Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

色絵 谷嵐関文字文入り大皿

2021年08月12日 13時58分04秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 谷嵐関文字文入り大皿」の紹介です。

 

表面

 

 

裏面

 

 

窯元名が書かれた部分の拡大

 

 

生 産  地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代後期

サ イ ズ : 口径;46.5cm 高さ;5.1cm 底径;27.0cm

 

 

 なお、この大皿につきましても、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介しておりますので、次に、その時の紹介文を再度掲載し、この大皿の紹介とさせていただきます。

 

 

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       <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー39  古伊万里様式色絵谷嵐関文字文入り大皿 (平成14年8月1日登載)

 

 

 普通、コレクターは、「あれっ!」と思い、その美しさに惹かれ、感動し、遂には購入に至るというケースが多いであろう。

 その点、江戸後期のものは、大量生産されたものが多いせいか、「あれっ!」と思わせるような美的魅力を発散させているものは少ないようだ。

 私もコレクターの端くれ。この大皿に出会ったときに、「あれっ!」と思ったのは、その美しさに惹かれたからではない。

 「谷嵐」という力士は、存在したのだろうか? 存在したとすれば、どんな力士だったのだろうかという、もっぱら、知的好奇心からであった。

 この大皿は、鑑賞陶磁器という観点から見れば、それほどの魅力はないであろう。鑑賞陶磁器という観点から見た骨董品としては、むしろ失格である。
   「あっ、幕末の伊万里ね!」
と簡単に片付けられてしまうにちがいない。

 私が、「あれっ!」と思ったのは、「「谷嵐」って何だ!」というところからである。
 しかも、調べれば何かわかりそうだ! それに、この大皿は、調べるヒントを相当持っている!!

 それで、知的好奇心の誘惑に負け、遂に購入するに至ったわけである。

 もし、これが「谷風」であったなら買わなかったであろう。
 「谷風」では、あまりにもポピュラーで、誰でもがその名を知っている。

 「谷風」なら、
   「あっ、幕末の伊万里ね!」
と私も簡単に片付けて、通過してしまっていたにちがいない。

 この大皿は、私に、美的満足感を与えてはくれなかったが、知的好奇心への満足感を大いに与えてくれた。

 大げさに言えば、学問の醍醐味を味わわせてくれたのである。

 もし、この大皿と若い時に出会っていたら、あるいは、今頃は、どこかの美術館の学芸員になっていたかもしれない?

 江戸時代後期     口径:46.5cm

 

 

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*古伊万里随想21  谷嵐関の伊万里大皿(陶説582号;H13.9月号) (平成14年8月1日登載)

 

 

 「あれっ!変わった図柄の大皿だな。時代は幕末にちがいないだろう。図柄からして、相撲に関係したものだろうが、いったい「*嵐」(の文字はありませんので、画像から想像してください。以下同じです。)とは何と読むのだろうか?」。

 最近、古美術店の店先で見かけた大皿(口径46.5cm。写真参照)についての感想である。

 さっそく手に取り、じっくり観察する。裏返してみると、高台内に「有田岩河内 山口兵太郎」とある。「岩河内」は「岩河内」にちがいないから、「」は「」であることがわかる。そうであれば、この大皿は、幕末の「谷嵐」という力士に関係したものであることが推測されるのである。

 こうなると、小生の知的好奇心は大いにくすぐられる。是非家につれて帰り、十分に穴のあくほどながめ、研究し、出生の秘密などを知りたいものだとの願いが強くなる。

 かくて、くだんの大皿は小生に購入され、徹底的に調べられることとなった。

 そうはいっても、我が家の資料は極めて貧弱である。我が家の資料で調べられる範囲など、たかが知れている。でも、とりあえず、幕末の有田の岩谷河内に山口兵太郎なる窯元が存在していたか否かぐらいはわかりそうだ。

 さっそく、伊万里に関するバイブル、中島浩気著「肥前陶磁史考」を繙く。同書によると、明治9年に佐賀県令宛に「陶業盟約改正願」が出されたが、その願には17名の総代が連判し、続いて、各窯焼が連署している。そして、その連署窯焼人の中に岩谷河内窯焼9人の連署があり、その中に山口兵太郎の名が記されていたのである。

 明治9年に有田の岩谷河内に山口兵太郎なる窯元が存在したことはあきらかである。したがって、山口兵太郎窯は幕末にも存在したであろうことは十分に推測できるのである。

 我が家の資料による調査はここまでである。それ以上の進展は望めそうもない。しかし、なんとかして「谷嵐」なる力士の手がかりをつかみたい。

 そこで、今度は図書館へと赴く。図書館で「大相撲力士名鑑」(水野尚文・京須利敏編著 共同通信社)を見つける。同書に、昭和53年5月場所入幕の「谷嵐 久」関(最高位 前頭4枚目)なる力士の記述を発見。やはり、「谷嵐」なる力士は実在したのだ!感無量である。しかも、その記述には、「・・・・・入幕を機に郷土の先輩幕末の幕内力士谷嵐の名を継いだ。・・・・・」という文言まであった。幕末にも「谷嵐」という力士は実在したのである!しかし、残念なことに、同書は明治42年以降の力士について収録したものであり、幕末の力士についての記述がない。

 かくて、幕末に「谷嵐」なる力士が実在したことまではわかったが、その「谷嵐」なる力士がどのような人物であったかについての調査の糸口が見つからない。相撲博物館に行けばわかるのだろうか?行っても、はたして、教えてもらえるのだろうか? との自問自答が続く。

 悶々とした日々が過ぎ、欲求不満は日増しに募る。と、ある日、頭にヒラメキが走る。今やIT革命である。「今はやりのインターネットとやらで調べれば何かわかるかもしれない!」。さっそく、たどたどしい手つきでパソコンを操る。知りたいの一念は恐ろしい。ついに、自称「相撲評論家」坪田敦緒氏(北海道大学大学院生 23歳)のホームページにアクセス。そこで、嘉永6年2月場所に入幕し、前頭4枚目まで昇進して安政5年正月場所で隠退した「谷嵐 市蔵」なる力士が存在したことを確認できるに至ったのである。

 同氏のホームページによると、谷嵐関は、「地味な昇進で幕内成績も決して良くない。」とある。我が郷土でいえば、最近隠退した水戸泉関のような力士だったのであろうと思ったりしている。もっとも、水戸泉関の塩まきは派手だったけど。

 ついでに(財)日本相撲協会のホームページにもアクセスする。そこの「相撲の歴史と文化」の中に、江戸時代には「人気力士や強剛力士たちの多くは、大名のお抱えとなり、士分の待遇をうけたので生活は安定していた。たとえば谷風は仙台藩、小野川は久留米藩、雷電は松江藩の抱え力士であった。」とある。では、我が大皿の谷嵐はどうだったのであろうか? 大名のお抱えになるほどの力士だったのだろうか?

 大皿についての研究は、伊万里に関する研究の観点からすれば、ここまでの調査で十分である。しかし、知的好奇心は留まることを知らない。谷嵐関は大名のお抱えほどの力士であったのだろうか? そこまでは知りたい!

 そこで、遂に、駄目もとで、相撲博物館に手紙を出す。ところが、思いがけず、参考資料まで添えてご返事をいただくに至った。感謝感激感動である。この場をお借りして、深く、深く、深謝するしだいである。

 その返事には、「番付の頭書や錦絵に描かれた化粧廻しの印紋から判断すると、谷嵐は出身地の中津藩に抱えられていたと考えられる。」旨が記されていた。

 以上のことから、我が大皿は、幕末の嘉永6年頃から安政5年頃に、谷嵐関の「ヒイキ」筋が有田皿山は岩谷河内の山口兵太郎窯に特注して作らせて関係者に配ったか、あるいは、谷嵐関が同窯に特注して作らせて「ヒイキ」筋に配ったかのいずれかのものの1枚であることがわかったのである。

 製作年代と製作窯が明確な、うれしい伊万里の大皿である。

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 この大皿についての紹介は以上で終りますが、次に、参考までに、相撲博物館から送られてきましたご返事と、そのご返事に添付されていました参考資料の『古今大相撲力士事典』のコピーと『相撲錦絵展』(1996年田原町博物館で開催)の図録のコピーを紹介いたします。

 

相撲博物館から私宛に送られてきたご返事(平成13年2月19日付け)

 

 

ご返事に添付されていた参考資料の『古今大相撲力士事典』のコピー

 

 

上の『古今大相撲力士事典』のコピーの「谷嵐 市蔵」に関する部分の拡大

 

 

ご返事に添付されていた参考資料の『相撲錦絵展』の図録のコピー

安政頃に活躍した谷嵐 市蔵の錦絵は左上です。