神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神を喜ぶことは、あなたがたの力だから。-【6】-

2015年12月11日 | キリスト教
【磔刑図】アンドレア・マンテーニャ


 確か、わたしがまったく無神論だった時のことだったと思うのですが、道にぱらぱらと蟻んこ☆が歩いているのを見て、こう考えたことがあります。今わたしがこのたくさんいる蟻の一匹を取りあげて、そのうちの足の一本を引き抜いたとしても――次の日には自分がそんな<残酷なことをした>のをすっかり忘れているように、神さまにとっても人の悩みなどはそんな程度のことに違いない、と

 何分、この地上には今七十億くらい人間が存在しているそうですし、そのひとりひとりの願いごとや祈りを神さまが聞かれるというのは、どう考えても物理的に不可能ではないか――と思ったということもあり、この時にわたし、<神さまは存在しない>、あるいは仮にいたにしても<宇宙の彼方に創造主として存在しているだけ>であって、直接地球上の人間ひとりひとりに関心を持たれることはないとか、何かそうした存在なのだろうと、勝手にそう決めることにしました。

 小さい時から誰にそう教えられたわけでもないのに祈ることが好きだったように……大体わたしと同じようなある種の<宗教的傾向>が強いという人は、もしかしたら案外多いかもしれません。

 すべての人間には、自然と<神さまのことを求める心>が備わっていると思うのですが、ここには宗教的文化圏といったものが当然深く関わってくるものだと思います。たとえば、わたしの両親がもし葬式仏教徒でなく、熱心なクリスチャンであったとしたら、わたしは最初からイエス・キリストこそ主と信じていたでしょうし、またイスラム教の文化圏に生まれていたら、今ごろ命の危険も顧みずイラクやアフガニスタン、あるいはシリアにでも直行していたかも知れません。

 わたしはイスラム教について明るくないのですが、それでもワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んで以降、何故実行犯たちがああしたことをするに至ったのかと思い、本を読んだりして調べていたことがあります。その結果、わたしが思ったのはイスラム教ってよく出来てるなあ……ということだったでしょうか(^^;)

 いえ、幼少時よりこうしたことを叩き込まれたとすれば、わたしと同じように小さい頃から<宗教的傾向>が強くてイスラム教を信じていた場合、原理主義とか過激派と呼ばれる人々が生まれるのは、なんの不思議もないことだと思いました。

 でも実際は、わたしは日本っていう宗教的に<かなり曖昧な国>に生まれました。そして、わたしのまわりにはキリスト教を信じていたりするような人はひとりもいませんでしたし、ただ慣習的に形骸化した仏教を信仰しているといった感じだったと思います。

 ええと、一応誤解のないように付け加えておくと、わたし、思想的に仏教ってとても好きです。けれど、キリスト教徒として聖霊の恵みを日々受けている以上、これから先突然仏教に改宗したりですとか、仏教とキリスト教の思想を融合させたものこそとても素晴らしい宗教である……みたいには絶対にならないと思うんですよね(^^;)

 ただ、もともと宗教的傾向の強い子供だったので、仏壇の前で祈ったりとか、お供えものを有難がったりだとか、お焼香をしている時に宗教的気分を味わいつつ、どこか神聖な気持ちに浸ったりするのが大好きでした。なので、同じ理由でお墓参りをするというのが小さい頃から好きでしたし、お寺へ行ったり出来る機会があると同様の理由からとても幸せな気持ちになりました。

 わたしが小学一年生だった頃、学校へ行く帰り道でいつも、遠くに仏舎利塔が見えたのですが、遠くのその塔を見てとても幸せな気持ちだったのをよく覚えています。何故といってそこに神さまがおられるように感じていたので、いつかあの塔のそばまで行って神さまに<本当のお祈りがしたい>と子供心にも考えていました。

 ところがですね……その後、学校の社会見学というのか、何かそうした授業で、その仏舎利塔まで行くことが出来たのですが、その場所はどうもわたしが考えていたのとは全然違う場所だったようなのです(^^;)

 遠くから見えていた真っ白な塔は、実は戦没者記念碑であり、確かに仏陀の骨の一部が収められてはいるそうなんですけど、一般的にそのあたりの人たちには心霊スポットとして超有名な場所だということでした

 いえ、何を言いたいかおわかりいただけますでしょうか。日本にはクリスチャン人口が少ないだけでなく、真実のクリスチャン、本当のクリスチャンの人口が少ないせいで、わたしのように「本当の神さまを本当に求める気持ち」が仮にあったとしても、そう容易にイエスさまにまで導かれるわけではない……むしろ、そこに辿り着くのはかなり困難な状況にあるということなんです。

 そう考えた場合、わたし自身はかなりラッキーなほうだったような気がします。何故かというと、キリスト教を名乗ってはいても、実質的にはそこからズレてしまっている教会、あるいは正統的な教えを正統的に守ってはいるけれども、聖霊さまの力が弱い教会、あるいは神さまから言葉を受け、聞き従うことを行っていない教会といったところに導かれたわけではなく、神さまからの恵み、祈ることや聞き従い、聖霊さまの臨在といったことをとても大切にしている教会に導かれることが出来たので。

 わたしが救われたのは、主の十字架クリスチャンセンターという教会だったのですが、グーグルで検索してみると、<主の十字架クリスチャンセンター・カルト>といったように出てきます(笑)なので、もうそれだけでも「きっとおかしな宗教団体に違いない」と思う方は一般の方の中には多いかもしれません。けれど、わたしがその後同じプロテスタントでもまた少し流派の違う教会――福音派・ルーテル派・バプティスト派・メソジスト派の教会などに行ってみたところ、聖霊さまの臨在が一番強かったのは、最初に救われることの出来た主の十字架クリスチャンセンターでした。

 もちろん、あなたのたまたま行かれたところがそうだったのだろう……と思われるかもしれませんが、以前書いたように、<信仰の実を実際にもぎ取って食べている教会>に通うのと、毎週礼拝を守り、献金もし、聖書研究会にも出席して祈祷会の集まりでも祈っている……けれど何故か信仰の実を取って食べることがない、あるいは少ない教会というのが間違いなくあると思います。

 もし後者の教会に通っていたとしますと、たとえば人生上の困難や問題にぶち当たった時、まるで葦が折れるように信仰が簡単に折れてしまうということがあると思います。たとえば、自分や近親者がガンなどの深刻な病気になったり、交通事故や不慮の事故等に遭ってしまった時など、「何故神さまがいるのなら、△△は□□じゃないんだ!!」といったように、神さまがいてもいなくても関係のない世界に簡単に逆戻りしてしまうことさえあるかもしれません。

 もちろんわたしも、イエスさまのことを受け容れて信じ、聖霊のバプテスマを受けたあとも色々ありました。実際、「真実の神さまを信じ、祈り感謝し、喜んでもいるのにどうして……」ということは、人生上に必ず起こってきます。それではここで、マーリン・キャロザースさんの『讃美の力』より、<第五章 雀が地に落ちる時>から引用したいと思います。


 >>「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」

(マタイの福音書、第10章29~31節)

 私たちの天の父はすべての雀の一羽一羽を残りなく見守り、私たちの頭の毛の数をも数えておられると、イエスは弟子たちに言われたのです。それでもなお、雀が地に落ちるという事実は変わりありません。不幸が私たちにも起こります。無邪気な小さい子供が、酔っぱらい運転の車にはねられて死にます。愛する者がガンにおそわれ、熱心な祈りにもかかわらず死んでいきます。

 神には、そうしようと思えば、雀の落ちるのを未然に防ぐことができたのでしょうか。悲劇を、子供の死を、ガンの広がりを未然に防ぐことができたのでしょうか。

 神は、それを防ごうど思えば、そうできる力を持っておられると私たちの多くは信じています。では、何故神は善に対して悪が勝利していると思えるようなことを許しておられるのか。この問題に私たちは直面するのです。

 これについて私たちは、神が無感覚、無関心、不公平な方であるという結論を出すことがあります。あるいは、そのような災難の犠牲者が苦しむのは、本人の罪かだれかの罪のためであると考えます。この二つの結論は両方とも、聖書の「よき知らせ」すなわち福音とは全く相反するものなのです。聖書は、神は愛であり、神の恵みを受けることのできる資格は、私たちが善良な人間となることではないと教えています。

 もし私たちが、あらゆる出来事に例外なく神が責任を取られるとは限らないし、また、神は人間の苦しみに無関心な場合もあると考えるなら、すべての事について神を讃美するということは不可能です。

【中略】

 悪い状況のことで神を讃美するということは、私たちが悪に賛成するとか、悪を悪のゆえに受け入れるということを意味するのではありません。パウロは苦難をも喜ぶと言いました。それは苦難そのもののためではなく、苦難の中で、苦難を通して神が働いておられることを知っていたからでした。その意味においてのみ、私たちも悪い状況を神に感謝するのです。

 悪が存在するゆえにこそ、神はひとり子をつかわし、十字架につけられたのです。それはみ子を信じるすべての人の中の悪の力を砕くためでした。

 もし私たちがこの事を自分自身で固く信じ、周囲に起こる明らかによくないと思える状況のことで神を讃美するならば、すべての困難な状況、すべての悲劇は神のみ手によって変えられていくのです。私はそれを確信しています。

 私がこのように言いますと、多くの人は、自分の目によいと思える方向に神は状況を変えてくれるのだと早合点してしまうのです。しかし、私の言おうとしていることはそうではありません。

 私たちが悪い状況や悪い状態を全く神に明け渡し、そのことを神に感謝し、神を讃美する時、神の力がその状況に根ざしている悪の力の企てと計画を変更し、無効にし、うち破り、神のもともとの完ぺきな企てと計画に合うものに変えてしまうのです。

 私たちには神のご計画が分からず、それが自分の益となると判断できないかもしれません。しかしそのことで神を讃美する時、神の力が解放され、その状況が私たちの益となるように働くのです。

(「讃美の力」マーリン・キャロザースさん著、浜崎英一さん訳/生ける水の川出版より)


 わたしがマーリン・キャロザース先生の本を開いてみたところ、太線のところにちょうど鉛筆で線が引いてありました(笑)

 そしてこの箇所を読み返すたびに、何故自分がここに線を引いたのかがよくわかります。マーリン先生のこの本のタイトルは『讃美の力』で、副題が『神の力を体験する道』となっているんですよね。

 同じクリスチャンであっても、人生上の悩み・苦しみにぶつかった時に行き詰まり、自殺されてしまう方がいる一方で、同じような境遇に遭遇しても、神を喜び讃美することで、状況に打ち勝つ力が与えられる……その差というのは、マーリンさんのこの教えを知っているかどうかだけで雲泥の差となって現われてくるものだと思います。

 ただ、『あらゆる問題を神さまに委ね、祈り感謝し讃美する』ことを行った数時間後や翌日にすぐ効果のあることもありますが、わたし個人の問題に関しては、多くの場合解決までにとても時間がかかりました。というより、わたしたちが想定するような、騒音のうるさい隣人が明日引っ越せばいいのにと願って翌日そうなるといったようなことは、まず少ないケースだといっていいでしょう。それよりも、神さまは騒音に神経を集中させるのをやめよ、と聖霊さまを通して導かれるかもしれませんし、偶然臨時収入があって自分のほうが引っ越すことになり、その際「神さま、み心の住居を与えてください」と祈っていたところ、びっくりするような値段で、びっくりするような好条件のいい場所へ引っ越すことになるかもしれません。

 おわかりいただけるでしょうか……自身に与えられている困難や問題が解決に至る場合でも、その人によって解決法が違いますし、この<隣人の騒音>を例にとってみますと、ずっと祈っていたら、三か月後に隣人が出ていったということもありえるでしょうし、問題の解決が<いつ>ということは大抵わたしたちの側にはわかりません。そしてそのことで「一体いつまでこんなことが続くのでしょう」とわたしたちの側ではやきもきすることがあまりに多すぎるのです。

 ちなみに、引越しや住居に関することでは、わたしも神さまに良い場所を与えていただいたことが何度もありますし、これと同じ信仰の証をお持ちの方はとても多いと思います。そしてわたし自身に関していえば、問題が実際に解決へ至ってしまうと「ああ、あんなにやきもきして神さまをせっつくような祈りをするんじゃなく、もっと神さまにすべてを委ねて感謝すべきだった」とあとから思うことがとても多かったです(^^;)

 もしわたしが、キリスト教を信じて聖霊のバプテスマを受けることがなかったとしたら――また、マーリンさんのこの<感謝と讃美の教え>について知らなかったら、わたしもまたクリスチャンでありながら不平不満の壁に囲まれて『キリスト教の神にはなんの力もない』と絶望していたかもしれません。

 そして、物心のついた四歳くらいの時から自分なりに神さまの道を模索し探求し、一時は無神論となって自殺することすら考え……というところから、わたしはなんと素晴らしく天に近いほうの地べた(?)にまで這い上がってきたことだろうと思うのです。

「神さまは本当に祈りに答えてくださる」ということを体験しはじめることの素晴らしさ、このことをもっと多くの人に知ってもらうためにはどうしたらいいのか、この神さまの恵みを体験する道を、本当にもっともっと多くの方に知っていただきたいと願い、今日も祈る日々です。

 それではまた~!!
 
 



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神を喜ぶことは、あなたがた... | トップ | 地獄の実在性。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事