この地とともに。
しんくうかん
第479話「私的とかちの植物嗜考・ミツバウツギ」
―謀(はかりごと)―
日陰にわずかに残すだけで平野の雪はほぼゼロ。
雪解け水が、茶、茶、うす茶と斑な褐色の大地に小さな流れをつくる。その水辺からはじまった緑が、十勝野を春の色に染めるのは“あっという間”の出来事だ。
キラキラと眩しい萌える森もやがて暗い影を広げていく。葉が茂ったのだ。そんな陰に飲み込まれまいと、か細い枝先にぶら下げた小さな粒をパッパッパッと花火を散らしたように咲かせるのは、ミツバウツギである。
だいたいはこの開花を界に、いろんな樹木も花開かせていくようだ。
いつも通る山道の暗闇に、ちらちらと白い花を散らばせた家族があちこちに寄り添ってあるものだから“あれぇ”と一瞬驚いてしまう。
別に騙しているわけではないのだろうけれど、一斉に現れると、
「この前は何もなかったのに」といつものことなのに、戸惑ってしまう。
人間はいとも簡単に嘘をつき騙す。
もしかして自然なことなのかもしれない。普通のことなので繰り返すのかもしれない。もちろん「嘘をつくとまた嘘を…だからわたしは」という人も多いけれど。
そんな自分も社会的な責任がほぼ終わった今、利害での付き合いが薄くなったから気づいたことで、むかしを思うと顔が火照るほどだ。
謀略は、戦国時代は普通だった。それはアイヌモシリと云われていた北海道でも同じ。
尊厳など無視した不当な行いに、一斉に蜂起(ほうき)した和人とアイヌ民族の戦い。
アイヌ民族同士の争いを利用した、和人の謀略。和睦を申し入れて当主を集め殺略など、高学歴な者ほど巧妙で執拗なようだ。
ただ利他と利己の表裏は取り巻く環境で揺れ動く。根っこの性分も合わさるとすごく複雑。で、彼奴が此奴がと他人が善悪で判断することは難しい。
「世が世であれば…俺が、ハッハハハ」
№2と目される御仁のほとんどから聞く言葉だけれど、身命を賭してここまで来たことは間違いないのだろうが、その実績が表面に出るほど障害にもなっちまうものだ。
大きくなるほど組織内部に謀は無数に生まれて、渦巻いて弾き出され、また飲み込まれまいともがくほど泥泥に絡み合うものが、闇には潜んでいる。
けれども、それで次代の芽も生まれるブラックホールである。
そう考えると “やっぱり家族”なのか!?結果騙されたとしても仕方ないで済むからね。
先駆けて鮮やかな色を作り出し、芳香をまき散らして呼び寄せて虜にする。
色も形もそっくりにして騙す。
自然界もいろいろと忙しい。
第478話「私的とかちの植物嗜考・ツリフネソウ」
―見えないことの方が多い―
多くは川渕に見られる。
花冠の側に小さなオクラの様なサヤが見える。種子が納まっていて、触るとパチンと弾け種子を飛ばす。子供のころはそれが楽しくて、探しては弾けさせて遊んだ。
市街地では、河川敷の公園化できれいに整備されてほとんど見られない。
郊外でもけっこう探すので、いまツリフネソウは減っている気がする。
「お前はのんきで、ほんと総領(そうりょう)の甚六(じんろく)だね」
父方の家へ行くと、祖母はいつも事あるごとに云った。
パッとは容易に動かないが、弾けたように飛んでいくこともある。
一応予測しているようなのだけれども、何せ“ふと弾ける”ものだから、ほとんどは失敗ごとともいえる。が、裏を返してみると失敗は随分と生かされた気もしないでもない。
だがその時は分かる筈もなく一応いろいろ体験した、今だから言えることなのだろう。
たまに「俺には分かるんだ。この先どうなるか…」と豪語する人に会う。
すごいな!と思う。
けれど、もし先(将来)が分かる(見える)としたら…。普通は、分かっていて危ない道の先へは行かないが、見えないから思いをもって突き進んで、いろんなことを知る。
「お母さまが気分が悪くなって倒れまして…少し横になって休んだら元気になられて―」
と、ディサービスから戻ったが、何度も嘔吐するものだから、長男が「救急車呼ぼう」。
検査を終えて、いまだ現役で指圧治療院をしている―と聞いた医師は、
「98才!?入院して様子見でもいいですが、どっこも悪いところは見あたらないですね」。
検査に付き添った長男の嫁に「やっぱ病院へ行ってよかったワ。あっはっは」。
「わしゃ絶対に病院へはいかん!入院なんかしない!!」と、ごねたが安堵したのだろう。
昔から「父さんとは絶対別れる!!40才には死ぬから」と、聞かされ続けてきたが親父も兄弟も、皆鬼籍に入って彼女だけになった。
「自分で稼いだ金で買って何が悪い!!」と、買いまくっては来る人にやっている。
75才になった女房の誕生祝。子供たちや孫に囲まれ、プレゼントのベストを羽織って日本酒をグビグビ飲み
「お父さん此処に嫁に来て本当によかったわ。わっははは」
取り巻く環境は予測できないことだらけ。で、相互に影響し合っている私たちは見えないことの方が多く何が起きても不思議じゃないが、それは日常のたわいないことが大半なのだろう。
側を通り過ぎる生き物によって弾け飛んだ種子、どこへ行くのか、行った先はどうなっているのか!?そんなことは分かりっこない。
いろんな体験は、見えないところで生かされてまた生きつづけるのだ。
第477話「私的とかちの植物嗜考・エノコログサ」
―最期の章はどうする―
<第4章か・・・4という数字は気になるが、最終章というのも、何かナ。>
今年は創業して30周年になる。
あっという間であった。親の財布を元手に生きてきた時代を第一章とすると、云われたことだけをしていればそれで済む勤め人時代が第二章。そして第三章が終わろうとする。
親元で、好き勝手に生きたときも楽しいことの方が多かったが、社会人になって会社勤めでも、結構好き勝手にやってこられたな―。と、いまにして思えるということは、たまたまそうなったのだけれども、幸せ者だった。
理不尽と思えることでも、受け流すことが出来るのであれば、波風もたたないから当然葛藤もない。で、一時ではあるものの安穏である。
「面倒をみてやっている。みてもらっている。」の位置が変わると視座もおのずと違ってくる。正しい悪いにかかわらず、分かり合うことが難しいのは仕方がない。だが、その分別はもしかして、それぞれの根っこにある性分が作用させるのかもしれない。
社会人になった時、中古でボロではあったが車を持つことができた。入社祝いに親が買ってくれたのだが、小一時間ほど離れた農家の母方の実家へはよく行った。
別に用があるわけではないが、突然行っても、来た理由何かは問わない。祖父母、叔父叔母、従弟たち皆が、「飯食ったか!泊ってけ」。とにかく温かくてホッとした。
石炭ストーブの上にジンギスカン鍋を置く、一斗缶から取り出した羊肉をどかっと鍋の上に置く。程なくしてジュウ、香ばしい匂いと一緒にモクモクと立ち上る煙。祖父、叔父はすぐ一升瓶を持ち出してコップ酒をあおる。そして “飲めない!”という私に勧めるのがいつもの繰り返し。時々、顔は知っているけれど名前は思い出せない親戚の誰々かも一緒にいて、ワーワー、ワッハッハ。笑い声がいつまでも絶えることはない。
社会がどうの、会社の人間関係が…そんなことはすぐにどこかへ消えてしまう。
実家を出て、ほとんど坂道らしきもののないだだっ広い、ぽつりぽつりと遠くに家の明かりが見える暗闇の砂利道をゴー、ゴトゴトガガーと走る。
街の明かりが見え始める水田地帯に入ると、東の防風林から満月が昇ってきた。すると道に沿って、ゆらゆら揺れるねこの尾のような草が、月明かりで縁どられて暗闇に浮かぶ。
車を停めて屈みこんで、ブレないように両ひざに腕を添えシャッターを切った。
翌日の紙面に大きく「中秋の名月…」と題して掲載された写真は、モノクロならではの効果のほうがおおきかった気がする。
たぶん最期の章となる鍵は、どんな環境であっても“笑い飛ばせる処の提供”かもしれない。
具体的にどんなものになるのか・・・少し時間をかけて練ってみよう。
第476話「私的とかちの植物嗜考・ヌルデ」
―剣山の闇―
人影も開いている店もない商店街。薄暗い街灯がぽつんぽつんと駅前通りを照らしている。市街地を抜けて踏切を渡ると、星も何も見えない暗闇に暫し足が止まった。
5月末の高体連にむけて、近くの剣山で予行登山を計画したが、私はサッカー部の練習試合と重なって、最終列車であとから行くことにしたのだった。
女学校が男女共学となって、新設になった運動部を掛け持つ者は多かった。
山小屋までおよそ一時間半、何度も通って迷うことはない。ジャリ。ジャリ。はぁはぁはぁ、シュッギュギュ、足音や息遣い、背中のザックの擦れる音。
まとわりつくような漆黒の闇は自然に急かせて、発散する熱気とモワ~ッと絡み合う。
何も見えないのに、何かが見えて聞こえたような…なんか怯える。
小刻みに震える円い明りが追いかけてくる。ドドドッダダダ―。うわー。な、何だ!
ザザーッ。私の側で停まったのはオートバイ。「こんな時間に…どうしたの!?」と、小父さん。ヘルメットで顔はよく見えない。「乗せてやる!」。着いたところは集落の端で、入口に営林署の立て看板があった。「曲がり角から先は酷い泥かるみ。曲がり角まで送る。張り替えて欲しい」と、渡されたのは山火事注意のポスターとテープ。
山小屋へ至るこの道は、集落から真っすぐなのに、何故かほぼ真ん中の一か所だけカックンとくの字に曲がっていて、通しては山小屋も集落も見えない。
ぐちゃぐちゃでこぶし大の石が混じる泥道、ごつい登山靴が泥に取られて足をくじいてしまうので、道脇の草むらを歩く。急いだからなのかなんか横腹が痛い。
リュックを下ろししゃがんで力んでいると、リーンリーンジャラン。何も見えない。
鈴のような音がどんどん大きくなってきた。踏ん張っていた顔をあげると、目の前だけが明るくなって、錫杖を突きながら白足袋にわらじ履きの足が通り過ぎていく。
ジャランジャラン。ジャン。
“えぇぇぇ”思わずまた下を向いてしまった。山小屋へ着くと「随分早かったな」。
翌日下山の時、仲間も一緒に見て歩く。
たが、どんと大きな排泄物はあるのに草鞋の足跡がない。
「ほんとか!?あぁくせえ!見えないところでやれよ」
小父さんに、テープと剥がしたポスターを渡してそれとなく尋ねる。
「あぁぁ昔から信仰の山だから」。隣にいた仲間は「目が異様に光ったぞ」。
闇は、秘めたものが得体のしれないものとなって、絡みつかせるのかもしれない。
気味悪くて行ってなかったが、社会人になって小屋を訪ねた。
皆伐ご、白樺などと最初に芽を出すヌルデが、大きくなってカラマツ林を取り巻き、剣山の中腹まではびこっていた。いまはどうなっているのか。
第475話「私的とかちの植物嗜考・シナノキ」
―峠の道―
野塚峠に差し掛かると、森は、何とも言いようのない香りに包まれていた。
仲間と、アポイ岳ジオパークビジターセンター見学の帰りのことだ。
強くはないのに、鼻腔にまとわりつく甘美でなんか懐かしい気もする。
「あぁぁシナノキだね!今年は一段と香るね」林業を営む仲間が言った。
ついこの前の透き通るような樹々の葉は、グッと緑を濃くしクリーム色の小花がかたまって泡立ち森中に花と香りをまき散らしている。
〈シナノキか・・・〉
「明治期に狩勝峠越えをした河東碧梧桐という俳人がいてね、峠に満ちた香気を随想している。どれほどのものだったのか、歩いてみたいね」
郷土本の文章担当の仲間が言う。「じゃぁ峠を徒歩で越えて見よう―」。
当時、内陸部から十勝入りする峠は二か所。一つは南北に伸びる山脈がググッと低くなった、新得市街地からも見える鞍部を抜ける道。120年前の明治36年、宮本富次郎(宮本商産創業者)もここを通って十勝入りをしている。もう一つは、少し路線は変わったが現在の狩勝峠で、周囲の樹木は戦時中陸軍によって皆伐された―と言う。
で、見通しの良い晩秋に、新得市街地から見える鞍部を目指して登坂することにした。
すそ野一帯は、北海道立新得畜産試験場の放牧地で、その中を砂利道が真直ぐ鞍部方向を差してつづいている。線路下をくぐり山の斜面沿いに右折する。
線路に沿ってうねうねと走る道は、林道となった。
「ここでないか」
高圧線鉄塔の基に、錆びついて拉げた開けっぱなしのゲートがあって、尾根伝いに鉄塔がポツンポツンと鞍部の天辺へ連なる。
鉄塔管理に利用しているのか下草を刈った道は幅1.5mほど、沢沿いに上へつづく。
「何か当時の痕跡はないかな」キョロキョロと木々も見ながら登る。道脇は低い灌木や雑木がまばらで、面影らしきものは見あたらない。一時間ほどだった。笹薮となり、かき分けて根元についた轍をたどる。「あれぇもう峠だ」。
先を歩いて素っ頓狂な声をあげた仲間の横に立つ。と、目の前に、樹木一本もなく牧草地が広がるなか来た時の轍が雑木林に消えた先に、山間を縫う高速道で行き交う車が西日をうけてチカチカ光っている。今の狩勝峠もシナノキは全く見当たらない。
女房と温泉へ行った帰り、眩しい西日が射す車内、ふと、昔がよみがえる。
付き合っていたころ、ドライブすると狭い車内は何とも言えない甘く香しかったな。
<植樹を考えている仲間にやっぱり“香しき森づくり”を提案しよう。シナノキをいっぱい植えてね。>
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