水戸徳川家と江戸屋敷の庭園

2015年05月26日 | 東京のお散歩
徳川御三家のひとつ、水戸徳川家。
水戸家は江戸定府とされていました。
江戸定府とは参勤交代を免ぜられ、常に城主が江戸に詰めており、
宗家つまり将軍家の一大事に備える役割を担っていました。
ただし、水戸家から将軍になることはなく、慶喜も、水戸家の生まれながら
一橋徳川家へ養子へ出されたのちに、将軍となっています。

江戸定府とされた水戸家は、江戸に三つの屋敷地を構えました。

上屋敷は現在の後楽園で、江戸城の位置で言うと小石川門の目前に
広大な屋敷を構えていました。
後楽園という名こそ、光圀が名付けた屋敷の庭園の名です。

(後楽園)

元々上屋敷は江戸城吹上(現在は陛下の御所が建てられている)にありましたが
明暦の大火ののちに、中屋敷だった小石川の屋敷を上屋敷としました。

光圀は、古代中国の意匠を採り入れた庭園を築き「岳陽樓記」(宋・范仲淹)の
<士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽>からつけられました。

(後楽園)

中屋敷は、現在の東京大学農学部の場所にありました。
このため、庭園の遺構は遺されていません。

下屋敷は隅田川沿いにあって、現在は墨田区側の隅田公園となっています。

(隅田公園)

明治時代には水戸德川家の本邸となり小梅邸と呼ばれていたこの屋敷地には
築山や隅田川の水を引いた汐入池も遺されています。

(隅田公園とスカイツリー)

明治天皇が東京での初めてのお花見に御行幸された場所としても知られています。

(明治天皇行幸記念碑)


光圀の弟である松平頼元が、水戸の御連枝として内分分知され
屋敷と占春園という庭園を構えた場所は現在筑波大附属小の敷地に
「教育の森公園」の一部として遺されています。

(占春園)

(園内には嘉納治五郎先生の像が立つ)

(占春園には昭和天皇の行幸記念碑)


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