漁師とその家族の1000人余が乗船していたとされている。もう少しこの遭難を記述していけば、荒波の中、乗組員10人ほどがボートを下ろして陸地の北海道を目指して漕ぎ出した。何度か転覆したが、それでもやっと北海道の小さな港町にたどり着いた。昭和14(1939)年12月12日の未明であり、宗谷郡猿払村浜鬼志別という町で、漁師の神源一郎宅に救いを求めたというのであった。この地の漁師たちは暴風の中、総出でロシア人の救出に当たっている。

ソ連船の遭難は微妙な国際情勢を反映して、国家レベルの段階では対策に頭をひねっていた。漁師たちのとにかく救助を優先しろという声とは、やはりいくぶんの開きがあったということであった。ソ連の船員たちは身ぶり手ぶりで、遭難の様子を伝達する。漁師たちは嵐の中で横転した船が揺れ動くのを見つめながら、どのような救出がいいのかと議論を続けた。地元警察は組織だって救助しようとしたが、低気圧が暴風雪となり、とても地元の漁師のレベルでは阻止できないことが明らかになっていった。

 横転した貨物船の上では乗組員の家族などが救助を求めて手を振っている。しかし手がしびれるのか、一人、二人と海におちていった。日本の漁師たちは必死に「頑張れ、今に助けに行くからな」と日本語で叫んでいる。しかしロシア人には通じるはずはなかった。日本に救助船の余裕はなく、やがて12月12日の昼過ぎには、漁師やその家族、そして乗組員の遺体が漂着してきた。日本の漁師たちは、漁師仲間として遺体を手厚く葬っている。

 イ号の本当の姿はなかなかはっきりしなかったが、やがて囚人船だと明らかになっていく。遭難が政治問題化していくことになったのである。

 

遭難者395人を救助するも、まだ船内に人がいた。なぜなのか?

2022/04/13 日刊ゲンダイ 保阪正康 作家

インディギルカ号の遭難事故に地元の北海道宗谷の猿払村では、漁民総出で救助活動を行った。ほかに青年団員、消防関係者、それに在郷軍人会などが嵐の静まるのを待って待機していた、その間にも多くの死体が海辺に漂着する。その遺体を弔うことも漁民たちの仕事になった。

 実は漁民たちを含めて、誰もが複雑な心境であった。ノモンハン事件が終わり、第2次世界大戦も始まっている。この村でもノモンハン事件に兵士として召集されて、戦死した者がいる。遺族の感情は複雑であった。

 しかしそうした感情は目前の困難と戦っているソ連の乗組員や漁民を助ける障害にはならなかった。漁民の中には自分の船を暴風雨の中に出して、救助に向かう者もあった。そのような船もやがて波にのまれ転覆するありさまであった。日本人漁師の間にも犠牲者が出かねない状況になった

 一方でソ連船の遭難は、北海道庁外事課を通して領事館、ソ連大使館にと連絡が伝わっていく。国内では警察を通じて陸軍の主要部門に情報が伝わっていった。そういう筋の元でも救助の船舶の手当てが進み、陸軍の依頼で大型の船舶も救助に向かっている。漁民たちは救助をもっと迅速にと、軍関係者にも要求している。こうして13日の午前7時には大型の船舶が現場に到着して、遭難者を3隻の船に乗せた。暴風雨が弱まったのを機に、3隻の船は遭難者を陸地に運ぶために、それぞれ何回か往復している。

救助活動は5時間にわたって続いた。澤田三尚の「検証 インディギルカ号遭難事件」によるなら、救助された遭難者は395人(うち漁師311人、その他は家族や乗組員など)だったという。最初に猿払村にたどり着いた5人の乗組員は、猿払から稚内に列車で運ばれたが、沿線では人々から歓迎され、彼らは涙を流しながら稚内港で救助者たちと再会している。

 事件は落着したかに見えた。遭難事故をめぐる日本とソ連の人間愛ともいうべきドラマの様相を帯びて終末を迎えたようである。

 しかしことはそれほど簡単ではなかった。第2幕があったのである。

 猿払村の漁民たちが中心になって、遺体作業の処理が続いた。ところが座礁した船を望遠鏡で見ていた漁民が、イ号の船腹で動いている人影を見た。ソ連の外交官が、まだ船には人がいる、全員救助したというのは嘘ではないかと日本側に詰め寄っている。実際には船長が「船にはもう残っている者はいない」と断言したため救助活動が終わったのである。なぜ船長はそんな見えすいた嘘をついて「自国民」を見殺しにしようとしたのか。 (つづく)

 

インディギルカ号の船長が生存者を見捨てた原因は「囚人」だったから

2022/04/14 日刊ゲンダイ 保阪正康 作家

しかし遭難事故から80時間以上が経過し、救助活動も終えて50時間近く経っている。もし転覆した船底に生存者がいるとすれば、船底に穴を開けなければならない。こうなると陸軍のような巨大組織が救助活動の先頭に立たなければならない。もう一度救助船が出され、船底に穴を開けところ、幾人かが雪をなめて生命を維持していることが確認された

 この遭難については、原暉之著「インディギルカ号の悲劇-1930年代のロシア極東」に詳しい。この書によると船底の人がいる部分を確かめては穴を開け、救助を続けたというのである。生存者もいたが、死者も多かったというのであった。幼児を抱く母親も交じっていた。第2次救助では27人が助け出された。結局生存者は402人であったという。

 彼らは小樽に移され、日本側の特高警察や外事課の職員によって事情聴取が行われている。地元紙はこの救助を詳細に報じている。すると道民の間に同情の空気が漂っていく。「ノモンハン事件を思うと敵愾心に燃えますが、人道愛には変わりありません。救助された婦人や子供に食べ物など買ってあげてください」との手紙に相応の金額が同封されていたこともあったという。

猿払村では合同慰霊祭も行われ、生存者は日本人の厚意に感謝して小樽港からウラジオストクに帰っていった。地元紙は日本のソ連に対する善意をたたえる記事を書いている。しかしその後の日ソの関係は、戦争を挟んでとげとげしい空気になっていったためか、この遭難事故は大きく語られることはなく、歴史的には見過ごされてきた。スターリン時代のこの遭難劇の背景に目を向けることはほとんどなくなった。

 それから50年余を経て刊行された前述の原暉之著は、このインディギルカ号は実は囚人船であり、正式の乗員は1500人を超えたのではないかと、具体的にその実像を明かしたのであった。北大のスラブ研究センター教授である原の、ソ連側の資料などを分析したこの報告にやっと納得した道民も多かったのである。原はこの著書に「インディギルカ号が実は『オホーツク海の死の船』として恐れられた囚人護送船の一隻だったという事実」と書いているが、この囚人という意味はスターリンから見た反国家的人物を指している。シベリアに送られて強制労働をさせられる時代のことだ。

それゆえに船長が生存者がいるにもかかわらず、見捨てる態度に出たのである。

 

「日本側が仕組んだ」証言通らず…インディギルカ号の転覆後、政治犯は射殺された

2022/04/15 日刊ゲンダイ 保阪正康 作家

1930年代、40年代に、スターリンは自らに反対する知識人らはいうに及ばず、それ以外の人々も反国家的人物とレッテルを貼ってシベリアに送り込んだ。そのルートがウラジオストクから収容所の入り口に当たるマガダンというコースだったという。このコースでは宗谷海峡を経由して行かざるを得なかったのである。

囚人護送船が頻繁に(日本周辺を)行き来していたのは単純な真理である」と原暉之はその書に書いている。つまりスターリンは、ウラジオストクからマガダンへの往復路として宗谷海峡を自由に通らせていたことになる。

 インディギルカ号は貨物船というのだが、実際には囚人護送船であった。ただし今回のように漁期などには、漁民の家族を乗せることもあった。船長が日本側の救助隊に、もう乗組員はいないと言ったのは、船底にいる囚人を助けるつもりがない意思を明確にしていたことになる。船長はこうした囚人が助かることで日本側に囚人護送船の存在が知られるのを極度に恐れていたのである。

 付け加えれば、この船長はウラジオストクに戻ってから遭難の責任を問われて、裁判を受けている。自らの立場を正当化するために、「この遭難事故は日本側が仕組んだ」と証言している。宗谷岬の灯台の光を変えたために我々は航路を間違えた、というのであった。この主張はさすがに相手にされなかった。

 1940年4月14日に判決が下され、船長は銃殺刑になっている。遭難したこと自体が責任を問われ、思想犯をシベリアに運んでいる事実があからさまになる危険性が罪として問われたのであろう。しかし船長の銃殺は日本側には知らされていない。

 さらに船が転覆したときに自身で脱出を図ろうとした政治犯は護送係の兵士によって射殺されている。まさに船内は殺伐とした空気に支配されていたのである。この護送兵も裁判を受けているが、5年ほどの有期刑だったという。脱出を逃亡と判断したと認められたのであろう。

 日本側の救助隊に救出された折にも、囚人や漁業関係者には、ソ連の内情を話してはいけないとの命令が出されていた。日本の特高警察や北海道庁の外事課員らが尋問を行ったが、初めから漁業関係者と思い込んでいたため結局は真相に迫ることができなかった。もし囚人護送船が日本周辺に遊弋していると分かったならば、日本側の対応もまた異なった形になったであろう。ソ連の弱みをつかんだことになるからだ。 

左:農業資料館【閉鎖中】、右:風雪の塔【閉鎖中】)

「風雪の塔」は、本村の基幹産業である酪農において、生乳生産量が村内全体で年間2万トン、戸当り平均2百トンを突破したことを記念して、昭和59年に建設された。

牛乳と肉の館。

「牛乳(ちち)と肉(にく)の館」では、いずれも「さるふつ」の名を冠した牛乳、バター、アイスクリームを製造しており、なかでも「さるふつ牛乳」は、脂肪分を分解しないまま高温で殺菌する全国でも珍しい工程を採用し、生乳に近いまろやかな風味が好評という。

これら製品の原料となっている生乳は、村内の農家から直接仕入れている。

 

5時30分ごろ駐車車両に戻って朝食を摂り、9時ごろ豊富町の豊富温泉へ向かった。

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