神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

サラの鍵。

2024年05月23日 | キリスト教

(※映画「サラの鍵」に関して、重要なネタバレ☆があります。一応念のため、ご注意くださいm(_ _)m)

 

「サラの鍵」という映画を見ました

 

 映画の内容的に「面白かった」という言い方は不謹慎かもしれないのですが(汗)、それでもやっぱり自分的には映画として「面白い」と思った、というのが事実かもしれません。。。

 

 >>ナチスが目前に迫るなか、少女は弟を納戸に隠し、鍵をかけた。

 1942年、ナチス占領下のパリで行われたユダヤ人迫害。それから60年後、ジャーナリストのジュリアは、アウシュビッツに送られた家族について取材するうちに、収容所から逃亡した少女サラについての秘密を知る。サラが自分の弟を守ろうと、納戸に鍵をかけて弟を隠したこと。そして、そのアパートは現在のジュリアのアパートだったこと。時を超え、明らかになった悲しい真実がジュリアの運命を変えていく――。

 

 これはわたしの想像にしか過ぎないことですが、ナチス占領下のパリやフランスで生きた人々にとって、その時起きていたこと(ユダヤ人やその疑いのある人々に行ったこと)は戦後、「なかったこと」として消し去ってしまいたい記憶でしかないのではないでしょうか。

 

 タイトルの「サラの鍵」というのは、フランス警察がやって来た時、せめても弟だけでも助けようと、十歳の少女サラがアパートの部屋の納戸に弟を隠し、鍵をかけたというこの鍵のことを指しています。でも、他の意味合いとしておそらく、「開きたくない記憶の扉の鍵」といった意味も含んでいるんだろうなと、自分的にはそんなふうに感じました

 

 その~、人から薦められて見たものの、そんなに詳しく内容について聞いたわけでもなかったので、実はわたし、割と楽観的な気分で見はじめたようなところがあって。「アンネの日記」がそうであったように、結局のところ家族の全員がアウシュビッツに送られて終わる……そうした悲惨な終わり方もありうる、ということは頭の隅のほうには一応ありました。でも、事態はそこまで最悪ではなく、もう少し救いがあるのではないかと……そこに多少希望をかけつつ見ていたような気がします。

 

 わたし自身、映画の中に出てくる若い人がそうだったように(あ、わたしはもう若くないおばさんだけど・笑)、占領下のパリであったという「ヴェルディヴ事件」というその名前すらまったく知りませんでした。ヴェルディヴというのは当時そこにあった競輪場のことで、そこに1万3千人以上ものユダヤ人を集め、その後男性や女性、子供といったように分け、アウシュビッツ送りにしようとした場所。

 

 サラのお父さんとお母さんは、このことがはっきりすると、息子をアパートに置いてきてしまったと思い、なんとか家族全員一緒になれまいかと考えますが、結局のところそれぞれ離ればなれにされてしまいます。サラは仲のいい弟のことを自分が置き去りにし、しかも鍵をかけてしまったことから――子供だけ集められた収容所のほうからどうにか抜け出し、弟のことを救おうと、そのことばかりを考え続けます。

 

 収容所で友達になった女の子とふたり、逃亡に成功しますが、逃げる途中でラシェルは具合が悪くなり、その後ジフテリアによって彼女は死亡してしまいます。サラはその時助けてくれた家のおじいちゃん・おばあちゃん(といってもたぶん、六十代くらい)に助けられ、パリの元住んでいたアパートのほうへ戻りますが……わたしが想像していたのは、弟がなんらかの理由によって「すでにそこにいない」ということでした。この場合、その後探しに探したにも関わらず、サラのお父さんもお母さんもそうだったように、弟もまたアウシュビッツ送りとなり、そこで死亡した――というのが最悪の結末なのではないかと。

 

 でもある意味、事態はそれよりも悪かった。サラはこのことでおそらく、「自分が弟を殺したのだ」という逃れようのない罪悪感を一生背負って生きていくことになり……映画のタイトルは「サラの鍵」なのですが、たぶん主人公のほうは、この六十年後の時代を生きるジャーナリストのジュリアという女性のほうなのだと思います。

 

 ジュリアは自分の引っ越してきたアパートが(元は夫の両親のもの)、このサラたちスタルジンスキ一家が住んでいた場所だったことを知り、サラがその後どうしたかについて、取りつかれでもしたように追っていきます。また、スタルジンスキ一家に起きたことは、同じように悲惨極まる不幸が起きた一家というのは――当時は数え切れないほどあったということ、そのことも忘れてはいけないと感じました。

 

 果たしてその後、サラがどうしたか、ジュリアはその答え、彼女の人生の行く末に辿り着くのですが、見ている側は誰しも「どんな形であれ、サラのその後が幸せであったように」と願わずにはいられません。また、ジュリアはジュリアで妊娠したことがわかったものの、夫からは「もう今の年になって子育てだなんだ、俺はごめんなんだ」といったように言われ、出産については反対されています。夫妻の間にはすでに十代になる年頃の娘さんがいるのですが、最初の出産ののち、不妊治療をしたり流産したことがあったりと、ジュリアとしては高齢出産でも生みたい気持ちのほうが強いわけです。ジュリアは夫との関係が普段から悪いということもなく、旦那さんは優しい人でもあるようなのですが、この件については夫婦の間で意見が一致しない。

 

 このあたり、「今のこの年になってまたオムツ替えたりだなんだ、俺は嫌なんだ」という気持ちは、あくまで映画として見る分には、旦那さんの気持ちもわからなくはありません。でも、ジュリア夫妻は共働きで裕福なほうのようなので(この中国との件がまとまったら、一生遊んで暮らせるくらいの金が手に入る、といった旦那さんの話もある)、それならもうひとり今からいても……と思ったり、何より不妊治療のつらさその他に長く耐えた過去のあるジュリアの気持ちを思うと――なんとも言えないところがある、というか。

 

 今からずっと前に生きていた(といっても、そんなに前ということもない)ひとりの女性の人生が、その後他の人の人生も変えうるということ、またその生きた人生そのものが、記憶されて残り続けるということ……それが鍵の開かれた扉の奥にあったものだった――といったようにも感じる映画だったと思います。

 

 なんにしても、「サラと弟がその後どうなったか」が気になるあまり、わたし的には一気に最後まで見てしまうタイプの映画でした。。。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 

 


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