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もちろん、すべてクリスチャンと呼ばれる人々、聖霊のバプテスマを受け、聖霊さまの内住を経験された方は、イエスさまを心(霊や魂)の中心に感じているのが普通かもしれません。
でも、日々の忙しさの中で、神さま、イエスさまのことをまったく忘れている瞬間というのは結構あったりと、「あ、今わたし、イエスさまのことを心の中心に置いてなかった!!
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でもやっぱり、不安なことや困ったことがあったりすると、頭の中が真っ白になったり、「こんな時こそ感謝と賛美!!
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キリスト教における「罪」とは、「的を外す」という意味だ、ということを知ったのは、確か三浦綾子さんの文章だった気がするんですけど、「的を外す」とは、「本来あるべき生き方をしていない(的を外した生き方をしている)」ということで、言い方を変えるとたぶん、「イエス・キリストを的の中心に置いていない」ということなんだろうなあと思ったんですよね。
これは前にも似たようなこと書いたような気がするんですけど、ある意識調査によると、生活の中で一番大切なものは何か、みたいなアンケートで、堂々第一位がインターネット。第二位が家族とか、確かそんな感じだったと思います。つまり、これでいくと「わたしの心の中心にはいつでもインターネットやSNSのこと、またそれにまつわる人間関係がある
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特段わたし、そのことを「ちょっとどうなの?
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そして、イエスさまとの一致、聖霊さまとの一致があるクリスチャンというのは、弓を射る時に人生の的を決して外すことはない……ということなのだと思います。まあ普通、どんな弓の名手と言えども百発百中ということはないと思いますし、十回射て、十回とも的に当たったにせよ、完全に真ん中をいつでも射抜く――ということまでは難しいと思うんですよね。
でも、これはあくまでわたし個人の考えなんですけど……実際のところ、「肝心な時、肝心な瞬間」に中心にズバリ☆と的に矢が当たるということが重要なのであって、普段の「結構どーでもいい時
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中心の的を弓で肝心な時に射るには、普段からの練習や鍛錬が必要であり、クリスチャンの場合はたぶん、普段から祈っていたり礼拝を守ったり献金したりと、「肝心な時に的を射る」瞬間のために、無意識のうちにも備えているところがあるのではないかという気がします。
まあ、わたしは自分が肝心な時に神さまに聞き従えず、退いてしまうところのある駄目クリスチャンなので、こうした偉そうなことを言えた義理ではないのですが(汗)、「的に矢を当てるのはイエスさま」なので、聖霊さまを通してそのことをお委ねするのに必要なのは、変に肩に力を入れることなく冷静に、呼吸を整えつつ弓を引き、矢を放つというその瞬間にイエスさまにすべてをお委ねする……そうすれば、目隠ししてようとなんだろうと、とにかく矢が的の中心を割るくらいの勢いで当たる――善き信仰者にはきっと、そうした瞬間があるものなんだろうなあと、ある方の信仰のお証しを聞いていて思ったような次第です。。。
それではまた~!!
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