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世に『赤毛のアン』ファンの方はたくさんいらっしゃると思うので、ちょっとどうしようかな……とは思ったのですが(汗)、このブログの中では特に赤毛のアンシリーズの中に出てくる、キリスト教に関係した事柄について、順不同で適当に(?)取り上げていってみたいと思いますm(_ _)m
でも、「赤毛のアン?よく知らないな☆
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>>ちょっとした手違いから、グリン・ゲイブルスの老兄妹(マシュー&マリラ・クスバート)に引き取られたやせっぽちの孤児アン。初めは戸惑っていた2人も、明るいアンを愛するようになり、夢のように美しいプリンス・エドワード島の自然の中で、アンは少女から乙女へと成長してゆく――。愛に飢えた、元気な人参あたまのアンが巻き起す愉快な事件の数々に、人生の厳しさと温かい人情が織りこまれた永遠の名作。
(『赤毛のアン』L.M.モンゴメリ著・村岡花子さん訳/新潮文庫より)
まず物語は、農作業などを手伝ってくれる男の子の手伝いが欲しかったのに、手違いで赤毛の女の子、アン・シャーリーがクスバート家へやって来るところからはじまります。
マシューは優しく、気の弱い質ですから、駅にその子を迎えにいってみたところ、「男の子じゃなくて女の子だった!」ことがわかっても、とりあえずアンには何も言わずにそのままグリン・ゲイブルスまで馬車で連れ帰ります。この時にアンが目にした<歓喜の白路>や<輝く湖水>のことはとりあえず端折ることにして(^^;)、彼女の姿を目にするなり、兄と違って気の強いところのある現実家のマリラははっきりこう言うのでした。「男の子は一体どこなの!?」と……。
アンがさんざん泣きわめき、名前を聞かれて「コーデリアと呼んでくださらない?」と言ったりする場面などもすっ飛ばし、翌日、マリラは「女の子ではなく男の子を」と頼んでいた、スペンサーの奥さんのところへアンを連れていきます。そしてここで、もんのすごおおおく厳しくて性格のキッツそうなブリュエットの奥さんに、子守兼家事手伝いとしてアンが引き渡されそうなのを見たマリラは――少し考えを変えるのでした。簡単にいえば、「ブリュエットさんなんかに引き取られた日には、どんな犬猫も飢えておっ死んじまうだろう」といったようなことが理由かと思われます(※『赤毛のアン』内ではこんな描写じゃありません、もちろん^^;)
そして「引き取る気がまったくないでもない」ということをスペンサーの奥さんに話し、とりあえずはアンのことをグリン・ゲイブルスへと連れ帰るマリラ。
こうして、結局のところマシューとマリラのクスバート兄妹は、この気の毒な赤毛の女の子を引き取るということに。
でもふたりとも子育てなんてしたことありませんし、マリラは女の自分にその養育の責任が重くのしかかってくるだろうともわかっています。そこで、これから色々なことをこの子に教えていかなければならないだろうと思うわけですが、少し驚きなのは、マリラはまずアンの宗教教育から着手してるんですよね。
>>「あんたがここにいたいと思うなら、忘れてはいけないよ。そう、それでいくらか見よくなった。では、お祈りをして床にはいりなさい」
「あたし、お祈りってしたことがないの」
とアンが言った。マリラはぎょっとした。
「えっ、なんですって、アン。お祈りを教わったことがないというの?神様はいつでも小さな女の子がお祈りをすることを望んでいらっしゃるんだよ。神様を知らないのかね、アン?」
「神は愛にして無限、永遠に変わることなく、その知恵と力と神聖と正義と善と真(まこと)は限りなく、変わることなし」
マリラはほっとした面持ちで、
「ではいくらかは知っているんだね。ああ、よかった。まったくの異教徒でもないわけだ。どこでそれを覚えたのかね?」
「孤児院の日曜学校で、問答(キャテキズム)をすっかり覚えさせられたの。あたし、かなり好きなことは好きだったわ。なにかちょっとすてきな文句があるんですもの。無限、永遠に変わらぬ、なんて、おもしろいわね。大きなオルガンをひいているときみたいな、響きがあるわ。詩とはいえないけれど、詩とおなじような響きがあるわ。そうじゃない?」
「いまは詩のことを話しているんじゃありませんよ、アン。あんたのお祈りのことを言ってるんです。毎晩お祈りをしないなんて、おそろしくわるいことだってことがわからないのかね。あんたはとてもわるい子じゃないかしらと思うよ」
「小母さんだってもしあたしみたいにみっともない赤毛だったら、わるい子にならずにいられないと思うわ」
アンは文句を言った。
「赤い髪の人でなければ、その苦労がわからないわ。トマスの小母さんが、神様はわざとあたしの髪を赤くなすったんだって言ったもんで、それからあたし、神様なんか勝手にしろと思うようになってしまったの。それにあたし、晩になるといつもあんまりくたびれてしまって、お祈りどころじゃないんですもの。ふたごの世話をさせられている者にお祈りなんか無理だわ。ねえ、小母さん、無理だと思わない?」
マリラはすぐにも、アンの宗教教育をはじめなくてはならないと決心した。一刻もぐずぐずしてはいられない。
(『赤毛のアン』L.M.モンゴメリ著・村岡花子さん訳/新潮文庫より)
では次回は、アンの考える<お祈り>について見ていってみたいと思うのですが、今回はもうひとつ、『赤毛にまつわる謎』について、松本侑子先生の本から少し引用させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>なぜ赤毛を嫌うのか?
アンの時代は、金髪と黒髪が美しいという美意識に加えて、赤毛には裏切り者のイメージもありました。キリスト教では、イエスを裏切った弟子として新約聖書に描かれるイスカリオテのユダが赤毛だったという伝説があります。旧約聖書でも、アダムとイヴの息子カインが赤毛とされます。カインは嫉妬から弟のアベルを殺害するのです。
髪の色が多様な西洋では、毛髪から人格を推測する、ある種ステレオタイプな分類もあります。金髪の女性は家庭的な良妻賢母、黒髪は情熱的な悪女といった描き分けが従来の映画にはよくありました。
一方、赤毛は、エキゾチックで謎めいた美女というイメージもあります。古くは16世紀イタリア絵画の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90~1576年)が好んで赤毛(金褐色)の美女を描きました。彼の名は『赤毛のアン』にも登場しています(第33章)。
20世紀のハリウッド女優では、鮮やかな赤毛のモーリン・オハラ(オハラはアイルランド系に多い名字)、「赤毛のリタ」と呼ばれたリタ・ヘイワースに人気がありました。
赤毛は、ケルト系(スコットランド人、アイルランド人)に多いとする俗説もあります。そこから、どこか魔法がかった不思議な個性が、文学や映画における赤毛には付加されることもあるのです。
(『赤毛のアンへの旅~秘められた愛と謎~』松本侑子さん著/NHK出版)
ユダやカインが赤毛だった(かもしれない)――というのは、わたし、実はこの本のこの箇所を読むまで全然知りませんでした(^^;)
だとしたらまあ、確かに<裏切り者>のあまりよくないイメージがあるというのもわかる気はします
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でも日本人的には赤毛の何がそんなにいけないのかって、さっぱりわからないという感じですよね(笑)
あともうひとつ、赤毛に関して少しばかり興味深いサイト様を発見したので、参考までにm(_ _)m→『赤毛はなぜ差別?』、『イギリスの赤毛差別について』
それではまた~!!
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