推理小説や探偵小説の古典を読んでいると時代の違いを感じさせられることもあります。推理小説の始祖[*1]ともされるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)が生んだ世界最初の名探偵と言われるオーギュスト・デュパン(C. Auguste Dupin)は『モルグ街の殺人(1841)[The Murders in the Rue Morgue]』『マリー・ロジェの謎(1842-43)[The Mystery of Marie Rogêt]』『盗まれた手紙(1844)[The Purloined Letter]』の3作品に登場します。『盗まれた手紙』の冒頭では数年前のこととして先の2作品での事件に触れていますが、各事件が起きたのは発表時のほぼ直前と想定すればよいのでしょう。これは日本では明治元年(1868)より34年も前、黒船来航(1853)さえ起きていない江戸時代のことです。探偵小説が同時代の日本を舞台にすれば捕り物帳になってしまいます。ゆえによく読むと19世紀中期ならではの情景が登場します。
デュパンが活躍する3作品はいずれも、パリ警視総監のG氏が難事件を持ち込みデュパンがそれを解決する次第を"私"が語るという、ホームズ物でおなじみの形式です。ただし最初の『モルグ街の殺人(1841)』だけは、デュパンが自分から解決を買って出て見事にデビューを果たしています。
ポーのどの作品も明治時代から始まって複数の日本語訳がありますが、今回取り上げる『盗まれた手紙』では3つを挙げておきましょう。それぞれに印象や読みやすさはやはり違います。本記事はRef-1を中心に書きます。
Ref-1) 小川高義(訳) 収録: エドガー・アラン・ポー;小川高義(訳)『アッシャー家の崩壊/黄金虫 (古典新訳文庫)』光文社(2016/05/12) ISBN-13: 978-4334753313
Ref-2) 深町眞理子(訳) 収録: エラリー・クイーン『クイーンの定員―傑作短編で読むミステリー史 (1) (光文社文庫)』(1992/03/20) ISBN-13: 978-4334760656
Ref-3) 丸谷才一(訳) 収録: 『E・A・ポー ポケットマスターピース09 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)』(2016/6/23) ISBN-13: 978-408-761042-0
『盗まれた手紙』は殺人事件ではなく、タイトル通りに盗まれた手紙を探すものですが、行方不明になった重要な手紙や外交文書、機密書類などを探すというテーマも結構推理小説に登場します。失せ物捜しという風に広げればさらに扱った作品は増えるでしょう。
では『盗まれた手紙』が遠い昔の時代だと痛感させられる場面を紹介しましょう。以下の引用はみなパリ警視総監のG氏の言葉で、赤文字は私の強調です。
「使用人の数は多いとは言えない。しかも主人の居室からは離れて寝ていて、またナポリ人が主体なので、すぐに酔いつぶれる。」
作品発表の1844年はイタリア統一はまだなされておらずイタリアは複数の国家に分かれていました。ゆえに"ナポリ人"です。ナポリ王国は現在の南イタリアのほとんどを領土としていた国家です。ただしこの作品発表当時は、1816年にナポリ王国とシチリア王国とが合併した両シチリア王国(Regno delle Due Sicilie//Kingdom of the Two Sicilies)になっていました。しかしシシリアン(Sicilian)では、当時の人にもシチリア島出身者という風にしか解せなかったのかも知れません。
この部分はRef-1は"ナポリ人"ですが、Ref-2は"ナポリ出身者"、Ref-3は"ナポリ者"です。1816年以前なら"ナポリ人"が一番適切な訳になると思いますが、上記の通り両シチリア王国の一部ということになると話は簡単ではありません。ポーを始めとするイタリア外の欧米人はどんな感覚だったのでしょうね。
原語はナポリタン[*2]で、英仏伊の言語の常套として地名の形容詞化単語がその地の出身者を意味する単語です。この地名が国家の領土全体なのか単なる一地方なのかという区別は全くありません。ですから現代のヨーロッパ人が読んだときにはナポリタンは自動的に、イタリア国の一地方であるナポリの出身者と解するでしょう。それでも言葉に敏感な読者ならば、フランス人が外国人を指して"イタリア人"ではなく"ナポリ人"と呼んだことには違和感を覚えるかも知れません。当時はナポリ人は特に酒好きだがイタリアの他の地方ではそうでもないと考えられていたのかとか想像するかも知れません。なにせ日本人が中国から来た人を"広東人"と呼ぶようなものですから。しかしナポリタンでは、まさか日本語訳をカタカナ表記で済ますわけにもいかないでしょうね(^_^)
とはいえ"イタリア"という概念はあったからこそカルボナリや青年イタリア党によるイタリア統一運動が起きていたのだし、ポーの『モルグ街の殺人(1841)』の方では"イタリア人"という言葉が出てきます。また、ドイツ語やフランス語と並んで"イタリア語"という言葉も登場しますから、イタリア地方各国で話される言語はドイツ語やフランス語とは一線を画するひとつの言語として認識されていたのでしょう。
などと、アメリカ人が書いた、フランスを舞台とする小説で、イタリアの歴史に思いをはせるということになりましたが、『盗まれた手紙』が遠い昔の時代だと痛感させられる場面はこれだけではありません。それは次回で。
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*1) エラリー・クイーン『クイーンの定員1』では、「第2章・始祖(The Founding Father)」というタイトルで『盗まれた手紙』が掲載されている。
*2) ナポリ人は各国語で、Neapolitan(英)、Napolitain(仏)、napoletano(伊)となる。ちなみにナポリは、Naples(英)、Naples(仏)、Napoli(伊)である。どうして英語だけ"e"が入るかなあ。いつもながらアルファベット検索をする時は英語なまりに泣かされる。
デュパンが活躍する3作品はいずれも、パリ警視総監のG氏が難事件を持ち込みデュパンがそれを解決する次第を"私"が語るという、ホームズ物でおなじみの形式です。ただし最初の『モルグ街の殺人(1841)』だけは、デュパンが自分から解決を買って出て見事にデビューを果たしています。
ポーのどの作品も明治時代から始まって複数の日本語訳がありますが、今回取り上げる『盗まれた手紙』では3つを挙げておきましょう。それぞれに印象や読みやすさはやはり違います。本記事はRef-1を中心に書きます。
Ref-1) 小川高義(訳) 収録: エドガー・アラン・ポー;小川高義(訳)『アッシャー家の崩壊/黄金虫 (古典新訳文庫)』光文社(2016/05/12) ISBN-13: 978-4334753313
Ref-2) 深町眞理子(訳) 収録: エラリー・クイーン『クイーンの定員―傑作短編で読むミステリー史 (1) (光文社文庫)』(1992/03/20) ISBN-13: 978-4334760656
Ref-3) 丸谷才一(訳) 収録: 『E・A・ポー ポケットマスターピース09 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)』(2016/6/23) ISBN-13: 978-408-761042-0
『盗まれた手紙』は殺人事件ではなく、タイトル通りに盗まれた手紙を探すものですが、行方不明になった重要な手紙や外交文書、機密書類などを探すというテーマも結構推理小説に登場します。失せ物捜しという風に広げればさらに扱った作品は増えるでしょう。
では『盗まれた手紙』が遠い昔の時代だと痛感させられる場面を紹介しましょう。以下の引用はみなパリ警視総監のG氏の言葉で、赤文字は私の強調です。
「使用人の数は多いとは言えない。しかも主人の居室からは離れて寝ていて、またナポリ人が主体なので、すぐに酔いつぶれる。」
作品発表の1844年はイタリア統一はまだなされておらずイタリアは複数の国家に分かれていました。ゆえに"ナポリ人"です。ナポリ王国は現在の南イタリアのほとんどを領土としていた国家です。ただしこの作品発表当時は、1816年にナポリ王国とシチリア王国とが合併した両シチリア王国(Regno delle Due Sicilie//Kingdom of the Two Sicilies)になっていました。しかしシシリアン(Sicilian)では、当時の人にもシチリア島出身者という風にしか解せなかったのかも知れません。
この部分はRef-1は"ナポリ人"ですが、Ref-2は"ナポリ出身者"、Ref-3は"ナポリ者"です。1816年以前なら"ナポリ人"が一番適切な訳になると思いますが、上記の通り両シチリア王国の一部ということになると話は簡単ではありません。ポーを始めとするイタリア外の欧米人はどんな感覚だったのでしょうね。
原語はナポリタン[*2]で、英仏伊の言語の常套として地名の形容詞化単語がその地の出身者を意味する単語です。この地名が国家の領土全体なのか単なる一地方なのかという区別は全くありません。ですから現代のヨーロッパ人が読んだときにはナポリタンは自動的に、イタリア国の一地方であるナポリの出身者と解するでしょう。それでも言葉に敏感な読者ならば、フランス人が外国人を指して"イタリア人"ではなく"ナポリ人"と呼んだことには違和感を覚えるかも知れません。当時はナポリ人は特に酒好きだがイタリアの他の地方ではそうでもないと考えられていたのかとか想像するかも知れません。なにせ日本人が中国から来た人を"広東人"と呼ぶようなものですから。しかしナポリタンでは、まさか日本語訳をカタカナ表記で済ますわけにもいかないでしょうね(^_^)
とはいえ"イタリア"という概念はあったからこそカルボナリや青年イタリア党によるイタリア統一運動が起きていたのだし、ポーの『モルグ街の殺人(1841)』の方では"イタリア人"という言葉が出てきます。また、ドイツ語やフランス語と並んで"イタリア語"という言葉も登場しますから、イタリア地方各国で話される言語はドイツ語やフランス語とは一線を画するひとつの言語として認識されていたのでしょう。
などと、アメリカ人が書いた、フランスを舞台とする小説で、イタリアの歴史に思いをはせるということになりましたが、『盗まれた手紙』が遠い昔の時代だと痛感させられる場面はこれだけではありません。それは次回で。
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*1) エラリー・クイーン『クイーンの定員1』では、「第2章・始祖(The Founding Father)」というタイトルで『盗まれた手紙』が掲載されている。
*2) ナポリ人は各国語で、Neapolitan(英)、Napolitain(仏)、napoletano(伊)となる。ちなみにナポリは、Naples(英)、Naples(仏)、Napoli(伊)である。どうして英語だけ"e"が入るかなあ。いつもながらアルファベット検索をする時は英語なまりに泣かされる。
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