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青森県 八戸市博物館②縄文土器 物見台式土器 世界遺産候補・長七谷地貝塚 榎林式土器

2024年05月15日 09時13分44秒 | 青森県

八戸市博物館。青森県八戸市根城。

2022年10月1日(土)。

尖底深鉢形土器。縄文時代早期。物見台式土器。田面木平(たものきたい)(1)遺跡。

縄文時代早期の土器は、草創期の土器にくらべて厚手につくられており、深鉢形で尖(とが)り底や丸底になることが特徴である。早期のはじめは魚の骨などでつけた押型文様がみられ、早期のなかばにはサルボウなどの二枚貝の表面を引いたり、腹縁を押し付けたりした貝殻文様が器の表面に描かれるようになる。

牛ヶ沢(うしがさわ)(4)遺跡出土の土器は、腹縁のギザギザを縦横に押し付けたデザインのもので「根井沼(ねいぬま)式土器」と呼ばれている。田面木平(たものきたい)(1)遺跡でみつかった土器は、貝殻と沈線で入り組み文様などが器の全面に描かれていることが特徴で、「物見台(ものみだい)式土器」と呼ばれる大型の優品である。

早期の後半は貝殻文様などがみられなくなり、縄目文様が用いられるようになる。長七谷地(ちょうしちやち)7号遺跡からみつかった「赤御堂(あかみどう)式土器」は、尖り底の深鉢形で器の表面全体のほか、内面にも縄文がつけられているものもある。

尖底深鉢形土器。縄文時代早期前半 (約9000年前)。八戸市館平遺跡。

縄文土器は、アカガイ、サルボウなどの貝殻でつけられた貝殻文、沈線文、刺突文などを合わせた文様が描かれており、形は底部の尖った深鉢形をしている。これらの土器は、三戸町の寺の沢遺跡で最初に発見された土器と似ていることから「寺の沢式土器」と呼ばれている。縄文時代早期中頃の日本列島は関東を境に、東日本の「沈線・貝殻文土器文化」と、西日本の「押型文土器文化」のふたつの文化圈がみられる。

尖底深鉢形土器。縄文時代早期後半。世界遺産関連資産・「長七谷地貝塚」。

国史跡・長七谷地(ちょうしちやち)貝塚は、縄文時代早期後半の紀元前6,000年頃の貝塚を中心とする集落遺跡で、八戸市桔梗野(ききょうの)工業団地内に位置に所在し、五戸(ごのへ)川沿岸の標高約10~20mの丘陵末端部に立地する。気候の温暖化により、縄文海進の中でも最も海水面が高くなった海進期に形成された内湾である古奥入瀬湾(こおいらせわん)に面し、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていた時期に貝塚は形成された。

貝塚からは、ハマグリやオオノガイ、ヤマトシジミなど、内湾性の貝殻が多量に出土した。魚類では、スズキやクロダイ、カツオなど、内湾性を主体に外洋性の魚の骨もみられる。ほかにも、鳥類や動物の骨、さらには赤御堂式土器(縄文条痕系統の尖底土器)を中心とする多量の土器と石器、石製品、土製品も出土している。

組合せ式の釣り針や銛頭(もりがしら)など、多種類の骨角器が出土しており、漁労活動が非常に活発であったことがわかる。また、後背の丘陵ではイノシシやシカなどを捕獲していた。

当時の人々は、縄文時代の早い段階で海洋資源に合わせた釣漁や刺突漁の漁労方法を編み出したと考えられ、貝塚からは、スズキやカレイ、マダイ、カツオなどの内湾から外洋性の魚骨が多くみられ、一方で鳥獣骨は少ない。また、長七谷地型の開窩式離頭銛(かいかしきりとうもり)や釣針といった骨角製漁撈具がみられる。これらのことから、長七谷地貝塚を営んだ縄文人は、海洋に適応した独特の漁撈文化を発達させ、漁撈中心の生業活動を展開していたと推定される。

出土する土器は、尖底の「赤御堂(あかみどう)式土器」のみであることから、急激な環境変化の中で比較的短期間に営まれた貝塚と考えられる。

深鉢形土器。縄文時代中期。円筒下層式土器。松ヶ崎遺跡。蟹沢遺跡。重地遺跡。

深鉢形土器。縄文時代中期。円筒上層a式(松ヶ崎遺跡出土)。

松ヶ崎遺跡は新井田川と松館川にはさまれた高台にある遺跡で、これまでの発掘調査の内容から縄文時代前期後半から中期後葉にかけて多数の遺構が累積する集落だったことは明らかであり、縄文時代中期(約5900年~4300年前)を中心とする大きなムラがあったことがわかっている。現在発掘調査を進めている場所からは、70もの竪穴建物跡が見つかった。竪穴建物が何棟も重なり合っているところもあり、同じ場所に繰り返し建物がつくられたと考えられる。また、火事などで焼失したとみられる建物跡も見つかっている。 松ヶ崎遺跡周辺にはほかに前期から中期の重地遺跡中期の石手洗遺跡がある。重地遺跡は時期ごとの住居跡数は少ないが、大型住居を含む集落である。

縄文時代前期中葉から中期中葉の東北地方北部から北海道南西部では、「円筒土器」と呼ばれるバケツ形の土器がつくられた。この「円筒土器」によって特徴づけられる文化を「円筒土器文化」という。

1926年(大正15)、東京帝国大学の長谷部言人(ことんど)・山内清男(すがお)が八戸市是川一王寺(いちおうじ)遺跡の調査を行い、この際に出土した土器が「円筒土器」と命名された。

また、上層と下層の土器の違いから、前期の円筒下層式中期の上層式に大別された。慶応義塾大学の江坂輝彌(てるや)は、八戸市蟹沢(かにさわ)遺跡などの出土資料をもとに、円筒土器の細分を進めた。こうした研究により、下層式はa・b・c・d1・d2式、上層式はa・b・c・d・e式の計10型式に分かれ、現在も更なる細分が検討されている。

円筒下層式土器の主な特徴は、形が下から上までほぼ真っ直ぐであり、器面に様々な縄目文様がつけられ、粘土に植物繊維が含まれることである。

初期の円筒土器は、中期中葉にあたる約5900年前に十和田火山の噴火により降下した十和田中掫(ちゅうせり)テフラ堆積層の直上から出土する。このため、円筒土器の成立には、十和田火山噴火の災害が人類や生態系に与えた影響が深く関わっていると考えられている。

縄文式甕形土器。縄文時代中期。県重宝。八戸市是川字新田出土。

口縁に4個の突起を持ち、口頚部にくびれを有する大型の土器である。体部は地文に斜縄文が施され、器体の外面には粘土紐による格子状の区画装飾が施されるなど、均整のとれた優品である。

 

縄文時代中期の円筒上層式土器の特徴は、土器の口が大きく外に開き、大きな4つの突起が付く。また、土器の上半部に縦・横位、弧状の粘土紐による立体的な装飾が巡り、隆帯の上や隆帯の隙間に縄文原体を押し付けた文様が施される。土器の装飾化に伴ってサイズが大型化し、高さが80cm以上になるものもある。中には、土器の内面に人の顔を表現したものもみられる。一方、円筒下層式にみられた植物繊維の混入はみられなくなる。

こうした大きな突起や立体的な装飾、植物繊維混入の断絶などの変化は、東北地方南部を中心とする「大木式(だいぎしき)土器」の影響によるものとみられる。逆に、円筒土器の縄文原体を押し付ける文様は「大木式土器」に採用され、相互に影響を与えている。

円筒上層式の最後であるe式の段階になると、それまで円筒土器にほとんど採用されなかった沈線による文様が「大木式土器」の影響を受けて取り入れられる。それ以降はさらに円筒式と大木式の融合が進み、次第に両者の違いがなくなり、円筒土器は終焉を迎える。

 

深鉢形土器。榎林式土器。縄文時代中期後半。松ヶ崎遺跡出土。

深鉢形土器。県重宝。八戸市堀田遺跡。八戸市是川字堀田出土。

肩部が大きく膨らんだ深鉢形土器で、現状は口頚部を欠いている。体部の中央は大きく膨らみ、底部は2分の1ほどのせばまりを見せている。底に近い部分には縦位の縄文、体部は彫りの深い入組状の渦巻文が施されている。東北地方南部に見られる大木式土器の影響を強く有する土器である。

 

榎林(えのきばやし)式・最花(さいばな)式は、東北地方北部を中心に分布する大木(だいぎ)系土器である。

大木式土器とは、宮城県七ヶ浜(しちがはま)町大木囲(だいぎがこい)貝塚出土資料を基準として設定された土器型式であり、縄文時代前期から中期の東北地方南部を中心に分布する。13型式に細分されており、中期中葉から中期末葉までは、大木8a・8b式、大木9式、大木10式が分布する。大木式は、縄文時代中期中葉の大木8b式の頃に分布を拡大し、大木式土器文化圏と接する周辺地域ではその影響を受けた。東北地方北部では、円筒土器文化が終焉し、大木式土器の影響を受けた大木系土器が作られるようになる。

榎林式は、七戸(しちのへ)町榎林貝塚(現・二ツ森貝塚)出土資料を、最花式は、むつ市最花貝塚出土資料を基準に設定されており、前者は大木8b式に、後者は大木9式に併行する。

青森県南部からは、大木式に近い土器も見つかっており、八戸市松ヶ崎遺跡からは大木8b式の深鉢形土器が出土したほか、八戸市堀田遺跡からは大木9式の深鉢形土器が発見されている。

八戸市八幡貝塚。

八戸市大字八幡字館ノ下、字八幡丁に所在し、八戸市の中心部から南西へ約5.5kmに位置する。馬

淵川右岸の東から西に向かって傾斜する、標高6~20mの低位段丘上に立地している。

青森県 八戸市博物館①エミシの末期古墳 丹後平(たんごたい)古墳群



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