神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしの中にいない神。

2018年08月18日 | キリスト教


 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。

 聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。

「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」

(ヨハネの福音書、第3章7~8節)


 わたしにとってキリスト教の神、イエス・キリストというのは、明らかに「わたしの中にいない神」でした。

 一応、なんとなくぼんやりとは聞いたことがあったとしても、エ○バの証人の方の「輸血できない」というお話や、あるいはモ○モン教の信徒になった場合、結構お金がかかる……という噂話などにより、「え、そんな変な神、絶対ほんとの神なんかじゃねーや!」という強い思い込みがあったと言いますか(^^;)

 また、わたし、神棚を拝んだりですとか、あるいは仏壇の前でお焼香するとか、他にはお坊さんがお経をあげるのを聞くのも大好きでしたし、そうした宗教的なことに強く惹かれる傾向が子供の頃から物凄くあったんですよね。

 それと、携帯の電波も届かないような山奥などで自然と触れあっていると――あまりの自然の美しさに神聖な畏敬の念に打たれる……といった経験をしたことのある方はとても多いと思います。

 ですから、もし神さまがいるとしたら、自分の心の中で少しくらいは知っている神が神であって、「あ、やっぱりあなたが神さまだったのですね!」とわかるような存在……それが真実の神であろう――といったように、無意識の内にも思っていた気がします。

 でも、その後クリスチャンになり、教会で聖霊さまを受けてわかったのは、イエスさまというのはわたしの全然知らない神さまだった……ということでした。

 もちろん、名前くらいは聞いたことありましたし、欧米の人たちの多くはキリスト教を信じているとか、そんなことくらいは誰でも知ってますよね。でも、教会で聖霊を受けずに聖書を読んだりしても、「なんかさっぱり意味わかんねーな☆」となるように、イエスさまのことを信じるためには、その扉にあう鍵が必要になってくるのだと思います。

 なんというか、これはあくまでわたしの場合ですけれども、仏教には小さい頃から何がしかの形で慣れ親しんでいる……という意味で、日本人の場合この扉は開かれているような気がします(=鍵はかかっていない)。でも、わたしにとっては仏陀、お釈迦様というのは自分の悩みや苦しみに答えてくれる神ではないという、残念ながら最終的にそういうことになってしまいました。。。

 ただ、今も仏教については勉強したいという気持ちがありますし、思想として物凄く優れているので、哲学を学ぶのと同じ気持ちで、わたしにとって神ではなくても、その思想については学びたい気持ちがあるわけです

 そして、いわゆるア二ミズムの神というのでしょうか。万物に神が宿っているという思想については、極幼い頃からとても親しみ、好んでいたといっていいと思います。

 でも、まあまあ中程度の悩みや苦しみを抱え、そういう時に自然の中で暮らし、癒されて帰ってくる……というくらいだったら、その中に本当に神がいるのかいないのかってそう問題にならないんですよね。いわゆるパワースポット巡りをして、「なんか運気が上がった気がする」くらいのことだと思うので(^^;)

 でも、本当に深刻に、生きるか死ぬかというくらいのところを彷徨っている時って、自然の中でどんなに美しいものを見ても、一時的な効果しかなく、「もう死のう」、「自殺しよう」といったことからは逃れられないというか(あくまでわたしの場合ですけど

「じゃあ、真実の神はどこにいるんだーっ!!」となった時……わたしは「この世界に神などいない」といった結論に達し、自殺未遂っぽいことをした時に「人間、そんな簡単に死ねないものだな」ということもわかり……となると、生きている以上は生きていくしかないという考えにより、わたしの場合は大抵のことは自分で乗り越えるよう努力しました(あ、前にも書いたとおり、わたしは心身症です。そして、こうした傾向にある人というのは、鬱病とか神経症とか、そうした病気になってしまう不幸な傾向を持っているのではないかという気がします^^;)。

 それで、その後いつキリスト教のことを知ったかというと、病院で看護助手の仕事をしていた時のことでした。まあ、前にも同じこと書いてるので、あんましわたし、同じことを繰り返して書くのって好きじゃないんですけど……割とそこは意識のない寝たきりの患者さんが並んでいるような病棟だったのです

 で、これはあくまでわたしの直感的なことですけど、「これは宗教の力が必要だな」と思いました。ただし、わたしは仏教の神もキリスト教の神もイスラム教の神も、神とは思わない。唯一自分にとって神に近いといえるものは、大自然に分け入っていった時に感じる、神聖な畏敬を感じさせるもの――あるいは思想としては、万物に神は宿るという、そうした考え方がわたしにとっては一番神に近いものだと思っていました。

 ただ、昔から宗教的なことが大好きだったので、知恵・知識として宗教について学び、さらにそこから哲学的な勉強も出来るといいな……と思っていたのです

 それで、昔からわたし、文学作品や映画などで時たま出てくる「聖書のことば」というのがとても大好きでした。その意味について本当にはっきりわかっているわけではなくても、「胸に響く、すごくいい言葉だな」と感じることがとても多く……なので、その秘密を知りたいということで、まずはキリスト教について勉強しようと思いました。

 ところが、注解釈付聖書とかパラパラ読んでみても、昔読んで挫折した時と同じく、これがさっぱり意味がわからない(笑)というわけで、この時わたし初めて「教会」なる場所に行ってみようと思いました。

 まあ、雰囲気的におかしなものを感じたり、変にお金を催促されたりした場合は逃げ帰ってくればいいわけだし……と思ったわけですけど、結局その時に教会に満ちている聖霊さまの働きによって「この方こそが神である」とわかったわけです


 >>神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを教会にお与えになりました。

 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙、第1章20~23節)


 こうして、わたしの中の「神はいるのかいないのか」論争は終わりを迎えました。

 ずっと、「神はいるのかいないのか」と言って壁を叩き続けていたら、とうとう「神さまのことを知るための扉」が開かれて、何故この扉があることは誰もが知っているのに、開くことの出来る人と出来ない人がいるのか、訪ねる人と訪ねない人がいるのは何故か……そうした答えも聖書にすべて書いてあるように思いました。


 >>神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

(使徒の働き、第17章26~28節)


 冒頭のヨハネの黙示録の言葉に戻りますが、ある扉を開くのも閉じるのも、それを<いつ>そうするのかも、神さまの御手の中にあります。

 イエスさまがこの世においでになって以来、この福音の扉は誰に対しても開かれており、またこの扉は終わりの時がやって来るまで、決して閉じられることはありません。

 神さまは、フィラデルフィヤ教会に対して、「あなたには少しばかり力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」とおっしゃっています。

 他の六つの教会に言われていることと比較してみても、この「少しばかり」は人間的には相当大きな力、信仰があるということではないか……という気がします(個人的推測☆)。

 つまり、イエスさまはわたしたちにからし種ほどの信仰さえあればなんでも出来るとおっしゃってますから、そういう意味で「力」というのはそれが「少しばかり」でも十分ということですよね。

 神さまさえわたしたちを通して働いてくださるなら、むしろわたしたちに「強大な力」などというものがあったほうが、神さまの力が働くための妨げにすらなりかねない、というか。

 でも、人間全体としては、神さまにそうした形で頼るよりも、「強大な力」を得てそちらに頼り、なんでも自分で決めて行い、その中で「神」というのはたまに困った時に頼ってみたりもするけれど、その後忘れる……くらいのほうが、自分にとって都合がいいのではないでしょうか(^^;)

 けれども、神さまの道というのはこれとは異なり、「まあ、先に10mgわたしに捧げてみなさい。そしたらわたしはそれを百倍にして返してあげよう」といった感じのもので、多くの方はこの仕組みのようなものを理解せずに終わるかもしれません。

 でも、もしこの恵みの道を本当の意味で知ることが出来るなら「えっ、ほんとにたったの10mgで神さまはこんなに良くしてくれたよ!」みたいな道が開かれるのですけれども――この10mgにつまずく方は多いと思います(^^;)

 また、同じクリスチャンの方でも、イエスさまが「わたしに重荷を寄越しなさい。わたしがあなたの代わりに背負ってあげよう」とおっしゃっているのに、「いえいえ、とんでもない。この1万トンの重荷はわたしが背負います」と言って神さまに渡さないことで――なんと言いますか、信仰的に損をする信じ方をされている方もいらっしゃると思います。

 でも、「あなたの百万トンの重荷をわたしに寄越しなさい。で、あなたは10mgくらいのものでも背負って、スキップして歩いたらよかろう」というのがイエスさまのおっしゃってることであり……わたしたちも自分の子供といった愛する者に対してなら、「わたしが10キロ背負うから、あんたは1キロのこれ、背負っていきなさい」みたいになると思うんですよね。

 そして、そうした愛が、神さまのわたしたちにお与えになってくださっている愛なのです

「イエスさまにそんなもの、背負わせるなんてとんでもない」というのではなく、相手は神さまですから、自分の親に頼るのと同じような気持ちで、頼ったらいいのです。神さまには100キロも重くなく、その千倍の重いものですから、神さまには10mgくらいの重さしかないのですから。。。


 >>「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」

(マタイの福音書、第11章28~30節)


 それではまた~!! 




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