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最北端の稚内駅 北防波堤ドーム 巡視船「りしり」「もとうら」

2024年08月26日 09時05分00秒 | 北海道

礼文島を出港した稚内港行きフェリーから見る礼文島。朝は見えていた利尻山は見えなかった。

2022年6月17日(金)。

桃岩展望台コースのミニトレッキングを終え、桃岩遊歩道入口に15時10分ごろに着いた。香深港17時10分発のフェリーに乗らねばならないので、16時ぐらいには香深港に着いておきたいが、時間の余裕ができたので、海岸沿いの裏通りを歩いて、ミニスーパーを数件覗いてみた。16時ごろに香深港フェリーターミナルに着いた。

稚内港へは9時5分ごろに帰着して礼文島への日帰り旅が終わった。稚内駅周辺を歩いて弁当屋や安い定食屋がないか探したがなかったので、稚内駅にある「セイコーマート」で買い物をしたあと、車を停めていた道の駅へ向かった。

稚内駅。稚内市中央。

以前の日本最北端の線路として使用していた車止めとレールが、JR北海道から稚内市に寄贈され、駅前広場上のモニュメント「日本最北端の線路」として2012年3月に復元されている。

2022年6月18日(土)。

礼文島へ行く当初の予定日は18日であったが、雨予報だったので17日に早めた。そのため、枝幸町の「オホーツクミュージアムえさし」を通過したので、本日見学することにして、稚内市の北方記念館・開基百年記念塔、宗谷岬、枝幸町とオホーツク海沿いに戻り、道の駅「さるふつ」で泊まる行程とした。北方記念館が9時開館なので、それまで道の駅「稚内」周辺を見学することにした。

稚内駅は、JR北海道宗谷本線の駅で、現存する日本国内の鉄道駅としては最北に所在する。稚内における鉄道は、1922年(大正11年)に開業したが、当初の稚内駅は現在の稚内駅の約2 km 南に位置し(南稚内駅の前身、その後移転)、南樺太の大泊へ向かう鉄道連絡船「稚泊(ちはく)航路」への乗船客は徒歩で、貨物は荷車で連絡していた。この不便を解消するため、1928年(昭和3年)に稚内港駅(わっかないみなとえき)まで鉄道路線が延伸されたのが、当駅の始まりである。

1936年(昭和11年)には稚内港の北防波堤桟橋が竣工し、さらに防波堤桟橋内への線路延長敷設工事(約850 m)が始まり、1938年10月から防波堤桟橋内(現:北防波堤ドーム内)に稚内桟橋駅(わっかないさんばしえき)を、稚内港駅の構内乗降場の扱いで設置している

1939年(昭和14年)2月1日に稚内港駅を稚内駅に、稚内駅を南稚内駅に改称した。その後、稚泊航路は1945年(昭和20年)8月24日に稚内港に入港した便を最後に運航停止となって、稚内桟橋駅も実質的に廃止となった。2010年、単線の駅になった。2011年4月3日には「稚内駅前地区第1種市街地再開発事業」に伴う稚内駅再開発ビル「キタカラ」に新しい駅舎(4代目)が開業した。

宗谷本線は、旭川市の旭川駅から名寄市の名寄駅を経て、稚内市の稚内駅を結ぶ鉄道路線である。

旭川市から上川管内北部・宗谷管内と道北地方を縦断し、北方領土を除く日本最北端の自治体である稚内市に至る全長259.4 km の鉄道であり、地方交通線としては日本最長である。士別市から幌延町にかけては、天塩川の右岸を走行する。

宗谷本線は、樺太(サハリン)と本土を結ぶことを急務として建設された路線であった。始まりは北海道官設鉄道による1898(明治 31)年の旭川~永山間だが、1912(大正元)年に官設鉄道の宗谷線として音威子府(おといねっぷ)までを開業し、1922(大正11)年に浜頓別(はまとんべつ)経由で稚内(現・南稚内)まで延伸。現在線は、天塩線として1926(大正15)年に稚内まで開業。1928(昭和3)年に稚内港(現・稚内)まで全通した。

終点の稚内から対岸の大泊(コルサコフ)への鉄道連絡船(稚泊航路)が第二次世界大戦終戦時の1945年8月まで就航していた。

沿線を流れる天塩川の舟運に代わり、各支線と合わせ道北各地で産出される木材や石炭等の鉱物、水産物を輸送する重要な貨物輸送路線としての使命も担った。

1995年9月4日までに天北線・深名線など接続する支線は全て廃線となった。

稚内港北防波堤ドーム。稚内市開運。土木学会選奨土木遺産、北海道遺産。

北防波堤ドームは、稚内港にある大型の防波堤である。防波堤の外観としては異色となるドーム状の形態を取っていることから命名された。高さ約14メートル、長さ427メートル、古代ギリシア建築を彷彿とさせる70本のエンタシス状の柱列群は、斬新な印象を与えている。

北防波堤ドームは、稚内港の防波堤としての役割および、北海道と樺太を結ぶ鉄道連絡船(稚泊連絡船)の桟橋など港湾施設の保護、桟橋から駅までの乗客の乗り換え通路を兼用するため、1931年(昭和6年)から5年間をかけて建設され1936年に竣工した。

設計者の土谷実は北海道帝国大学を卒業して3年目の26歳で、稚内築港事務所に赴任してきた北海道庁の技師であった。施工は間組(現安藤ハザマ)。

建設後、稚内駅からドームの手前まで国鉄の線路を延長し、同駅の構内仮乗降場扱いで「稚内桟橋駅」が開設され、乗客はドーム内を歩いて桟橋に待つ連絡船に乗り込んだ。その後、第二次世界大戦を経て終戦を迎えたことから稚泊連絡船は消滅し、これとともに稚内駅から桟橋駅に続く線路も消滅したが、防波堤としての機能は維持されており、以後も礼文島や利尻島への航路など多くの船が発着する稚内港を守り続けている。

巡視船「りしり」は、番号PL11(PLは大型巡視船Patrol Vessel Large)、総トン数 1,500トン、全長96.0m、幅11.5m。平成28(2016)年に下関造船所で建造され、同年から稚内海上保安部の所属船になった。主兵装はブッシュマスターII 30mm単装機銃を搭載

船尾甲板は発着甲板(ヘリコプター甲板)とされており、ヘリコプターに対して電源や燃料を供給できる。ヘリコプター甲板付きの巡視船は道北地区では、りしりだけである。

巡視船「もとうら」。番号PM12(PMは、中型巡視船Patrol Vessel Medium)、総トン数325トン、全長67.80m、幅7.90m。1986年(昭和61年)、香川県高松市にある四国造船所で建造され、同年11月から平成24年1月まで浦河海上保安署の所属船として、主にえりも岬から恵山岬沖にかけて、海上保安業務に当たっていた。2012年(平成24年)1月18日に巡視船しらかみ解役に伴い稚内海上保安部に配属替え。 「もとうら」という船名は、日高地方の清流、「元浦川」より名づけられた。

 

このあと、南方の丘の上にある稚内市開基百年記念塔・北方記念館に向かった。

礼文島 花のトレッキング レブンキンバイソウ 桃岩展望台コース



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