勿来関(なこそのせき)跡。福島県いわき市勿来町関田長沢。
2024年5月24日(金)。
2024年5月24日(金)から6月1日(土)までの9日間、福島県の史跡見学を中心に車中泊旅行した。福島県は会津若松を中心に1980年代初めから喜多方ラーメン、野口英世記念館、天鏡閣、会津若松城などを観光し、90年代後半には安達太良山、磐梯山、飯豊山に登頂している。浜通りはいわき市の駅前温泉に入浴し、中通りでは三春の滝桜を鑑賞した。
山川出版社の「福島県の歴史・歴史散歩」を読んで目的地を選定したが、かなり絞り込んだ。4月中旬に名古屋市の中日ビルにある福島県の観光事務所を訪ね、プロット用の全県地図や各地のパンフレットを入手した。そのときに、福島の「まつり」で一番有名な相馬野馬追が5月下旬に開催されると知った。相馬野馬追はニュース映像で見ているので、さほど興味はない。かえって交通が混雑して避けたいぐらいだったが、本番前日の競馬を鑑賞することができて満足した。なお、会津西部は山形県への旅行時に見学することにした。
ルートは、浜通りをいわき市から新地町まで約2日で北上、5月26日(日)に中通り方面へ向かい、途中の「まきばのジャージー本店」でソフトクリームを食べたあと霊山城跡へ登って梁川城跡から国見町へ、中通りを郡山市まで南下。博物館は月曜日休みが多いが、福島市の施設は火曜休みが多いことを利用。郡山市から会津へ入り周遊、大内宿から中通りの須賀川市へ戻り、白河市から栃木県へ抜けることにした。
車中泊旅行で大事な要素は就寝時の最低温度だ。5月下旬の気象データを参照していたが、実際には低く、相馬と会津で10度前後のときが2夜あり、セーター2枚着用のうえ、会津のときは登山用ザックに常備していた使い捨てカイロを使用した。
基本的な費用であるガソリン代は、17,944円、2069㎞走行、111.08ℓであった。高速道路不使用、ホテル不使用。障害者免除割引制度を利用して、観光食事費用は1万円程度。例えば、いわき市の「アクアマリンふくしま」1850円は無料。福島市の市営公共浴場「飯坂温泉鯖湖湯」「高湯」「土湯」、郡山市「ユラックス磐梯熱海温泉」、須賀川市の公共温泉は無料だった。
日程は、5月23日(木)早朝に名古屋市守山区の自宅を出発して、茨城県常陸太田市の道の駅まで。6月2日(日)は午前中、栃木県下野市の栃木県埋蔵文化財センターと下野風土記の丘・下野国分寺跡・国分尼寺跡を見学して、道の駅「八王子」へ。6月3日(月)は横浜市旭区の兄宅へ寄って、11時に出て、津久井湖・相模湖・国道20号線・権兵衛峠トンネルから国道19号線経由で20時過ぎに帰宅した。
5月23日(木)6時40分に名古屋市守山区の自宅を出発して、茨城県常陸太田市の道の駅に18時30分ごろ到着した。途中、長野県岡谷市の新和田トンネル有料道路が2022年4月から無料開放されたことを知らずにナビ通りに山間部へ迂回。軽井沢から碓氷峠へ入ったら遅い車に遭遇。安中・高崎を通過。
5月24日(金)常陸太田市の道の駅を早朝に出て、勿来関(なこそのせき)および9時開館のいわき市勿来関文学歴史館を目指した。途中、日立市内の国道6号線は渋滞していた。
いわき市へ入ってまもなく、勿来関への道標にしたがい、国道6号線から山側に入り、JR線をくぐって坂道を上ると8時45分ごろに勿来関文学歴史館手前の駐車場に着いた。時間があったので、道路を数百mほど先に進むと、勿来の関跡を象徴する源義家の銅像がある坂道入口地点に着き、手前にある駐車スペースに駐車した。銅像の横には関跡を示す石碑と関門が立つ。
勿来の関(なこそのせき)跡は、太平洋が広がる勿来海岸に沿って走る国道6号の西側、標高130mの小高い山にある。勿来関は、古代から歌枕となっている関所の1つで、白河関(福島県白河市)、鼠ヶ関(念珠ヶ関。山形県温海町)とともに「奥州三関」に数えられている。
平安時代以前は菊多剗(菊多関、きくたのせき)とよばれていたとされる。『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)巻第一』(835年)の記に「白河・菊多両剗が置かれてから、四百余歳」とあり、4世紀から5世紀ごろにかけて蝦夷の南下侵入を防ぐための関門として設置されたと伝える。また、日本書紀の655年の記に柵作りをした東蝦夷九人等に冠二階級を授けた旨があるので、奈良時代の頃に設けられたとする。
ただし、実際にあった関跡は判然としない。
その後、菊多関の名は歴史史料から消え,かわって歌枕として勿来関の名が登場し、勿来の関が『来る勿(なか)れ』の意味で文学上に表現されていき、源義家が詠んだ「吹く風をなこその関とおもへども道もせにちる山桜かな」の和歌に代表される歌枕の地として全国に知られていった。
源義家「ふくかぜを なこそのせきと おもへとも みちもせにちる やまざくらかな」。
『千載和歌集』の詞書には「みちのくににまかりけるときなこそのせきにてはなのちりければよめる」とある。
源義家が陸奥に赴いたのは生涯において3度ある。1度目は1056年(天喜4年)8月から翌年11月までの期間に前九年合戦に際して、2度目は1070年(延久2年)8月の下野守在任中に陸奥国への援軍として、3度目は1083年(永保3年)9月に自身が陸奥守兼鎮守府将軍として、である。
関の門から同文学歴史館に至る石畳の小道は「詩歌の小径(こみち)」として、小野小町、和泉式部らの句碑や歌碑が立ち、文学散歩を楽しむこともできる。
小野小町:みるめかる あまのゆききの みなとちに なこそのせきも わかすゑなくに(新勅撰和歌集)
和泉式部:なこそとは たれかはいひし いはねとも こころにすうる せきとこそみれ(玉葉和歌集)
右大将道綱母:こえわふる あふさかよりも おとにきく なこそはかたき せきとしらなむ(新千載和歌集)
紀貫之:をしめとも とまりもあへす ゆくはるを なこそのやまの せきもとめなむ(夫木和歌抄)
西行法師:あつまちや しのふのさとに やすらひて なこそのせきを こえそわつらふ(新勅撰和歌集)
しばらく「詩歌の小径(こみち)」を散策したのち、勿来関文学歴史館を見学したが、見るべきものは少なかった。
このあと、いわき市考古資料館へ向かった。