神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

決して味わえぬ、という人生。

2019年11月23日 | キリスト教
【怠け者の天国】ピーテル・ブリューゲル


 先日、とあるテレビ番組で……といっても、一体どういったルールによるものなのかはわからないのですが、一軒のお店で決められた時間内に食事をし、また次のお店へ移って急いで食事をし、さらに三軒目のお店に走って行き、そこでも何故か急いで食事――といった場面を見ました

 番組に出ていたのはお笑い芸人さんだったので、そうすることで視聴者から笑いをとる……といった主旨だったと思うのですが、たぶんゴールデンの時間枠に同じことをやった場合、間違いなく苦情の電話が来るんじゃないかなって思ったりしました

 昔から、大量のパイを顔にぶつけるなど、そうしたコントがゆきすぎた場合は、テレビ局の電話がじゃんじゃん鳴ったらしいのですが――ここではそうした、「食べ物の無駄」といったことを何か書きたいわけではなく(^^;)

 ただ、テーブルを囲ってる芸人さん自体、食事そのものを全然楽しんでないというか、途中からはすでにもうお腹もいっぱいなんだろうに、さらにハンバーグ食べていたりとか、何かそんな感じで。。。

 しかもこのお店っていうのがすべて、とても美味しいと評判なお店だったりオシャレな人気のお店だったりするんですよね。にも関わらず、のんびりゆっくり食事が出来るわけでもなく、急いで時間内に食べて、次の場所へとせかせか移動

 正直、見ていてそんなに面白いとも思えない感じだったのですが、それよりもわたしが思ったのは、何か別のシュールな笑いというか、そうしたことについてだったかもしれません(^^:)

 つまり、どういうことかというと……「人生ってほんと、そんなところがあるなあ」と妙にしみじみしてしまったのです。


 >>なまけ者は手を皿に差し入れても、
 それを口に持っていくことをいとう。

(箴言、第26章15節)


 という言葉が旧約聖書にありますが、テレビに出ておられた芸能人さんはいいと思うんですよ(^^;)物凄く忙しく働いておられる方ばかりだし、十分味わえないくらい美味しいものを色々食べていても、それだって「お仕事」なんですし、そうしたことをディスリたいわけでもなんでもないのです。

 そして、この箴言の人物はなまけものすぎて、皿を口元に持っていくことさえしていないわけで、ある意味羨ましい身分ですよね。だって、もしお腹がある程度満たされていなかったら、これは生じえないシチュエーションなわけですから。

 今回のタイトルは、「決して味わえぬ、という人生」というものですが、お腹がすいていて、テーブルの上のご馳走も目にしているのに、それを手にしてその形状をじっくり眺め、香りをかぐことも出来るのに、唯一食べることだけが出来ない――ある意味、こうした「幸福のモデル」というものが誰の頭の中にもあって、それはわかりやすく言い換えるとしたら「人生の成功」ということでもあるかもしれません。

「ああ、神さま。それを潤沢に、贅沢なほどたっぷりとお与えください、なんて言うんじゃないんです。ただ、ほんのぽっちりでいいからわたしの人生にも成功と幸福をお与えください」……もしかしたらわたしたちが、他の方のためにとりなしの祈りをしたあと、自分のために祈ろうという時、それは言い換えるとこのように祈っているということなのかもしれません(もちろんそれがいけないとか悪いということではまったくなく^^;)

 ただ、若い頃はともかく、ある程度歳を重ねていくと、「人生のメニューは自分では選べないものらしい」と感じるようになっていく方というのは、実際のところ多いのではないでしょうか。

 これはあくまでたとえですが、わたしなど、すでに毎日選んでいるメニューは一択、せいぜいあっても2~3択もメニューがあればいいほうかな、といったような人生です(笑)

 つまり、「他にないので飽きるでもなく毎日それを食べ、でも、食べる物があるだけでも感謝しなくちゃ」というのにも近いような人生かもしれません。いえ、本当に心から感謝しているので、何か神さまに文句を言いたいわけでもなんでもなく、昔、メニューに食べられるものが何もなかったり、ただ<水道水>としか書かれてなかった時代もあったことを思えば――今の状態でも、十分満ち足りているとさえ感じています。

 ただ、世の中の方全般というのは、基本的に違うとは思います。それに、メニューに何か食べられるものが載っている日もあれば、載っていない日もある……という方もきっといらっしゃることでしょう。わたしの場合、メニューに何か載っていることだけは間違いないと確信しているので安心ですが、「今日は食べられるものが載ってるかもしれないし、載ってないかもしれない」といった場合、毎日がとても不安で堪らないと思うんですよね。

 けれど、メニューにはたくさん色々な品目が並び、そこから自由に色々選べるにも関わらず、もうすでにそれが当たり前の状態で、いつも好きなものを食べられるのだとしたら、わたしもいつしか手のひらに持った皿を口元まで持っていかなくなる可能性というのはあると思っていて(^^;)

 そして、ある種の崩壊と言いますか、そうした予兆というのは、大体のところこの次にやって来る……というのがあると思います。つまり、今まで通りテーブルの上にはたくさんのご馳走がある、けれども何故か口元へ持っていくことは出来ないという、一種の精神的飢餓と言いますか、何かそうした状況のことです。

 でも、そこまで意地悪な状況を自分の人生に招くというよりも――一般的にはもっと、「自分の食卓はいつもつましいけれど、どうしてお隣さんはあんなに豪華なものばかり食べられるんだろう?あの人とわたしとで、一体何が違うっていうのかしら?」といったような、人が幸福とか成功といったことに対して感じる物思いというのは、そうした種類の場合が多いのではないでしょうか。

 先日、<会食恐怖症>についての本を某本屋さんで見かけたのですが、この言葉は随分前にテレビで聞いたことがありました。つまり、人と一緒に食卓を囲って何か食べることに対し恐怖感を持つという神経症のようです。

 誰かと一緒に食事をする間、自分の食べ方や飲み方などがおかしくないか、不自然でなく会話できているかどうかなど、そうしたことが気になるあまり、人と食事する場面を避ける、そのことにたとえようもなく強いストレスや恐れを感じる方が、思った以上にたくさんおられる……ということでした。

<便所飯>という言葉が昔(今も)あったと思いますが、そうした方にとっては誰かと食事をするくらいなら、トイレで隠れてひとり何か食べたほうが遥かに気楽、ということになると思います。

 それで、ですね。「家族や友達など、ある程度親しい人となら平気」という方もおられれば、「友達でさえ無理」、「家族とだけしか食事は楽しめない」、「いや、家族とすらも最近は……」という方など、症状の重さは違いがあるにしても、とにかくビジネス・ランチや飲み会へ行くのがそのくらいつらい――となると、普通に社会生活を営むのが非常に困難になると思います。

 食事って、やっぱりあらゆることの基本ですし、職場でそれほど仲が良くない人と飲み会で仲良くなったり、行きたくなかった食事会だったけど、行ってみたら案外楽しくて、その後職場内での人間関係も好転した……みたいなことって、よくあると思うんですよね(^^;)

 神経症というのは、ようするにノイローゼのことですから、この会食ノイローゼの方にとっては、会食や飲みの席への誘いは地獄への招待状にも近いところがあり、その日の来るのが何日も前から憂鬱だったり、実際に会食の場ではカチンコチンに緊張していて味などまったくわからない、でも、周囲に合わせて無理をしながらニコニコ笑い、「いやあ、美味しいねえ」と一生懸命演技しなくてはならない――ようするに、本来であれば楽しい食事の場が、会食恐怖症の方にとっては針のむしろ、「早くこの苦痛が終わって欲しい」としか思えない場だったりするわけです。

「え!?そんなことで悩んでるの、わたしだけかと思ってた……」という方のために、<会食恐怖症>でググってみることや、あまぞんで検索すると関連した本が出てくると思いますので、是非参考にしていただきたいと思いますm(_ _)m

 でも、会食恐怖症でなくても、上司や同僚との飲みの席や旦那さんの実家での食事会など、「想像しただけで憂鬱☆」というシチュエーションのない方はいらっしゃらないと思いますし、それがほぼ毎日あるのがどんな感じか――と想像した場合、ひどい場合は鬱病になったり、そのことが原因で会社を辞めて引きこもりに……ということも当然あるので、心療内科などになるべく早期に相談されることをお勧めしたく感じます。

 それで、ですね。かつては多少「嫌いだな」、「好きじゃないんだよな、この人」と感じる方との食事の席でも、「まあ、ちょっと我慢すればいいだけよね」くらいで昔は済んでいたストレスが、耐えられない重圧に変わっていくように――これに似た精神的な地獄のようなものを、確かに自分も持っている……ということに心当たりのある方は多いのではないでしょうか。

 それは、皿の上に自分の食べたいものが乗っているのに何故か口元へ持っていくことは出来ないというような苦しみであり、他の人たちは当たり前のように食べたいものを銘々食べたり飲んだりしていてとても楽しそうなのに、自分だけはそう出来ないといったようなことです。過去に一体どんな罪を犯したから自分は今こんな目に遭っているのだろうと思うわけですが、こうした魂・精神・心の危機にある時こそ、人というのは<神>さまのことについてもっとも深く求めはじめるところがあると思うんですよね。

 まずは、「何故こんな呪いのような悩みを神は与えたのか」ということでヨブ記のヨブのように神さまに文句を言ったり怒りを発したりするにしても、イエス・キリストの十字架を信じることに解放の鍵があるというのは本当のことです。

 教会でそうした神経症の症状からの癒しと解放を祈っていただき、実際に霊肉ともにそうした縛りから解放される場合もあるでしょうし、あるいはなんらかの形で<寛解>の状態に達するなど、少なくとも「信じる前も信じたあともまったく同じ」ということだけは(聖霊を受けたなら)ないと思うのです。

 ただ、わたしもお証しなどで統合失調症や鬱病の方の病いの解放と癒しについては聞いたことがあっても、「神経症が癒された」という話は聞いたことがなかったりします(^^;)

 鬱病の場合は統計を取ると、十年後の調査で8割くらいの方は良くなっていることがわかっているそうですが、神経症のほうは十年後で良くなってる方が2割……ということでしたから、これはかなり厳しい数字です。また、日本で現在社会問題になっている引きこもりについていえば、その中の多くの方がおそらくは社会不安障害といった神経症を持っておられるのではないかと思うんですよね。

 神経症の症状として、なんらかのシチュエーションにおいて強い不安や恐怖感を感じ、そこに拘りを覚える、といったことがあると思うのですが、病院でカウンセリングを受けたり薬を飲んだりしても症状が改善しないといった場合、教会で祈っていただくことで解放を受ける場合もある――藁にもすがるの、そのワラが教会にあるということを知っていただけたら……と願っています

 それではまた~!!






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