神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

毒麦のたとえ。

2016年09月12日 | キリスト教


 >>イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。

「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。

 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現われた。

 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。

『ご主人。畑には良い麦が蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。

 主人は言った。

『敵のやったことです』

 すると、しもべたちは言った。

『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか』

 だが、主人は言った。

『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の蔵に納めなさい、と言いましょう』

(マタイの福音書、第13章24~30節)


 主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。
 苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。
 悪者は高ぶって、悩む人に追い迫ります。
 彼らが、おのれの設けたたくらみに
 みずから捕えられますように。

 悪者はおのれの心の欲望を誇り、
 貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。
 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。
 その思いは「神はいない」の一言に尽きる。

 彼の道はいつも栄え、
 あなたのさばきは高くて、彼の目に、はいらない。
 敵という敵を、彼は吹き飛ばす。
 彼は心の中で言う。
「私はゆるぐことがなく、
 代々にわたって、わざわいに会わない」

 彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、
 彼の舌の裏には害毒と悪意がある。
 彼は村はずれの待ち伏せ場にすわり、
 隠れた所で、罪のない人を殺す。
 彼の目は不幸な人をねらっている。
 彼は茂みの中の獅子のように
 隠れ場で待ち伏せている。
 彼は悩む人を捕えようと待ち伏せる。
 悩む人を、その網にかけて捕えてしまう。
 不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、
 倒れる。
 彼は心の中で言う。
「神は忘れている。顔を隠している。
 彼は決して見はしないのだ」

 主よ。立ち上がってください。
 神よ。御手を上げてください。
 どうか、貧しい者を、忘れないでください。
 なぜ、悪者は、神を侮るのでしょうか。
 彼は心の中で、あなたは追い求めない
 と言っています。

 あなたは、見ておられました。
 害毒と苦痛を。
 彼らを御手の中に収めるために
 じっと見つめておられました。
 不幸な人は、あなたに身をゆだねます。
 あなたはみなしごを助ける方でした。
 悪者と、よこしまな者の腕を折り、
 その悪を捜し求めて
 一つも残らぬようにしてください。

 主は世々限りなく王である。
 国々は、主の地から滅びうせた。
 主よ。あなたは貧しい者の願いを
 聞いてくださいました。
 あなたは彼らの心を強くしてくださいます。
 耳を傾けて、
 みなしごと、しいたげられた者を
 かばってくださいます。
 地から生まれた人間が
 もはや、脅かすことができないように。

(詩篇、第10編)


 だから、悪人は栄え、善人は善を行うことで悩み苦しみ傷ついていても放っておかれるのか……といった単純なことではないと思いますが、その一方で苦難が人を立て上げる側面があるというのも事実とは思います。

 かといって、神は耐えられないほどの苦難を人に与えない――というのも、わたしは事実でないと思っていて(^^;)

 たとえば、神さまはその人にとって耐えられるだけの苦難を与えるというのは絶対に嘘だというのは、多くの方が同意されることだと思います。

 もちろん、オリンピック選手の方などがそうした発言をされているのをわたしも過去に聞いたことがあるし、そうした言葉についてはとても美しいものとして受け止めています。オリンピックでメダルを獲得するまでに、どれほどの苦しい思いをしながらトレーニングを積んできたか……そして実際にメダルを取ったあと「神さまは耐えられないほどの苦難を人に与えはしないと思って頑張りました」とその方がおっしゃるのは本当に美しいことだし、素晴らしいことだとも思うんですね(^^;)

 と、同時に、到底耐えられない苦難というのがこの世界というか、人によって必ず存在するものだと思います。

 こんなにも手に余る苦しみを与えられて、神はわたしにどうせよとおっしゃるのだろう……と感じて日々を生きるうちに神などこの世に存在しはしないと思うようになった方というのも、とても多いのではないでしょうか。

 わたし自身もかつてそんな時期がありましたし、今も苦難の暗闇と信仰の神による光の間を歩んでいるという、そんな気がします。


 >>「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」

(ヨハネの福音書、第12章35~36節)


 わたしが死ぬまでにあと何年、あるいは何十年あるのか、それより短いのかどうかわかりませんが、仮に五年後に死ぬとして1825日、十年後に死ぬなら3650日、毎日何を見てどう考え、どんなふうに日々を過ごしていくのか……ある一定の自由があると思います。もちろん、仕事や育児や介護に追われる日々で、そんな自由など自分にはない、そしてそこにこそ苦しみがあるのだ――という方もおられるかもしれません。

 けれど、闇を見ながら人生の道を歩いていくよりも、神さまの光の道のほうを見ながら人生を歩いていったほうがいい……と、わたしはそう自分で決めてある時選択したような気がしています。

「え?馬鹿じゃないの?そんな当たり前のこと、いかにもわかったようにもったいぶって言わんといてくれる??」と思われるかもしれませんが、実際闇の中にいるほうが居心地がいいということもあるのです(^^;)

 光の世界というのは、ある意味ポジティブな明るい世界です。でもそういうのってある意味とても疲れるし、心がついていかない……ということがありますよね。でも、わたし自身はイエス・キリストに対する信仰を持つようになってから――だんだん光しか見えないようになっていったような気がします。

 それも、自分で務めてそうしようというのではなく、聖霊さまの助けによって意識的にというよりは無意識の底から持ち上げられる形で少しずつ変えられていったと思うのです。

 もちろん心の闇は、昔と同じく確かにそのまま、わたしの中に同時に存在しています。けれど、ある程度育ったところで順番に刈り取られていって火で焼かれ、心の蔵の中には少しずつ少しずつ、良い麦だけが積み重なっていっているというのでしょうか。

 そして、毒麦というのは今日も、わたしの心の中で<良い考え>や<清い思い>とともに育ってはいるのです。

 けれど、わたしの心の中の「信仰の蔵」を壊すほどではないし、イエスさまを信じた時から、毒麦だらけだったわたしの心の畑もすっかり改良されて、今では毒麦が生えてきてもすぐやっつけられるし、それほど長くそこにいついているということもなければ、自然に枯れていくということも多い……そのように少しずつ少しずつ、心が整えられていっている気がします。

 とはいえ、やはりあるのですよね。<敵>のほうで「そういうことであれば……☆」とばかり今度は竜巻を起こして、あとは刈り取りを待つばかりとなった麦の穂を全部ダメにしていってしまうとか、それまで良いものを溜め込んできた蔵ごと目茶苦茶にしていく――なんていうことが。。。

 ヨブ記のヨブではありませんが、このような時にまで神さまに感謝できる人というのは、極少数であるに違いありません。

 けれど、信仰を失ってもおかしくないような苦難を経験していながら、また一から畑を耕しはじめる……そんな経験を一度のみならず二度も三度も経験していく時――その時こそが本当に本物の信仰が練り上げられていく機会でもあると思います。

「はー、そんなんだったらオラ、そんな神さま信じたくもねえだ」とか、「そんなんだったら、クリスチャンと呼ばれる人と他の宗教を信じてる人とで、一体どんな違いがあるっちゅうだね?」とおっしゃる方もおられるかもしれません。

 ですが、この点だけは本当に間違いなく絶対的に違うのです。

 ヨブ記のヨブが自分に降りかかった災厄に耐え切れなくなり、神さまを試みて改心したのち――以前の幾倍も祝福されたように、神さまに祈り感謝し聞き従うという信仰生活を忠実に行う時、イエスさまは聖霊さまを通して必ず御力を送ってくださいます。

 つまり、表面上はノンクリスチャンの方にもキリスト教徒と呼ばれる人々にも起きていることは同じなのです。けれど、普通なら不満のつぶやきで一杯になるところを神さまによって感謝できたり、他の人を恨みたくなるところを神さまからの聖なる思いで守られたりと、その一ミリの違いが生死を分けるというくらいの違いがあるとわたし自身は思っています。

 そして、信仰者が最後に天国で受ける報いがあり、また信仰を持たない人々が受ける報いとでははっきり差が出ると、そう聖書は教えています。


 >>「あなたがたはわたしに
 かたくななことを言う」と主は仰せられる。

 あなたがたは言う。

「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」

 あなたがたは言う。

「神に仕えるのはむなしいことだ。
 神の戒めを守っても、
 万軍の主の前で悲しんで歩いても、
 何の益になろう。
 今、私たちは、
 高ぶる者をしあわせ者と言おう。
 悪を行なっても栄え、
 神を試みても罰を免れる」と。

 そのとき、

 主を恐れる者たちが、互いに語り合った。

 主は耳を傾けて、これを聞かれた。

 主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、

 主の前で、記憶の書がしるされた。

「彼らは、わたしのものとなる。
 ――万軍の主は仰せられる――
 わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。
 人が自分に仕える子をあわれむように、
 わたしは彼らをあわれむ。
 あなたがたは再び、正しい者と悪者、
 神に仕える者と仕えない者との違いを
 見るようになる」

(マラキ書、第3章13~18節)


 これからも神さまの御前に恐れかしこみ、仕えるものでありたいと願います。

 それではまた~!!





コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ウォーキング・デッド。 | トップ | わたしの偶像。 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こちらこそ、ありがとうございますm(_ _)m (delphinium)
2016-12-02 20:56:05
 みぎさん、ありがとうごさいますm(_ _)m

 ここのブログをはじめてから、みぎさんが初めてコメントしてくださった方です♪(^^)

 そういったような事情から、わたし今までコメント欄って一度もチェックしてなくて……でもついさっき記事書いてたら、左側のコメント欄に文字が入ってると初めて気づきました

 なんにしても、みぎさんのお心に届く何かがあったとしたら、わたしも本当に嬉しいです

 実際、わたしもなかなか神さまに聞いていないことが多いですというのも、自分に都合の悪いことを語られても、勇気がなくて実行できなかった場合、そのあと罪悪感を感じたりするのが嫌だ……とか、みぎさんとはまた別の理由かもしれませんが、なかなか神さまのおっしゃることに聞き従えないという弱さがあります

 でも唯一の救いは、イエスさまがそういうわたしたち人間のことをよく理解し、わかっていてくださっているということですよね。

 みぎさん、記念すべき初コメント、本当にありがとうございました


返信する
闇の中にいるのが居心地がいいというのは、良くわかる気がします。 (みぎ)
2016-10-30 15:50:32
どうして、主に求め聞くことが出来ないのだろう。怖い想いを持っているのだろう。と思いを持ちながらこの、記事に辿り着きました。タイトルの通りなんですが、私がまさに昔の古い習慣と言いますか、何か見れない弱さを武器にして、何かにつけこんで逃げているような気がしてならないのです。
 火で焼きつくして頂くしかありませんが。。すごいクリーンヒットするみことばが沢山ありました。ありがとうございます。
返信する

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事