【エリコ陥落】ジャン・フーケ
モーセの後継者のヨシュアは、神さまの約束された土地へとイスラエル民族を率いて入っていくために、ヨルダン川を越えました。
そして、最初に彼らの攻め取ったのがエリコという城砦都市でした。
ヨシュア記の第6章1節に>>エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。とあるとおり、普通に考えた場合、こうした城砦都市を軍が取り囲んで陥落させるとしたら、何か月もかかると思います。
定石として、このような形で軍に取り囲まれた場合、都市の中にいる人々は自分たちの内にある食糧が尽きる前までに外の軍隊をどうにかしなくてはなりません。けれども、ヨシュア率いるイスラエル軍は、粘り強くエリコを兵糧攻めにするというのではなく、神さまの奇蹟によって自軍に一滴の血が流れるということもなくエリコを攻め取りました。
>>主はヨシュアに仰せられた。
「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。
あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。
七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。
祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない」
(ヨシュア記、第6章1~5節)
ヨシュアと彼の率いるイスラエル軍がこのようにした時、ありえないことが起きました。ヨシュア記には>>民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。(第6章20節)とあります。
普通では到底ありえないことですが、こうして城砦都市エリコはたったの七日で陥落しました。わたしたち人間がもし、エリコくらいの規模の城砦都市を攻め落とそうとするなら、まずはやぐらを組んで投石を行ったり、堅く閉ざされた城門を破るのに破城槌を用いたりしなくてはならないでしょう。
そして当然エリコの住人たちも抵抗を試み、向こうからも弓矢が飛んでくるなどして、誰も無傷でいるということは出来なかったに違いありません。
けれども、ヨシュアと彼の率いるイスラエルの民たちが神さまの言うことに聞き従った結果、何もせずしてエリコの城壁が落ちるという奇蹟が起きました。
聖書はこうしたたくさんの「神の民が神の御声に聞き従った」結果、何が起きたかという奇蹟で満ちていますが、これは何千年も昔に起きた歴史的出来事ではなく、今という現代に生きるわたしたちクリスチャンにも、まったく同じことが言えると思います。
>>イエスは答えて言われた。
「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
(マルコの福音書、第22~24節)
もしわたしたちがどんなに祈っても、山が動いて海に入るということはまずもってありえない気がします(^^;)
けれど、信仰の力というものは今も昔もまったく同質のものです。エリコの城壁が落ちたのと同じ信仰を用いていくなら――わたしたちがどんなに努力してもこの人生の問題の山だけは動かない……と信じている山が、海に入って解決するのです。
でももし、わたしたちが神さまのことを信じず、人間的肉の力によって事に当たるなら、エリコの住人からの思わぬ反撃にあい、結果として互いに血を流しあい、血みどろの戦闘を演じた結果として何か月もかけたあとにどうにかエリコを陥落させる……というのと同じように、わたしたちがもし神さまに信頼せず、自分の肉の腕に頼るなら、もし最終的に同じ結果を得るのだとしても、「これが本当に神さまの御心に適うことなのだろうか」と絶えず思い悩んでいなくてはならないかもしれません。
そして最後にはこうつぶやくのです。「神など本当にこの世に存在するのだろうか」と……。
また、旧約聖書には「五千人の給食」という、もし神さまが奇蹟をなさったのだとしても、まずもって「ありえねえ!!」と叫びたくなるような、イエスさまの起こしてくださった旧約聖書のマナを思わさせる奇蹟があります。
この時イエスさまは弟子たちにチャレンジして、「君たちで彼らに食事を用意したまえよ」とおっしゃるわけですが(笑)、「そんなことできるわけねーだろ!」じゃなくて、「そんなことはとても無理です、イエスさま」というのが弟子たちの答えでした。
ところで、ヨシュアたちがヨルダン川を渡り、エリコへ攻め入る前に――天からマナという神さまが特別に備えてくださった食物が降ってくる……という奇蹟がストップしています。
出エジプトを経験した最初の代のイスラエルの人々は、その心のかたくなさによって滅ぼされてしまいましたが、その次の代のイスラエルの民たちは、生まれた時から当たり前のようにこの神さまの奇蹟に浴していたものと思われます。
そのマナがストップする……わたしだったらたぶん、明日から一円も収入ないけどどうしようみたいに思って震えおののいていたかもしれませんが、この時ヨシュア率いるイスラエルの民たちは、神さまに聞き従うということにおいて、心がひとつになっていたものと思われます。
それまでにもイスラエルの民たちはさんざん神さまに不服従の罪を犯し尽くしていましたから……もしかしたらもう「ここで神さまに聞き従わないなら、わたしたちイスラエルは地からまったく滅ぼされてしまうだろう」という気持ちもあったのかもしれません。
そして旧約聖書のお話というのは、遥か昔にそんなことがあったらしい……といった現代のクリスチャンにまったく関係のない物語というわけではなく、本当に読み返すごとに身につまされる思いがします(^^;)
何故なら彼らとまったく同じように神さまのおっしゃることに聞き従えず、自分にとって好ましい道を選びとっては罪の刈り取りを行い、そしてその度に神さまが聖霊さまを通して恵み深く取り扱ってくださったから――今、ようやく約束の地を目の前にすることが出来ている……そうした信仰を持つクリスチャンの方はとても多いのではないでしょうか。
それではまた~!!
モーセの後継者のヨシュアは、神さまの約束された土地へとイスラエル民族を率いて入っていくために、ヨルダン川を越えました。
そして、最初に彼らの攻め取ったのがエリコという城砦都市でした。
ヨシュア記の第6章1節に>>エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。とあるとおり、普通に考えた場合、こうした城砦都市を軍が取り囲んで陥落させるとしたら、何か月もかかると思います。
定石として、このような形で軍に取り囲まれた場合、都市の中にいる人々は自分たちの内にある食糧が尽きる前までに外の軍隊をどうにかしなくてはなりません。けれども、ヨシュア率いるイスラエル軍は、粘り強くエリコを兵糧攻めにするというのではなく、神さまの奇蹟によって自軍に一滴の血が流れるということもなくエリコを攻め取りました。
>>主はヨシュアに仰せられた。
「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。
あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。
七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。
祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない」
(ヨシュア記、第6章1~5節)
ヨシュアと彼の率いるイスラエル軍がこのようにした時、ありえないことが起きました。ヨシュア記には>>民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。(第6章20節)とあります。
普通では到底ありえないことですが、こうして城砦都市エリコはたったの七日で陥落しました。わたしたち人間がもし、エリコくらいの規模の城砦都市を攻め落とそうとするなら、まずはやぐらを組んで投石を行ったり、堅く閉ざされた城門を破るのに破城槌を用いたりしなくてはならないでしょう。
そして当然エリコの住人たちも抵抗を試み、向こうからも弓矢が飛んでくるなどして、誰も無傷でいるということは出来なかったに違いありません。
けれども、ヨシュアと彼の率いるイスラエルの民たちが神さまの言うことに聞き従った結果、何もせずしてエリコの城壁が落ちるという奇蹟が起きました。
聖書はこうしたたくさんの「神の民が神の御声に聞き従った」結果、何が起きたかという奇蹟で満ちていますが、これは何千年も昔に起きた歴史的出来事ではなく、今という現代に生きるわたしたちクリスチャンにも、まったく同じことが言えると思います。
>>イエスは答えて言われた。
「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
(マルコの福音書、第22~24節)
もしわたしたちがどんなに祈っても、山が動いて海に入るということはまずもってありえない気がします(^^;)
けれど、信仰の力というものは今も昔もまったく同質のものです。エリコの城壁が落ちたのと同じ信仰を用いていくなら――わたしたちがどんなに努力してもこの人生の問題の山だけは動かない……と信じている山が、海に入って解決するのです。
でももし、わたしたちが神さまのことを信じず、人間的肉の力によって事に当たるなら、エリコの住人からの思わぬ反撃にあい、結果として互いに血を流しあい、血みどろの戦闘を演じた結果として何か月もかけたあとにどうにかエリコを陥落させる……というのと同じように、わたしたちがもし神さまに信頼せず、自分の肉の腕に頼るなら、もし最終的に同じ結果を得るのだとしても、「これが本当に神さまの御心に適うことなのだろうか」と絶えず思い悩んでいなくてはならないかもしれません。
そして最後にはこうつぶやくのです。「神など本当にこの世に存在するのだろうか」と……。
また、旧約聖書には「五千人の給食」という、もし神さまが奇蹟をなさったのだとしても、まずもって「ありえねえ!!」と叫びたくなるような、イエスさまの起こしてくださった旧約聖書のマナを思わさせる奇蹟があります。
この時イエスさまは弟子たちにチャレンジして、「君たちで彼らに食事を用意したまえよ」とおっしゃるわけですが(笑)、「そんなことできるわけねーだろ!」じゃなくて、「そんなことはとても無理です、イエスさま」というのが弟子たちの答えでした。
ところで、ヨシュアたちがヨルダン川を渡り、エリコへ攻め入る前に――天からマナという神さまが特別に備えてくださった食物が降ってくる……という奇蹟がストップしています。
出エジプトを経験した最初の代のイスラエルの人々は、その心のかたくなさによって滅ぼされてしまいましたが、その次の代のイスラエルの民たちは、生まれた時から当たり前のようにこの神さまの奇蹟に浴していたものと思われます。
そのマナがストップする……わたしだったらたぶん、明日から一円も収入ないけどどうしようみたいに思って震えおののいていたかもしれませんが、この時ヨシュア率いるイスラエルの民たちは、神さまに聞き従うということにおいて、心がひとつになっていたものと思われます。
それまでにもイスラエルの民たちはさんざん神さまに不服従の罪を犯し尽くしていましたから……もしかしたらもう「ここで神さまに聞き従わないなら、わたしたちイスラエルは地からまったく滅ぼされてしまうだろう」という気持ちもあったのかもしれません。
そして旧約聖書のお話というのは、遥か昔にそんなことがあったらしい……といった現代のクリスチャンにまったく関係のない物語というわけではなく、本当に読み返すごとに身につまされる思いがします(^^;)
何故なら彼らとまったく同じように神さまのおっしゃることに聞き従えず、自分にとって好ましい道を選びとっては罪の刈り取りを行い、そしてその度に神さまが聖霊さまを通して恵み深く取り扱ってくださったから――今、ようやく約束の地を目の前にすることが出来ている……そうした信仰を持つクリスチャンの方はとても多いのではないでしょうか。
それではまた~!!
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