神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

まったく良心のない、悪魔という存在。

2021年04月05日 | キリスト教


 今回のトップ画は、イリヤ・レーピンの「イヴァン雷帝と皇子イヴァン」です。

 パッと見た場合、「え?これ、一体どういう場面?」といった感じですが、これはイヴァン雷帝が愛していた自分の可愛い息子を殺してしまい、後悔している場面と思われます。

 ふたりはお互いに「拷問を見るのが好き」といった共通の趣味もあり、仲のいい親子だったらしいのですが、ある時イヴァン雷帝はカッとして息子のイヴァンを殺してしまったのですね。それは一時的な激情だったらしく、怒りが過ぎ去ってみると、殺すつもりではなかったのに……ということは、誰より一番イヴァン雷帝本人がわかっていたわけです。

 もちろん、この世に(わたしの知る限り)喧嘩しない親子はいないでしょうし、よほどのことでもなければ親が子に手をかけるということはないでしょう。けれど、そこはイヴァン雷帝、自分はロシアで一番偉いんだぞ!という権力を振るうことに慣れているわけで、ついカッとしたのみならず、自分の息子を殺害するに至ってしまったものと思われます。

 イヴァン雷帝の息子を殺した理由ですが、息子イヴァンの妻であるエレナ・シェレメチェヴァが、妊娠中の正教徒が着るべき衣服を着用していなかったということで、そのことで彼女を叱りつけ殴っていたところ――息子のイヴァンがそれを止めに入ったわけです。ところが、イヴァン雷帝はその名のとおりの苛烈な性格をした人でしたから、今度は止めに入った息子のことを錫杖で殴打してしまい、この息子は頭蓋骨骨折により、数日後に死亡してしまいます。

 イヴァン雷帝にしてみれば心から愛した皇妃アナスタシアの忘れ形見である、本当に大切な可愛い息子でした。とはいえ、このふたりには互いに「拷問を見るのが好き」という共通の趣味があったというあたり、そもそもそうした異常な親子でなかったかという気もします。

 そのですね、人間の有史以来の色々な過去、歴史について調べると、こうした種類の「とても神などいるとは思えない」という事実・史実というのは数え切れないほどたくさんあります。何を言いたいかと言いますと、もしわたしがイヴァン雷帝や彼の息子を喜ばせるために、拷問部屋で拷問を受け、その時代に打ち捨てられるかのように死んだとしましょう。これはちょっと……犬死にどころの問題ではありませんよね、はっきり言って


 だって、昔の戦争だと、弓矢が目玉に突き刺さって脳にまで達し、その後△□時間後に死亡したとか、砲弾が体に当たって内臓が飛び出たが、それでも彼にはなお、息と意識があった……とか、こうした悲惨なことというのは、それこそ数え切れないほどあったことでしょう。でも、この拷問というのは――ただ、君主の個人的な残虐な趣味を満足させるためだけに行われるのであって、何分彼らはそれを「楽しんで」いるわけですから、「簡単に死んじゃつまんない☆」みたいな話でもあるわけですよ(^^;)

 おわかりいただけますか?皮を剥いだりなんだり、残虐の限りを尽くされる間……それでもわたしにはまだ息と意識が残っているわけです。イヴァン雷帝も最初はこうした拷問の現場を見て醜悪な気持ちになったらしいのですが、ある時点を越えると、「ゾクゾクするような快楽を覚えるようになった」らしく――息子のイヴァンもまた、最初は「なんだってパパはあんな気味の悪いもの(拷問)に夢中になってるんだろう」と理解できなかったらしいのですが、雷帝が「拷問はこうこうこのあたりが楽しいのだよ」的に教えると、息子もまたこの「ゾクゾクするような快楽」を理解するようになっていった……という、何かそうしたことらしいのです。

 でも、このように拷問の楽しさを理解する仲間だった親子ですが、この可愛い我が子を自分の手にかけてしまったことについては、イヴァン雷帝も物凄く苦い後悔の気持ち、取り返しのつかないことをしてしまったとの深い後悔の念に苛まれたようです。

 さて、突然ですが、「悪魔(サタン)」なんていう存在、どのくらいの方が信じているものでしょう?

 もちろん、聖霊を受けているクリスチャンの方は、神さまや天使の存在を信じるのみならず、この悪魔(サタン)という、神さまや人類に敵対する者の存在を信じておられることと思います。

 でもわたし、「なんかそうした存在はいるよね」と認めてはいても――何かこう、ちょっと信じ切れないと言いますか、神さまや天国の存在は信じられても、それと同じように悪魔や地獄といったことは信じがたいようなところが残ってまして。。。

 そもそも、地獄行きになった人が火の池地獄で苦しんでおり、悪魔がその周囲にいて、人間がその火の池から頭を上げるたびに、例の三又の矛みたいので頭を叩いたりなんだりとか……「う゛~ん。そんなことってほんとにあるかしら?」と、ちょっと疑念を持っていたんですよね。

 そしてこのことの解き明かしといったことを祈りの中で求めていたわけでもなく、「仮に自分が天国へ行けたとして、地獄で苦しんでいる人々のために祈らないだなんて……そうした人々の苦しみを無視して天国で憩うだなんて――そんなわたしという人間自体ちょっとどうなのかしら?」という気持ちがあったりもして、そんな時(といっても、相当昔のことですが)、こんな夢を見ました。

 ようするに、夢の中に悪魔(サタン)と呼ばれる存在がふたり、出てきたのです

 RPGゲームなんかに、ガーゴイルっていうモンスターがいるじゃないですか。もうほんと、あれにそっくりな感じでした。あれの体を青くして、目だけ赤くして、黒い翼を生やしたような、そんな感じ。ちなみにですね、わたし自身は「だから悪魔はそんな感じなんじゃないかな?」と思ってるわけではまったくありません。<容れ物>のことは正直、はっきり言ってどうでもいいんですよ。とにかく、その城館みたいな場所には、わたしの他に何人かの人間がいて、彼らがその城の見えないところにいてさえ――その邪悪な気配によって、「そいつらがこっちへ来る」とか、そういうことがはっきりわかるわけです。もう、その場にいた人々は全員パニックになり、城館のあちこちに隠れることになりました。かくいうわたしも衝立みたいな物陰に隠れたりしたのですが、なんと!そいつらのうちのひとりがこっちにやって来るではありませんか!!

 いえ、夢の中でのことですが、「気力が水のようにしなえる」というのは、ああいうことを言うんだなと思いました。とにかくですね、「何されるかわかんない恐怖」っていうのが、もう半端ないのです。ホラー映画なんかで、そういうクリーチャー的存在に襲われそうになって隠れるとか、腰を抜かして倒れるとか、よくありますよね。とにかくもう、そんなのの比ではありませんでした。何故かというと、「彼ら悪魔には本当に良心がない」ということが、本当にはっきりわかるからです。体のほうはガクガク勝手に震えるし、わたし、夢の中であんなに震えたってこともなければ、体に力が入らない、その場から逃げる気力もない……みたいなこと、生まれて初めてだったと思います。

 しかもこの時、なかなか目のほうが覚めなくてですね、「こっちに向こうの存在を感じる力があるように、あいつらだってわたしがここにいるってわかってるんじゃないか?」と疑いつつ、とりあえず向こうはこっちに気づいてない――でももう、ほんの2~3メートルのところを歩いてる……みたいなところで、ようやく目が覚めました。

 この夢を見たあとにはっきりわかったのは、「悪魔には良心がない」ということだったかもしれません。ですから、人間のことを生きたまま腕や足をはねようと、彼らは「本当に」なんとも思わないし、感じもしないということなんですよね。

 さて、長くなりましたが、イヴァン雷帝の話に戻るとしますと、彼はロシアの皇帝になった治世の最初期から、愛妻であるアナスタシア皇妃を失うくらいまでは――「比較的マトモ」という言い方はおかしいかもしれませんが、「比較的マトモ」かつ、「賢い王様」でもあったようなのです。簡単にいえば、皇帝としての才覚のある、賢い人物だったと言いますか。。。

 ところがですね、拷問を好んだりですとか、だんだんおかしくなっていったのは――やっぱりそうした悪魔(サタン)的存在というのか、そうしたものの干渉があったからではないかと、個人的にイヴァン雷帝の伝記を昔、読んだ時に思ったものでした。

 いえ、古今東西これと似た話というのはあって、治世の最初の頃は「比較的マトモ」だったのに、権力を掌握して以降、なんか少しずつおかしくなっていった……みたいな歴史上の人物の話っていうのは結構ありますよね(^^;)

 それで、ですね。イエスさまは宣教を開始される初めに、悪魔から誘惑されているわけですが、その中に、「ひれ伏してわたしを拝むなら、世界中の栄華をあなたに与えよう。それはわたし(サタン)に任されているものだから」という誘惑の言葉があります。この時、もしイエスさまが悪魔の言うことに耳を傾けていたとしたら――おそらく、今わたしたちが習っている世界史の歴史はまったく違うものだったろう……というのは、日曜礼拝で牧師さんがよくおっしゃることだと思います。

 このサタンの誘惑は、実に巧みなものでした。楽園にいた蛇とこのイエスさまを誘惑したサタンは同一人物といっていいと思いますが、「神さまは本当にその実(善悪を知る木の実)を食べてはいけないと言ったのですか」と、蛇はエヴァを誘惑したのです。この時、エヴァは蛇の誘惑に騙されてしまいましたが、イエスさまは騙されませんでした。

 このサタンの誘惑がいかに巧みなものだったかというと――「おまえの父親である神のやつぁなあ、他でもねえ息子のおまえを、これから十字架にはっつけて苦しみの極みを味わわせようってんだよ。そんなとんでもねえ神のことなんざ、どーでもいいじゃねえか。そんなことより、オレのことを拝めよ。そうすりゃこの世の権力は思いのまま、女なんか抱き放題のハーレム状態……な、そうしちまえよ。人間なんかどんなに長生きしたって、120年も生きねえってのは、おめーも知ってんだろー?ああ?」といった感じのものであり(意訳・笑)、イエスさまはこのサタンの誘惑を「神である主のみを拝み、主にだけ仕えよ」と聖書には書いてある――と言ってお退けになったわけです

 それで、ですね。もちろんそんなことは絶対ないにしても、イエスさまがこのサタンの誘惑に屈していた場合――この世の虚しい栄耀栄華を味わってのち、イヴァン雷帝が愛する息子を失ったような悲劇を経験するなどして、どんなに長生きして権力を保持したにせよ、悪魔(サタン)に聞き従った罪により、死後は地獄へ行くことが確定していたものと思われるわけです。

 でもほんと、宣教の初めにサタンの誘惑に屈しなかったイエスさまはすごいと思うんですよね

 そして、かつては神さまと一緒に輝いていた威光を失い、肉にある身ゆえの蔑み、苦しみ、悲惨さ、恥辱……そうした人間としての極みを味わわれ、御父の御心をイエスさまが子なる神としてまっとうしてくださったからこそ――わたしたちは今、イエスさまの十字架上の血潮によって罪赦され、イエスさまのおられる天国へと、死後には一緒に住まわせていただくことが出来るのです。

 さて、今年はきのうが復活祭でした。イースターバニーのチョコレートや、卵の何かを食べたりするよりも……イザヤ書の第53章を読み、イエスさまが成してくださった御業に、今年も――というより、毎日でも心を深く潜めていたいと思います

 それではまた~!!



 >>わたしたちの聞いたことを、たれが信じたか。
 主の御腕は、だれに現われたのか。

 彼は主の前に若枝のように芽生え、
 砂漠の地から出る根のように育った。
 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病いを知っていた。
 人々が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。

 まことに、彼は私たちの病いを負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

 彼は痛めつけられた。
 彼は苦しんだが、口を開かない。
 ほふり場に引かれて行く子羊のように、
 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
 彼は口を開かない。

 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
 生ける者の地から絶たれたことを。

 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
 彼は富む者とともに葬られた。
 彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 主のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 彼は、自分のいのちの
 激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう。

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

(イザヤ書、第53章)






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