神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

祈りの城、平和の神殿。

2017年04月29日 | キリスト教
【ピレネーの城】ルネ・マグリット


 さて、北朝鮮の核のことを巡って、日本の周辺もやにわに戦争の匂いがあたりに漂うかのようになってきました(^^;)

 今までは戦争というと、遠く離れた中東などで起きていて、割と対岸の火事といったように見ていることが出来たかもしれません。けれど、こうなってくるとだんだんに<日頃の備え>ということを考えさせられます。

 核の発射ボタンを北朝鮮が「ポチッ☆とな(←?)」とした瞬間にすべては終わるわけですから、普通の災害と違って何をどう備えよというのか……と思われるかもしれません。あと、ここはキリスト教に関する何かについて書くという主旨のブログですので、そういう意味合いの「備え」として理解していただければと思いますm(_ _)m

 わたし、大体北朝鮮のことに関しては、週に一回くらい祈っています。

 まあ、「なんだよ、週にたったの一回かよ」と思われるかもしれませんが、きっかけは拉致被害者の方が日本に帰ってくることが出来たことからでした。その時も今もそのことを「奇跡」としか思えませんし、そう思うと、他のまだ故郷に帰ることの出来ない方のためにも祈ろうと思って祈りはじめたのがきっかけでした。

 最初は確か毎日祈っていた気がするのですが、その後色々と祈るべきことが増えていき、最終的に週に一回祈るという形に落ち着いて、今に至るといった感じです。。。

 そしてその時に、最初は拉致被害者の方のことを祈っていたのですが、テレビなどで北朝鮮の人々が食糧もなく雑草を取って煮るなどして食べている……そのくらい食糧事情・経済状態が逼迫していると聞くにつけ、「北朝鮮全体」のために祈るべきだと思うようになり、拉致被害者の方の帰国のためと北朝鮮全体のために祈る、というふうに変わっていきました。


 >>「わたしたちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。でもその一滴の水が集まって大海となるのです」


 これはマザー・テレサの有名な言葉ですが、祈りもこれと同じものだと思います。

 誰かの祈りがまず一滴の水として流れ、またその後雨が二滴、三滴と降り注ぎ、最後には川の流れのようになって海へと注いでいく……言うまでもなく、気の遠くなるような話なのですが、けれど一度ここまでの流れになったものは、誰にも塞き止められないほどの力を持つに至ります。

 昔、わたしがキリスト教信仰を持ちはじめて祈りはじめた頃、アフリカの難民の方々のために……といったことを祈っていて、一抹の虚しさを感じたという覚えがあります。何故といえば、わたし自身は毎日色々なものを不自由なく食べられる身でありながら、そのようなことを祈ったりするのはある意味傲慢だし、偽善的ではないだろうかと思ったからでした。

 けれどその後、自分の祈りは小さいものだけれど、それであのアフリカ大陸のうちの誰かひとり、「あれ?こんなところに食べるものがあると思わなかった!」というものを発見するかもしれないという希望を見て、その後も聖霊さまの助けを借りてそうした種類のことを祈る……ということが出来るようになりました(一応、そのための献金もしています)。

「世界が平和でありますように」とか、正直、祈ってみても虚しい、という方は多いと思います(^^;)

 けれど、このことに関してもある時荒野にレンガをひとつ置く、というビジョンが与えられたことから、継続して祈るということが出来るようになっていきました。

 それはどういうことかというと、わたしひとりが祈っても、せいぜいが荒野にレンガをひとつ置く、といった程度のことで、「え?それがどうしたの?」という感じのことだと思います。そして次の日に祈ってまたレンガがひとつ積み重なる……しかも、ある程度レンガが積み重なったところで、わたしたちには他に<敵>がいますから、彼らがある時まるで見計らったかのように粉微塵にしてしまうのです。

 まあ、<祈りの戦い>というのはある意味こうしたことの繰り返しですが、わたしの他に同じことで祈る人が他に二人、三人、十人、百人と増えていったとしたらどうでしょう。そうしたら、一度に積まれるレンガは百個、千個と増えていきます。また、敵の力はそれよりもさらに強大ですから、それでもさらにまたこの祈りの城の礎やそのまわりを囲む塀というのは相手方の攻撃によって何度も崩されていきます。

 けれど、やがてこうしたことのために血を流して死んだ人がその塀や門のあたりを守るようになり――敵の攻撃を防いで、祈りの城や平和の神殿というのは着実に建設されていくことになります。

 イエスさまのおっしゃった「わたしは三日で宮殿を建てよう」というのは、こうした種類のことだと思うのですが、そのような神の宮で祈り、本当の礼拝のひとときを持つことが出来るというのは、これ以上の魂の喜びはないことだと思います。

 そして、わたし個人の考えとしては<祈る>というのはそうしたことだと思っています。祈っている時、自分は祈りの城のような場所にいて、平和の神殿を仰ぎみる時に、そこに神さまが真実いらっしゃると感じるということ……それが<祈り>ということだと思います。

 祈祷院、という場所が、日本にどのくらいあるものなのか不勉強でわからないのですが、おそらく数としては少ないでしょうし、それは世界的に見てももしかしたらそうなのかもしれません。

 けれども、常に二十四時間体制で誰かしらが祈っている場所、祈ることの出来る場所というのは、もっと増えていくべきことのような気がします。また、個人的にそうした場所の広まりにより、多くの人が祈るべきことを当たり前のように教えられるなら、この世界は変わっていくだろうし、そうした力の働きかけによってしか、世の中は変わらないだろうと思っています。

 これから、世界がどうなっていき、何が聖書にある黙示録の扉を開く契機となるかはわからないのですが、「祈りの備え」というのがあるのとないのとでは大違いだと思っているので、倦まずたゆまず祈り続けることの力を神さま、イエスさま、聖霊さまより受け続けていきたいと願うものです。

 それではまた~!!





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