【蛇の聖母】カラヴァッジョ
それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、
エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。
イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。
それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。
また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みともにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫ぶのであった。
イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。
(マルコの福音書、第3章7~12節)
イエスさまは、悪霊を追い出し、癒しの業をされるのと同時に神さまの教えを民衆に説いていかれたわけですが、この「悪霊の追い出し」と「病人の癒し」については福音書にたくさんの言及があります。
キリスト教のある派の方々は、この「悪霊の追い出し」や「病人の癒し」といったことは、イエスさまの生きた時代にだけ起きたことで、現代に生きる我々には関係がない……といったように解釈すると聞いたことがあるのですが、イエスさまが生きた時代も今という現代も、実際はまったく同じであろうと思います。
たとえば、「あれはきっと何かに取り憑かれているに違いない」といった方というのは、現代でも間違いなく存在しますし、また、テレビのニュースなどを見ていても、「何かに取り憑かれてでもいなければ、こんなことが出来るはずがない」といった報道を数多く目にする機会があります。
もちろん、そうした方のすべてが「悪霊や何か悪いものに取り憑かれている」とは限らないかもしれません。けれどもそうした何か<悪いもの>の支配下に意識が置かれ、自分の人間的な意志の力ではどうにも出来ない……まるで「そいつ」に操られてでもいるかのように悪いことをしてしまう……といったことは、実際あるのだろうと思います。
そして、そうした方々にイエスさまが触れられ、その悪霊といった悪いものを追い出されたとしたら、その瞬間にその人が正気に返るというのは、事実本当に起きたことだったのだろうと思います。これは病人の癒しに関しても同様で、現代でも「イエスさまの御名によって祈るならば」、顕著な癒しの業が起きてくるというのは本当のことです。
ところで、今回使わせていただいた画像なのですが、幼な子イエスさまが聖母マリアさまと一緒に蛇を踏みつけるといった、「おかあさんといっしょ」的微笑ましい(?)絵となっております(^^;)
カラヴァッジョのこの絵を初めて見たのは確か、クリスチャンになってから……だったと思うのですが(たぶん)、もしキリスト教のことについてあまり理解しておらず、タイトルを見るでもなくただこの絵を見せられた場合――「赤ん坊が蛇を踏みつけることに一体なんの意味が??」とか、「子供にそんなことをさせて危ないじゃないか!」といったように思うような気がするんですよね。
もちろん、蛇といえば<悪魔>、サタンの象徴であり、イエスさまは幼な子ながら、すでにそれを足の下に置く権威がある……ということをこの絵は意味していると思うのですが、キリスト教徒の方は当然、
『主は私の主に言われた。
「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、
わたしの右の座に着いていなさい」』
という詩篇の言葉を思い出されるのではないかと思います。
もっとも、この絵だけを何気に見ると、
マリアさま:「さ、イエスや。蛇さんの頭をグリグリしましょうね。なんだったらそのいやらしい顔全部、一緒に踏み潰してしまいましょう」
イエスさま:「お母様、こんな感じ??」
聖アンナ:「そうそう、その調子ですよ。よく出来ましたね」
蛇:「うわーん。痛いよう、あうあう☆」
といったように見えなくもないのですが(^^;)、なんにしても、キリスト教の中では「人間単独の力によってでは、この悪魔、悪霊、サタンと呼ばれる存在に勝つことは出来ない」と大枠のところで教えているといっていいと思います。
たとえば、わたしは小さい時からアニメや漫画が大好きで、その中にはよく<悪魔>という存在が出てきたものでした。で、この悪魔という存在が美少女だったり美青年だったりして、キャラクターとしてすごく好きになるのですが、そうしたこととはまったく別に――現実的な悪魔とか悪霊といった存在は、漫画やアニメの中でのように、改心するであるとか、人間が戦って勝てるであるとか、そうした存在ではないんですよね
新約聖書には、イエスさまが悪霊の追いだしをするシーンが何度も描かれ、またこのイエスさまから権威を授けられたことにより、十二弟子も同じことが出来るようになっただけでなく、さらにはのちにペンテコステで聖霊さまが信者に下ることにより……「イエスさまの御名により頼むならば」、キリスト教信徒のひとりひとりが同じことが出来るようになる、ということなんですよね。
またイエスさまのなさった癒しの業については、聖書に百以上の言及があるとのことなのですが、こちらの癒しということについても、悪霊の追い出し同様「イエスさまの御名により頼むならば」、イエスさまのなさったのと同じ奇跡的な癒しが起こるといっていいと思います。
ただ、福音書の中にも、弟子たちの不信仰によって悪霊が追いだせなかったという箇所や、使徒行伝に面白半分(?)でイエスの御名によって(本当は信じていないのに)悪霊の追い出しをしたところ、むしろ痛い目を見た……という言及があるように、悪霊の追い出しも癒しの業も、基本的に教会の管理や権威の下でなされることが重要かもしれません。
癒しに関してならば、個人的に祈るということであれば何も害はないと思うのですが、悪霊関係については、教会の牧師さんであるとか、あるいは他の一般信徒の方々に相談したり、協力してもらうことが絶対必要です。また、もし「悪霊の追い出し云々なんてことはね、君、あれはイエスさまだから出来たことなんだ」といった考え方の教会であったとしたらば、悪霊関係のことについて理解のある教会へ相談するといったことが必要になってくるかもしれません(^^;)
なんにしても、カラヴァッジョのこの絵は――悪魔、サタンの頭を踏みつけることが出来るのは、神の子であるイエスさまだけ、ということを意味しているのだと思います。他の普通の人間が仮に同じことをしようとしたら、逆に足に噛みつかれ、非常な苦痛に苛まれることになったでしょう。そしてここにも、イエスさまが地上に来られたことの祝福と大きな意味を見出すことが出来ます。
つまり、それまでも地上はこの悪魔、またの名を<この世の神>である存在の支配下にあったわけですが、ただひとり、イエスさまだけがこの人間を苦しめる悪魔、サタンに打ち勝つ権威があり、彼の名を信じ縋る者にもまた……同じ権威が授けられるだけでなく、神さまの深い愛の守りの中で安らかに憩うことが出来る、ということなんですよね。
とはいえ、わたしもこうした存在にしょっちょう妨害・攻撃されますし、「イエスさまの御名を信じる者は守られるんじゃないのか!?」と、他のノンクリスチャンの方が嘲笑いたくなるような局面にはいつも遭遇しています。
でも、究極的に聖書の教えるところでは――いつまでも彼らの天下ということはなく、イエスさまがもう一度地上に再臨され、新天新地である神の国がこの世にやって来たとしたら、千年王国の訪れののちに、この悪魔、サタンと呼ばれる存在は完全に滅ぼされてしまうと、黙示録には書かれています。
それでは次回は、マルコの福音書の第3章より、続きをはじめたいと思いますm(_ _)m
ではまた~!!
それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、
エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。
イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。
それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。
また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みともにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫ぶのであった。
イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。
(マルコの福音書、第3章7~12節)
イエスさまは、悪霊を追い出し、癒しの業をされるのと同時に神さまの教えを民衆に説いていかれたわけですが、この「悪霊の追い出し」と「病人の癒し」については福音書にたくさんの言及があります。
キリスト教のある派の方々は、この「悪霊の追い出し」や「病人の癒し」といったことは、イエスさまの生きた時代にだけ起きたことで、現代に生きる我々には関係がない……といったように解釈すると聞いたことがあるのですが、イエスさまが生きた時代も今という現代も、実際はまったく同じであろうと思います。
たとえば、「あれはきっと何かに取り憑かれているに違いない」といった方というのは、現代でも間違いなく存在しますし、また、テレビのニュースなどを見ていても、「何かに取り憑かれてでもいなければ、こんなことが出来るはずがない」といった報道を数多く目にする機会があります。
もちろん、そうした方のすべてが「悪霊や何か悪いものに取り憑かれている」とは限らないかもしれません。けれどもそうした何か<悪いもの>の支配下に意識が置かれ、自分の人間的な意志の力ではどうにも出来ない……まるで「そいつ」に操られてでもいるかのように悪いことをしてしまう……といったことは、実際あるのだろうと思います。
そして、そうした方々にイエスさまが触れられ、その悪霊といった悪いものを追い出されたとしたら、その瞬間にその人が正気に返るというのは、事実本当に起きたことだったのだろうと思います。これは病人の癒しに関しても同様で、現代でも「イエスさまの御名によって祈るならば」、顕著な癒しの業が起きてくるというのは本当のことです。
ところで、今回使わせていただいた画像なのですが、幼な子イエスさまが聖母マリアさまと一緒に蛇を踏みつけるといった、「おかあさんといっしょ」的微笑ましい(?)絵となっております(^^;)
カラヴァッジョのこの絵を初めて見たのは確か、クリスチャンになってから……だったと思うのですが(たぶん)、もしキリスト教のことについてあまり理解しておらず、タイトルを見るでもなくただこの絵を見せられた場合――「赤ん坊が蛇を踏みつけることに一体なんの意味が??」とか、「子供にそんなことをさせて危ないじゃないか!」といったように思うような気がするんですよね。
もちろん、蛇といえば<悪魔>、サタンの象徴であり、イエスさまは幼な子ながら、すでにそれを足の下に置く権威がある……ということをこの絵は意味していると思うのですが、キリスト教徒の方は当然、
『主は私の主に言われた。
「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、
わたしの右の座に着いていなさい」』
という詩篇の言葉を思い出されるのではないかと思います。
もっとも、この絵だけを何気に見ると、
マリアさま:「さ、イエスや。蛇さんの頭をグリグリしましょうね。なんだったらそのいやらしい顔全部、一緒に踏み潰してしまいましょう」
イエスさま:「お母様、こんな感じ??」
聖アンナ:「そうそう、その調子ですよ。よく出来ましたね」
蛇:「うわーん。痛いよう、あうあう☆」
といったように見えなくもないのですが(^^;)、なんにしても、キリスト教の中では「人間単独の力によってでは、この悪魔、悪霊、サタンと呼ばれる存在に勝つことは出来ない」と大枠のところで教えているといっていいと思います。
たとえば、わたしは小さい時からアニメや漫画が大好きで、その中にはよく<悪魔>という存在が出てきたものでした。で、この悪魔という存在が美少女だったり美青年だったりして、キャラクターとしてすごく好きになるのですが、そうしたこととはまったく別に――現実的な悪魔とか悪霊といった存在は、漫画やアニメの中でのように、改心するであるとか、人間が戦って勝てるであるとか、そうした存在ではないんですよね
新約聖書には、イエスさまが悪霊の追いだしをするシーンが何度も描かれ、またこのイエスさまから権威を授けられたことにより、十二弟子も同じことが出来るようになっただけでなく、さらにはのちにペンテコステで聖霊さまが信者に下ることにより……「イエスさまの御名により頼むならば」、キリスト教信徒のひとりひとりが同じことが出来るようになる、ということなんですよね。
またイエスさまのなさった癒しの業については、聖書に百以上の言及があるとのことなのですが、こちらの癒しということについても、悪霊の追い出し同様「イエスさまの御名により頼むならば」、イエスさまのなさったのと同じ奇跡的な癒しが起こるといっていいと思います。
ただ、福音書の中にも、弟子たちの不信仰によって悪霊が追いだせなかったという箇所や、使徒行伝に面白半分(?)でイエスの御名によって(本当は信じていないのに)悪霊の追い出しをしたところ、むしろ痛い目を見た……という言及があるように、悪霊の追い出しも癒しの業も、基本的に教会の管理や権威の下でなされることが重要かもしれません。
癒しに関してならば、個人的に祈るということであれば何も害はないと思うのですが、悪霊関係については、教会の牧師さんであるとか、あるいは他の一般信徒の方々に相談したり、協力してもらうことが絶対必要です。また、もし「悪霊の追い出し云々なんてことはね、君、あれはイエスさまだから出来たことなんだ」といった考え方の教会であったとしたらば、悪霊関係のことについて理解のある教会へ相談するといったことが必要になってくるかもしれません(^^;)
なんにしても、カラヴァッジョのこの絵は――悪魔、サタンの頭を踏みつけることが出来るのは、神の子であるイエスさまだけ、ということを意味しているのだと思います。他の普通の人間が仮に同じことをしようとしたら、逆に足に噛みつかれ、非常な苦痛に苛まれることになったでしょう。そしてここにも、イエスさまが地上に来られたことの祝福と大きな意味を見出すことが出来ます。
つまり、それまでも地上はこの悪魔、またの名を<この世の神>である存在の支配下にあったわけですが、ただひとり、イエスさまだけがこの人間を苦しめる悪魔、サタンに打ち勝つ権威があり、彼の名を信じ縋る者にもまた……同じ権威が授けられるだけでなく、神さまの深い愛の守りの中で安らかに憩うことが出来る、ということなんですよね。
とはいえ、わたしもこうした存在にしょっちょう妨害・攻撃されますし、「イエスさまの御名を信じる者は守られるんじゃないのか!?」と、他のノンクリスチャンの方が嘲笑いたくなるような局面にはいつも遭遇しています。
でも、究極的に聖書の教えるところでは――いつまでも彼らの天下ということはなく、イエスさまがもう一度地上に再臨され、新天新地である神の国がこの世にやって来たとしたら、千年王国の訪れののちに、この悪魔、サタンと呼ばれる存在は完全に滅ぼされてしまうと、黙示録には書かれています。
それでは次回は、マルコの福音書の第3章より、続きをはじめたいと思いますm(_ _)m
ではまた~!!
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