神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

聖なる楽しみ。-【20】-

2019年05月31日 | キリスト教


 イスラエルの神、主。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。

(歴代誌第二、第6章14節)


 >>信じがたいことですが、神様は神様の働き手たちに退職の計画はもっていらっしゃらないようです!私自身、新約聖書で、みことばにおいても、考え方においてもどこにも、退職の箇所を見つけることはできません。これは近代的考え方であって、クリスチャンの考え方ではないようです。

 今日、私たちは、一生働きづめだったから、ある年齢に達したら、今までの仕事に対する報酬を享受しながら、引退して、遊んで暮らそうと考えます。そうして、リクライニングチェアに座って、テレビを見、音楽を楽しむのです。読書をしたり、家の周りの仕事や、庭仕事をしたりして過ごします。趣味やコレクションを楽しんだりもします。ゴルフや肩の凝らないゲームに興じたりします。外食し、買い物にも行きます。モーターホームを購入して、国中を旅行します。時々、いや定期的に教会にも行きます。

 しかし、ほとんどの人は、教会では一生懸命過ぎるほどは働いていません。もう自分たちはすべきことはしたんだから、今度は若者たちの番だとかまえるのです。後ろに引き下がり、交わりや、音楽や、説教を楽しむことになるのです。時々、何か提案したりすることはいといません。もう退職したのですから、それぐらいにしておきます。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 さて、マーリン・キャロザース先生の御本、『聖なる楽しみ』より学んでいく旅路(?)も終わりに近づきましたが、まず、マーリンさんは退職を機に、これからは教会の第一線で働くことからは退こうとされたわけですよね。

 そこで、自分の好きな時にテレビを見たり、あるいはセスナ機を買って乗ったり、健康のためにゴルフをしたり……マーリンさんだけでなく、他の多くの方も、「退職」、「定年」の頃合を迎えた時には、まったく同じように考えられるのではないでしょうか。

 けれども、マーリンさん御自身がおっしゃっておられるように、「神の仕事に定年はない」というのは、間違いなく真実なのではないかと思います(^^;)

 信仰の父アブラハムは、七十五歳の時に神さまから語られて、行き先がどこか知らずして、その導きのままに故郷を出、新天地を目指して旅に出ましたし、モーセが同胞であるイスラエル民族の解放のため働くよう神さまに語られたのは、八十歳を過ぎてからでした。

 イエスさまには不可能がないので、神さまはまだ10歳くらいの信仰が幼い者のことも、あるいは90歳を過ぎて寝たきりの方であったとしても――必ずお用いになることが出来ると思います。

 ただ、一般的にはある程度の年齢に達すると、後任の牧師さんに任せよう……となるのが普通と思いますし、そうしたイエスさまに対する「仕え方」というのは、個々人が祈りの中などで主の御心を求める必要があるのと同時に――霊の最前線で戦うことを決意していないわたしが言うのもなんですが(^^;)、究極的に言って、この霊の最前線に出ていく信仰を持ち、かつ実践することには、年齢は関係ない、ということなのではないでしょうか。

 マーリンさんも書かれているとおり、わたしも霊の最前線に出ていくというのではなく、後方梯隊クリスチャン、誰か他の方が霊の最前線で戦っている、その後ろあたりにいたいわけです(笑)けれども結局、「自分の出来る範囲内で精一杯、一生懸命イエスさまに仕えたい(>_<)」との望みがあり、日々の日常で信仰生活を続けていくなら――結局のところ、そうした神さまに祈り、感謝し賛美する生活を邪魔するサタンの勢力にも何かと攻撃されますし、「いやいや、わたしは後ろのほうで地味に目立たないクリスチャンでいたのだ」と思っていたところで、気づくと霊の最前線に出ていかなくてはならないことになるのです。


 >>あなたはかつて、深いとりなしの祈りをした後、完全に疲れ切ってしまった経験はないでしょうか?

 それは、あなたが自分の肉体と知性で祈っている間、神があなたの霊のからだを取り上げ、あなたが悪霊の軍勢と闘って祈っているその闘いの中に、それを置かれたからです。その闘いは、霊の世界の戦場で起こったのです。あなたが感じた疲労は、二つのことの結果です。第一に、それはあなたの霊がその闘いで経験した緊張感の反映であり、第二に、それは自然な『枯渇』であって、その間、あなたの霊が肉体の中にいなかったことによって生じたものです。

(『サタンのわな』レベッカ・ブラウンさん著/エターナル・ライフ・ミニストリーズ刊より)


 このことについては、次の回で再び取り上げたいと思うのですが、たとえば教会で霊の最前線に出ていって戦っている人々の後ろにいて、彼らのためにとりなしの祈りをしようといった場合――結局のところ、後ろのほうにいて補給部隊として働きたいとわたしが願っていたところで、敵(悪魔・サタン)といった存在には必ず悩まされます。

 逆に悩まされないとすれば、敵のほうでわたしが目に留める価値がないということであり、そのことにほっと安住することは出来ません。何故なら、敵の攻撃を一切受けないということは、わたしの祈りや信仰生活などが自己満足的・表面的なものであり、神さまにとってもそのようなものとして受け止められている可能性があるからです。

 そして、マーリンさんもまた、「そろそろ自分も年だし……」とお考えになられ、この霊の戦いの最前線からは退こうとお考えになられたということだと思うんですよね。けれど、「肉体的に衰えてきたし、年齢的にも定年といったところだから」ということと、その後も霊的最前線で戦っていく――ということには食い違いがあると、マーリンさんは神さまから示しを受けてお気づきになられたのだと思います。


 >>今、ご覧のとおり、主のことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。

 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。

(ヨシュア記、第14章10~11節)


 >>モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。

(申命記、第34章7節)


 面白いのは、マーリンさんがこのことを「霊的退職」と呼ばれ、肉体の退職と対比されていることかもしれません(笑)

 つまり、神さまはわたしたちが死ぬまで信仰生活に「霊的退職」などということはないとおっしゃっておられるということであり、わたしたちがもし仮に今若いか、あるいは壮年と呼ばれるくらいの年齢で、何がしかの仕事の役職に就いていたとすれば――そうした仕事についてはいつか必ず退職する時期というのが訪れるでしょう。

 けれども、仮にそれが牧師さんのお仕事であって、ある教会に一定の期間務め、「そろそろお若い方にこの役職は譲ろう」と考えられた場合でも、その後も祈ったり神さまを賛美したり、日曜礼拝を守ったりといった信仰生活自体は当然続いてゆきますし、だからといってそれは霊の最前線から身を引いた、ということになるとは限らないわけです。

 神さま、イエスさまの願っておられるところは、「すべてのクリスチャンが霊的最前線に出て戦うべき」ということであり、そのことに関してわたしたちが聖霊さまを通して熱く祈るなら、応えられないということはまずもってないと断言していいのではないでしょうか。

 攻撃は最大の防御なり、と言いますが、「霊的最前線は敵の攻撃が激しくて大変そうだな。自分はもうちょっと後ろの安全な場所にいたいな」とわたしが思ったところで、いずれ気づくのは次のようなことです。

 敵の攻撃の激しい場所は、神さま・イエスさまからの聖霊さまを通した守りの力がもっとも強い場所であり、そのカバーリングの力は完全にして完璧なものです。けれども、ちょっと後ろのほうの、安全な場所にいたい……なんて思っていると、敵の流れ弾が飛んできて、案外それが致命傷になったりするのです(^^;)

 つまり、そのくらいなら最初から霊の最前線に出ていったほうがいいのだ――というのが、マーリン・キャロザース先生の『聖なる楽しみ』を読んだあとの、わたしにとっての一番の感想ということになります

「生ぬるいクリスチャン」という言葉にハッとして、わたしは某キリスト教書店にて、このマーリン先生の『聖なる楽しみ』をすぐに買い求めたわけですけど、「生ぬるいクリスチャン生活からの脱却」ということのわたしなりの答えが「霊の最前線に出ていく」ということだったかもしれません。

 もっとも、そのためにこれから具体的にどうするか、今後どのようにしてさらに信仰生活を高めていくのか――といったことの計画までは立てられていませんが(汗)、今のわたしの心境というのはようするに「そろそろ流れ弾を食らうことにも飽き飽きしてきた」というものであり、霊的最前線に出ていくよりも、このような状況下に自分を置き続けることのほうがよほど危険なのだということです(^^;)


 >>主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
 疲れることなく、たゆむことなく、
 その英知は測り知れない。

 疲れた者には力を与え、
 精力のない者には活気をつける。

 若者も疲れ、たゆみ、
 若い男もつまずき倒れる。

 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
 鷲のように翼をかって上ることができる。
 走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

(イザヤ書、第40章28~31節)


 >>わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 私のうちにあるすべてのものよ。
 聖なる御名をほめたたえよ。

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 主は、あなたのすべての咎を赦し、
 あなたのすべての病いをいやし、
 あなたのいのちを穴から贖い、
 あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
 あなたの一生を良いもので満たされる。
 あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

(詩篇、103編1~5節)


 >>わたしに聞け、
 ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。

 胎内にいる時からになわれており、
 生まれる前から選ばれた者よ。

 あなたが年をとっても、
 わたしは同じようにする。

 あなたがしらがになっても、
 わたしは背負う。

 わたしはそうしてきたのだ。
 なお、わたしは運ぼう。
 わたしは背負って、救い出そう。

(イザヤ書、第46章3~4節)


 モーセのように、あるいはカレブのように、実は霊的最前線で戦う決意のある人、また、神さまからの語りかけを受けてそのように実践できる人というのは、こうした聖書の御言葉がそのまま成就し、イエスさまにあるもっとも幸福な人生、信仰生活が約束されるだけでなく、その功績は天国にまでも引き継がれていくのです。


 >>この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

(ヨハネの黙示録、第20章6節)


 永遠の命の報酬がクリスチャンにはすでに与えられているわけですが、そのために信仰のフルマラソンを最後まで走り切るのは、体力のみならず非常な忍耐力をも必要とします。

 けれども霊の最前線にわたしたちが出ていく時――いわゆる「ランナーズハイ」状態というのでしょうか。「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」という肉的・霊的力が与えられていくと思います。そればかりか、脳は信仰による幸福感に満たされ、普通なら人生上の大変に思えることも、まったく苦労なく乗り越えるような力さえ与えられ、ついには北斗の拳のケンシロウのように、一撃で敵を倒す力まで得られるようになるかもしれません(真顔☆)。

 もちろん、秘孔を突いてくださるのは神であり、どこが敵の弱みかを教えてくださるのもイエスさまです。わたしたちが自分の頭で考えて、自分の能力の道、自分の人生の計画を行こうとする時、そのことには限界があります。むしろ敵である悪魔・サタンといった存在に自分の弱みを突かれたり、そのせいで気を休める暇もないといった人生になるかもしれません。

 これはわたしが最近つくづく思うことなのですが、神の信仰生活というものに「間はない」のだと思います。わたしたちが聖書的原則に沿って生活する時、信仰初期の頃にはそれだけで色々なことが祝福されるということがあるかもしれません。けれども遅かれ早かれ敵の勢力との戦いがはじまり、悪魔(サタン)・悪霊といった存在に弱いところを突かれ、信仰が倒れてしまう人、あるいは戦線を離脱する人が出てくるのではないでしょうか。

 もちろん、そのような形で一度退いても、クリスチャンはイエスさまからの聖霊さまを通した御声によって、再び出撃することが出来ます。ヨシュア記において、イスラエル軍はアカンの罪によって勝てるはずの戦いに大敗北を喫しました。

 わたしたちの信仰生活にこうした<破れ口>がある時、そこを塞いでからでないと、霊の最前線の戦いにおいて勝利を得ることは出来ません。そしてその<破れ口>が何であるのかは、一日中テレビだけ見てゴロゴロしていたいという怠惰の罪かもしれませんし、金銭欲や浪費の罪かもしれませんし、あるいは食べたいものを好きな時に好きなだけ食べたいということが原因である場合もありえます。それが神さまに聞き従えない、聞き従いたくない理由になりうるというのは、間違いなくあると思います。

「礼拝へは行かずに日曜は家でゴロゴロしていたい」というのは、クリスチャンであれば大体一回かそれ以上は思ったことがあるでしょうし(笑)、イエスさまの道を踏み行うよりも、この世的な成功のほうが上に来ており、そのために身を粉にして働く、といった人生の方もいらっしゃるのではないでしょうか。また、食欲のように、「え?そんなことが?」と一見思われることの内にこそ、悪魔(サタン)・悪霊というのは巧みに働きかけてくるものであり、この分野に関しては「人に言いにくい」、「相談しにくい」といった手合いのものも多いのではないかと思っています。

 これは書きにくいことですが、たとえば「不倫している」、「不倫していたことがある」といったことは、クリスチャン間では言いにくいことでしょうし、そうした心の傷が元となって信仰から離れていく、ということもあるかもしれません。つまり、「そのような罪を犯した自分は、もはや許されない」と感じ、イエスさまの十字架の元に自分の罪を持っていくことをやめる、ですとか、罪悪感があまりに強い場合には、起こりうることだと思います。

 他にも、自分の子供を傷つけることをやめられないとか、クリスチャンであるにも関わらず、喫煙や飲酒をいまだにやめられないが、そのことを教会では隠している、借金のことで悩んでいるが、そのことを誰にも話せないでいる――など、イエスさまの元にそうした悩みや苦しみを持っていくなら癒しや解決の道が開かれるのに、「いや、これは自分が犯した罪だから自分で解決せねば」、「他のクリスチャンの前では特に言いたくないし、そのような罪を告白するなどもっての他だ。何より、表面上は立派な信仰の持ち主として人から尊敬されたいのだ」といった見栄ですとか、複雑な問題が存在するかもしれません。

 そして、こうした問題の色々な局面を信仰的に乗り越えていく過程で――どのような苦難の道を通り、乗り越えた人でも、その間、イエスさまにある信仰の道から離れなかったとすれば、最後に悟るのが「霊の最前線に出ていく」ことこそ、実は神さまにあるもっとも安全かつ、幸いで、祝福された人生を歩む一番の早道だということに気づかれるのではないでしょうか。

 わたしも随分回り道をし、唯一信仰が難破するようなことだけは絶対的になかったとはいえ、最初からそうと悟って信仰の道を踏み行えていたら、あんな失敗やこんな失敗もなく、自分はもっと神さまに祝福されていたのではないか……とは思っています。

 けれども、こうした信仰の道でまったく躓かなかったり、少しも遠回りをしたことがない――というのも、少々危険なことであるような気もします(^^;)何故なら、その場合ならその場合で、信仰の道で躓きそうになっている他の人を本当の意味で助けたり、悪魔(サタン)・悪霊といった存在に悩まされている人の解放のために真に祈ったりですとか……そうした「本当の意味での」相手の支えになるのは難しいような気がするからです。

 苦しんでいる人を本当の意味で助けられるのは、より苦しんだ者であり、悩む人を本当の意味で救えるのも、より悩んだことのある人だけだというのは、個人的には真理であると感じます。ゆえに、イエス・キリストはこの地上でこの方以上に苦しみ、辛酸をなめた生涯を送られた方はいらっしゃらないのですから、この方ほど、わたしたち人類すべての苦悩を理解し、弱いわたしたちを助けてくださるのに相応しい方はいらっしゃらないのです。

 話のほうが、元の本筋のマーリンさんのお話から逸れてしまいましたが(汗)、次回の第20章(最終章)、「良き戦いに挑む」にて、あらためてこうしたことについてまとめてみたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





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