【知恵の木】ルーカス・クラナッハ
『マクベス』の話は前回一度きりにしようと思ってたんですけど、原作のほうを読んだら、またぐるぐる☆考えてしまうことが色々あって、ちょっとそのことについて書いてみたいと思いました(^^;)
というのもですね、最初に魔女三人が出てくるわけですが、彼女たちのマクベスを騙すやり口というのは、聖書の創世記に出てくる蛇(サタン)と一緒なのです
彼女たちは、突然霧の中から現れて、マクベスに「コーダの領主になる」ということ、それに「スコットランドの王になる」ということとを予言します。そして、その時一緒にいた戦友のバンクォーには、彼の子孫がスコットランドの王になると予言したのでした。
そして、このあとすぐにマクベスは、自分がコーダの領主として任じられたことを知り、魔女の予言が当たったことに驚くと同時に――「では、スコットランドの王になるという予言も当たるのではないか?」と思うことになるんですよね。
もちろん、マクベスとて馬鹿ではありません。ここがまたシェイクスピアの筆の妙なるところと思うのですが、彼は原作の中で登場人物たちにこう語らせています。
マクベスには「運で王になれるものなら、手をくださなくても、向こうから舞いこまぬでもあるまい」と言わせ、またバンクォーには「そんなことを本気にすると、コーダの領主どころか、王冠にまで手を出したくなるぞ。が、不思議だな、そういえば、よくあること、人を破滅の道に誘いこもうとして、地獄の手先どもが、ときには真実を語る、つまらぬことで御利益を見せておいて、いちばん大事なところで打っちゃりを食わすという手だ」とも語らせているんですよね(^^;)
確かに、魔女の予言のひとつである、「コーダの領主になる」という言葉は即座に成就はしました。でも「スコットランドの王になる」という予言については、マクベス自身が魔女の予言をそうと信じて――というのか、自分の都合のいいように解釈して、ダンカン王を殺害してその地位を強奪したわけです。
もっとも、ダンカン王殺害については、マクベスに対して少しばかり同情しなくもありません。
というのも、彼ひとりではおそらくそのような強行に及ぶことは出来ず、マクベス夫人の巧みなそそのかしがあってはじめて、マクベスはそのような神をも恐れぬ所業を成し遂げることになったのでしょうから……。
創世記で蛇(サタン)は、エヴァに対してこうそそのかします。「善悪の知識の実を食べてはいけないと、神はほんとうにそう言ったのですか」と……。人は自分の欲望に目が眩む時、神の声と自分の心の声、あるいはサタンの声とを聞き間違えやすいのではないでしょうか。
そしてこの時マクベスは、自分の心の声と愛する妻の声、それに魔女(サタン)の声とが混ざり合ったものに聞き従った結果、妻ともども地獄行きになるという苦い結果を生むことになってしまうのです。
わたしがマクベス夫人について連想するのは、旧約聖書に出てくるアハブ王の妻のイゼベルのことですが、それはさておき、アダムとエヴァとは、神さまの命令に背いた結果、エデンから追放されることになりました。けれど、彼らはまだ良かったと思うんですよね。罪を犯した結果、即座に地獄行きということではなく、地を耕し子を生むという別の神さまの命令に聞き従うことによって救われたのですから……。
けれど、マクベス夫妻にはダンカン王を殺害した時点で、地獄行きが定まっていました。いえ、もしダンカン王を殺したにしても――そのあと悔い改めていたら良かったのだと思います。そのことを心から深く悔い改めて、祖国スコットランドに善政を敷いてこれからは神を恐れて信仰心厚く生きる……というのだったら良かったのかもしれません(もっとも、マクベス夫人はそうしたタイプの女性ではありませんけども^^;)
これはわたしが個人的にそう思う、ということなのですが、ダンカン王殺害後、また戦友であるバンクォーは刺客によって殺されたあと、彼らは亡霊の姿となってマクベス、またマクベス夫人の元へとやって来ます。普通の人だったら、自分が殺害した人の幽霊が自分の元にやって来たとしたらどうでしょうか。
【バンクォーの亡霊】テオドール・シャセリオー
わたしだったら……あるいはおそらく他の人でも、「助けてくれェ、赦してくれェ!!」といったようになり、ガクブル震えて、それまであまり信仰深くなかった人でも、教会や寺院のようなところへ行って、成仏してくれるように、あるいは天国へ行ってくれるようにと祈ったり、あるいは司祭の方などに祈ってもらおうとする――そういうものなのではないでしょうか。
わたしが思うに、何故マクベス夫妻の元にすでに死んだはずの人々が訪れたのかといえば、それはふたりに悔い改めの最後のチャンスを与えるためではなかったかという気がします。もちろん、キリスト教的価値観に基づかなかったとすれば、こういう読み方には当然ならないわけですが、バンクォーについてもダンカン王についても、彼らは天国へ行ったとほのめかされているように感じられる場所がああるんですよね。
バンクォーについて言えば、マクベスが「もし貴様の魂が天国行きをお望みならば、どうしても今夜のうちに、その道を捜しださねば間にあわぬぞ」と言っている箇所があり、またダンカン王は「生れながらの温和な君徳の持ち主」と言われていることから、ふたりとも謀略により殺されたけれども、死後にその魂は天国へ行ったのではないかと思われるのです。
ところがマクベス夫妻は……そうした亡霊の存在を恐れつつも、悔い改めることはなく、ますます深い罪の世界へとその魂は落ちていくのでした。ふたりはあれほど望んだ王とその王妃という地位を手に入れたにも関わらず――マクベスは不安と疑心暗鬼とに苛まれ、またマクベス夫人はそんな夫の変わりように恐れを抱くようになり……権力の頂点について以後も、このふたりにはちっとも心の安らぎやこの世の楽しみ、幸福といったものはないのでした。
シェイクスピアの書いた四大悲劇と呼ばれる作品は、他に『オセロー』、『リア王』、『ハムレット』があるわけですが、わたし昔は『マクベス』が何故四大悲劇の一角をなしているのかが、少しわからなかったんですよね。でもクリスチャンになってから――これほどの悲劇はないということが、よくよく了解されるようになりました(^^;)
何故といって、マクベスは魔女たちにそそのかされる以前は(その内心はともかくとして)忠誠心厚い正義の男として世間一般から評価されており、その彼が魔女と妻のそそのかしによって臣下としても人間としての道からも外れた結果……王となり権力を手中にしてからは疑心暗鬼の暴君となり、そんな彼に絶望したマクベス夫人は次第に精神を病み、やがて死へと至ることになったのですから。
つまり、地上で最高の権力といっていい力を手にしながらも幸福を手にすることは出来ず、さらには死後にも地獄行きが定まっている――このことを悲劇と言わずして何を悲劇というのか、ということですよね
では、次回はマクベスの奥さんであるマクベス夫人のことについて、わたし的に思うことを少し書いてみたいと思います(^^;)
それではまた~!!
『マクベス』の話は前回一度きりにしようと思ってたんですけど、原作のほうを読んだら、またぐるぐる☆考えてしまうことが色々あって、ちょっとそのことについて書いてみたいと思いました(^^;)
というのもですね、最初に魔女三人が出てくるわけですが、彼女たちのマクベスを騙すやり口というのは、聖書の創世記に出てくる蛇(サタン)と一緒なのです
彼女たちは、突然霧の中から現れて、マクベスに「コーダの領主になる」ということ、それに「スコットランドの王になる」ということとを予言します。そして、その時一緒にいた戦友のバンクォーには、彼の子孫がスコットランドの王になると予言したのでした。
そして、このあとすぐにマクベスは、自分がコーダの領主として任じられたことを知り、魔女の予言が当たったことに驚くと同時に――「では、スコットランドの王になるという予言も当たるのではないか?」と思うことになるんですよね。
もちろん、マクベスとて馬鹿ではありません。ここがまたシェイクスピアの筆の妙なるところと思うのですが、彼は原作の中で登場人物たちにこう語らせています。
マクベスには「運で王になれるものなら、手をくださなくても、向こうから舞いこまぬでもあるまい」と言わせ、またバンクォーには「そんなことを本気にすると、コーダの領主どころか、王冠にまで手を出したくなるぞ。が、不思議だな、そういえば、よくあること、人を破滅の道に誘いこもうとして、地獄の手先どもが、ときには真実を語る、つまらぬことで御利益を見せておいて、いちばん大事なところで打っちゃりを食わすという手だ」とも語らせているんですよね(^^;)
確かに、魔女の予言のひとつである、「コーダの領主になる」という言葉は即座に成就はしました。でも「スコットランドの王になる」という予言については、マクベス自身が魔女の予言をそうと信じて――というのか、自分の都合のいいように解釈して、ダンカン王を殺害してその地位を強奪したわけです。
もっとも、ダンカン王殺害については、マクベスに対して少しばかり同情しなくもありません。
というのも、彼ひとりではおそらくそのような強行に及ぶことは出来ず、マクベス夫人の巧みなそそのかしがあってはじめて、マクベスはそのような神をも恐れぬ所業を成し遂げることになったのでしょうから……。
創世記で蛇(サタン)は、エヴァに対してこうそそのかします。「善悪の知識の実を食べてはいけないと、神はほんとうにそう言ったのですか」と……。人は自分の欲望に目が眩む時、神の声と自分の心の声、あるいはサタンの声とを聞き間違えやすいのではないでしょうか。
そしてこの時マクベスは、自分の心の声と愛する妻の声、それに魔女(サタン)の声とが混ざり合ったものに聞き従った結果、妻ともども地獄行きになるという苦い結果を生むことになってしまうのです。
わたしがマクベス夫人について連想するのは、旧約聖書に出てくるアハブ王の妻のイゼベルのことですが、それはさておき、アダムとエヴァとは、神さまの命令に背いた結果、エデンから追放されることになりました。けれど、彼らはまだ良かったと思うんですよね。罪を犯した結果、即座に地獄行きということではなく、地を耕し子を生むという別の神さまの命令に聞き従うことによって救われたのですから……。
けれど、マクベス夫妻にはダンカン王を殺害した時点で、地獄行きが定まっていました。いえ、もしダンカン王を殺したにしても――そのあと悔い改めていたら良かったのだと思います。そのことを心から深く悔い改めて、祖国スコットランドに善政を敷いてこれからは神を恐れて信仰心厚く生きる……というのだったら良かったのかもしれません(もっとも、マクベス夫人はそうしたタイプの女性ではありませんけども^^;)
これはわたしが個人的にそう思う、ということなのですが、ダンカン王殺害後、また戦友であるバンクォーは刺客によって殺されたあと、彼らは亡霊の姿となってマクベス、またマクベス夫人の元へとやって来ます。普通の人だったら、自分が殺害した人の幽霊が自分の元にやって来たとしたらどうでしょうか。
【バンクォーの亡霊】テオドール・シャセリオー
わたしだったら……あるいはおそらく他の人でも、「助けてくれェ、赦してくれェ!!」といったようになり、ガクブル震えて、それまであまり信仰深くなかった人でも、教会や寺院のようなところへ行って、成仏してくれるように、あるいは天国へ行ってくれるようにと祈ったり、あるいは司祭の方などに祈ってもらおうとする――そういうものなのではないでしょうか。
わたしが思うに、何故マクベス夫妻の元にすでに死んだはずの人々が訪れたのかといえば、それはふたりに悔い改めの最後のチャンスを与えるためではなかったかという気がします。もちろん、キリスト教的価値観に基づかなかったとすれば、こういう読み方には当然ならないわけですが、バンクォーについてもダンカン王についても、彼らは天国へ行ったとほのめかされているように感じられる場所がああるんですよね。
バンクォーについて言えば、マクベスが「もし貴様の魂が天国行きをお望みならば、どうしても今夜のうちに、その道を捜しださねば間にあわぬぞ」と言っている箇所があり、またダンカン王は「生れながらの温和な君徳の持ち主」と言われていることから、ふたりとも謀略により殺されたけれども、死後にその魂は天国へ行ったのではないかと思われるのです。
ところがマクベス夫妻は……そうした亡霊の存在を恐れつつも、悔い改めることはなく、ますます深い罪の世界へとその魂は落ちていくのでした。ふたりはあれほど望んだ王とその王妃という地位を手に入れたにも関わらず――マクベスは不安と疑心暗鬼とに苛まれ、またマクベス夫人はそんな夫の変わりように恐れを抱くようになり……権力の頂点について以後も、このふたりにはちっとも心の安らぎやこの世の楽しみ、幸福といったものはないのでした。
シェイクスピアの書いた四大悲劇と呼ばれる作品は、他に『オセロー』、『リア王』、『ハムレット』があるわけですが、わたし昔は『マクベス』が何故四大悲劇の一角をなしているのかが、少しわからなかったんですよね。でもクリスチャンになってから――これほどの悲劇はないということが、よくよく了解されるようになりました(^^;)
何故といって、マクベスは魔女たちにそそのかされる以前は(その内心はともかくとして)忠誠心厚い正義の男として世間一般から評価されており、その彼が魔女と妻のそそのかしによって臣下としても人間としての道からも外れた結果……王となり権力を手中にしてからは疑心暗鬼の暴君となり、そんな彼に絶望したマクベス夫人は次第に精神を病み、やがて死へと至ることになったのですから。
つまり、地上で最高の権力といっていい力を手にしながらも幸福を手にすることは出来ず、さらには死後にも地獄行きが定まっている――このことを悲劇と言わずして何を悲劇というのか、ということですよね
では、次回はマクベスの奥さんであるマクベス夫人のことについて、わたし的に思うことを少し書いてみたいと思います(^^;)
それではまた~!!
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