昔ある名僧が居たとして、斜め45度の肖像画が残され、名僧のイメージとなって延々と後世に写され続ける。その間、立体像も多数作られる。件の肖像画を元に作られただろうが、すでに誰も正面顔を見たことがないから、作り手により様々解釈され、別人が如き像が残される。蘭渓道隆はもとより、おおよそそんなところではないか。来週より始まる『法然と極楽浄土』でもお馴染みの数珠を手にする法然像と、同一人物とは思えない立体像が並ぶだろう。 松尾芭蕉を作る時、全国に二千体あろうかという芭蕉像は、俳句的?に老人臭く描かれるのが通例で、門弟等が残した芭蕉像が無視されている。後世の、その恩恵に浴する立場で失礼だと考える。この件に関しては、最後の文人画家だか知らないが、富岡鉄斎であろうと、実在した人物は、自由に描けば良いというものではないだろうと思う。実在した人物に対してはずっとそんな心持ちで制作して来た。
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