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【神殿清め】エル・グレコ
>>イエスは彼らに答えて言われた。
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」
そこで、ユダヤ人たちは言った。
「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか」
しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
(ヨハネの福音書、第2章19~21節)
>>見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、
あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
あなたがたの罪が御顔を隠させ、
聞いてくださらないようにしたのだ。
(イザヤ書、第59章1~2節)
わたしがイエスさまのことをまだ信じていない未信者であった頃、この神さまと自分とを隔てる<仕切り>がありました。
けれども、神さまはこの<罪の仕切り>を排除し、己の罪ゆえに苦しむ惨めな人々をお救いになるために、この世にやって来られました(「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイの福音書、第2章17節))。
つまり、キリスト教の教えとしては、イエスさまのことを自分の救い主であると信じない限り、神さまとの間にこの<罪の仕切り>が存在しているということになります。そして、イエスさまを信じた時にこの<罪の仕切り>が取り除かれ、神さまの愛や恵みや赦しの力が聖霊さまを通して豊かに注がれてくる……ということになると思うんですね。
そしてイエスさまは、すべての人がこの神の愛や恵みや赦しの豊かな力を得ることが出来るようにと、十字架上で極限までお苦しみになったのです
ところで、今回の冒頭の御言葉でイエスさまがおっしゃっておられるのは、わたしたちの霊的神殿のことですが、目に見える神殿としては、旧約時代、それはエルサレムにありました。そして、それはさらに遡ってモーセの時代には、幕屋として存在しており、その幕屋について、神さまはモーセにどのように建てるべきかという事細かな指示を与えておられました。
この神さまのご指示によると、幕屋の内部は聖所までは祭司が入ることが出来、さらに最奥の至聖所へは、大祭司だけが入ることを許されていました。
>>そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
イエスは大声で叫んで、言われた。
「父よ。わが霊を御手にゆだねます」
こう言って、息を引き取られた。
(ルカの福音書、第23章44~46節)
つまり、これがイエスさまが十字架におかかりになって成し遂げてくださったことでした。
それまでは、祭司階級の人々だけが神殿に入り、生贄を捧げていたのですが、イエスさまがこの聖所の幕屋の幕を真っ二つに裂いてくださったことにより――今は聖霊さまにより、かつては祭司階級の人々しか入れなかった場所で、すべてのイエスさまを信じる人々がそこで直接大胆に霊的生贄である賛美を捧げ、また祈りを捧げ、礼拝を捧げるということが許されています。
何故そう出来るかといえば……それは、イエスさまが十字架上で血を流されたことにより、神さまへの罪の宥めがなされ、わたしたちと神さまとをずっと隔ててきた<罪の仕切り>がなくなったからなのです。
(父なる)神さまはとても清い聖なる方なので、本来であれば、その御前に罪ある者は一切近づくということが出来ません。けれども、子なる神イエス・キリストさまの流された、尊い血の犠牲により、<罪の仕切り>がなくなったことで――それでわたしたちは今こんなにも大胆に、聖霊さまによってイエスさまに祈り、その願いを聞いていただくということが出来るのです。
個人的に思うのは、信仰生活が生き生きするか、停滞するかの差というのは、基本的にイエスさまに祈り聞き従えるか、この部分が鍵となると思うのですが、わたし個人の場合、なかなか聞き従えないにも関わらず、神さまには祈りを通して色々祝福していただいたと思います(ただし、聞き従えなかったことに対する自業自得の罪の刈り入れという経験は一度、二度のみならず経験してるんですけど^^;)。
わたしたちはイエスさまが十字架におかかりになった尊い犠牲の血によって、今霊的神殿を自分の内に持ち、そこで聖霊さまを通して神さまを賛美し祈り、また生きた霊の礼拝を捧げます。
一度クリスチャンになると、ある意味この恵みがあまりに当たり前のようになってしまうわけですけど(汗)、生ける霊の石に継ぎ合わされていることの恵みというのは、日々強く感じるので、ちょっと記事にしてみようかなと思いました(^^;)
それではまた~!!
>>主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
(ペテロの手紙第一、第2章4~5節)
>>私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
(エペソ人への手紙、第3章12節)
>>イエスは彼らに答えて言われた。
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」
そこで、ユダヤ人たちは言った。
「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか」
しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
(ヨハネの福音書、第2章19~21節)
>>見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、
あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
あなたがたの罪が御顔を隠させ、
聞いてくださらないようにしたのだ。
(イザヤ書、第59章1~2節)
わたしがイエスさまのことをまだ信じていない未信者であった頃、この神さまと自分とを隔てる<仕切り>がありました。
けれども、神さまはこの<罪の仕切り>を排除し、己の罪ゆえに苦しむ惨めな人々をお救いになるために、この世にやって来られました(「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイの福音書、第2章17節))。
つまり、キリスト教の教えとしては、イエスさまのことを自分の救い主であると信じない限り、神さまとの間にこの<罪の仕切り>が存在しているということになります。そして、イエスさまを信じた時にこの<罪の仕切り>が取り除かれ、神さまの愛や恵みや赦しの力が聖霊さまを通して豊かに注がれてくる……ということになると思うんですね。
そしてイエスさまは、すべての人がこの神の愛や恵みや赦しの豊かな力を得ることが出来るようにと、十字架上で極限までお苦しみになったのです
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ところで、今回の冒頭の御言葉でイエスさまがおっしゃっておられるのは、わたしたちの霊的神殿のことですが、目に見える神殿としては、旧約時代、それはエルサレムにありました。そして、それはさらに遡ってモーセの時代には、幕屋として存在しており、その幕屋について、神さまはモーセにどのように建てるべきかという事細かな指示を与えておられました。
この神さまのご指示によると、幕屋の内部は聖所までは祭司が入ることが出来、さらに最奥の至聖所へは、大祭司だけが入ることを許されていました。
>>そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
イエスは大声で叫んで、言われた。
「父よ。わが霊を御手にゆだねます」
こう言って、息を引き取られた。
(ルカの福音書、第23章44~46節)
つまり、これがイエスさまが十字架におかかりになって成し遂げてくださったことでした。
それまでは、祭司階級の人々だけが神殿に入り、生贄を捧げていたのですが、イエスさまがこの聖所の幕屋の幕を真っ二つに裂いてくださったことにより――今は聖霊さまにより、かつては祭司階級の人々しか入れなかった場所で、すべてのイエスさまを信じる人々がそこで直接大胆に霊的生贄である賛美を捧げ、また祈りを捧げ、礼拝を捧げるということが許されています。
何故そう出来るかといえば……それは、イエスさまが十字架上で血を流されたことにより、神さまへの罪の宥めがなされ、わたしたちと神さまとをずっと隔ててきた<罪の仕切り>がなくなったからなのです。
(父なる)神さまはとても清い聖なる方なので、本来であれば、その御前に罪ある者は一切近づくということが出来ません。けれども、子なる神イエス・キリストさまの流された、尊い血の犠牲により、<罪の仕切り>がなくなったことで――それでわたしたちは今こんなにも大胆に、聖霊さまによってイエスさまに祈り、その願いを聞いていただくということが出来るのです。
個人的に思うのは、信仰生活が生き生きするか、停滞するかの差というのは、基本的にイエスさまに祈り聞き従えるか、この部分が鍵となると思うのですが、わたし個人の場合、なかなか聞き従えないにも関わらず、神さまには祈りを通して色々祝福していただいたと思います(ただし、聞き従えなかったことに対する自業自得の罪の刈り入れという経験は一度、二度のみならず経験してるんですけど^^;)。
わたしたちはイエスさまが十字架におかかりになった尊い犠牲の血によって、今霊的神殿を自分の内に持ち、そこで聖霊さまを通して神さまを賛美し祈り、また生きた霊の礼拝を捧げます。
一度クリスチャンになると、ある意味この恵みがあまりに当たり前のようになってしまうわけですけど(汗)、生ける霊の石に継ぎ合わされていることの恵みというのは、日々強く感じるので、ちょっと記事にしてみようかなと思いました(^^;)
それではまた~!!
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>>主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
(ペテロの手紙第一、第2章4~5節)
>>私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
(エペソ人への手紙、第3章12節)
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