Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染付 富貴長命文字文 小壺

2021年09月29日 15時11分39秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 富貴長命文字文 小壺」の紹介です。

 

 

胴部の「富」の文字の面

 

 

胴部の「貴」の文字の面

 

 

胴部の「長」の文字の面

 

 

胴部の「命」の文字の面

 

 

底面

 

 

斜め上方から見た面

 

 

内面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期

サ イ  ズ: 口径;5.4cm 胴径;9.3cm 底径;5.8cm 高さ;10.7cm

 

 

 なお、この「染付 富貴長命文字文 小壺」の製作年代につきましては、一応、「江戸時代前期」としましたが、少々腹に入らない感じでいる次第です。もう少し新しいものなのかもしれません(><) その点をお含みいただいてご覧いただければ幸いです。

 また、この「染付 富貴長命文字文 小壺」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中でも既に紹介しているところです。

 その際の紹介文を、次に、参考までに再度掲載いたしますが、この「染付 富貴長命文字文 小壺」の製作年代につきましては、上記しましたように、疑問のあることをお含みいただいてお読みいただければ幸いです。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー193  初期伊万里染付富貴長命文字文小壺   (平成26年5月1日登載)

 

    

 首と腰の部分に圏線を描き、胴部には「富」「貴」「長」「命」の4文字のみを描く。

 いかにも素朴で、また、雰囲気としては李朝風である。

 私が、古伊万里のコレクションを始めた頃は、このような、李朝風の素朴な伊万里焼こそが初期伊万里であると教わったものである。

 その点については、矢部良明氏も「世界をときめかした 伊万里焼」(角川書店 平成12年12月25日初版発行)の中で次のように言っている。

 

「後世につくられた伝説を含めて、有田に磁器を焼く窯が開かれるにあたっての立役者となったのが、朝鮮半島から渡ってきた陶工であったことは文献史料が伝えるところであるし、まずそれに相違はあるまい。だからこそ、17世紀初頭の陶磁器について、昭和40年代までの研究者が朝鮮王朝(李朝)中期の陶磁器が直接のモデルであったろうと考えていたのは、当然の推測であったと思う。あたかも唐津焼の製品のなかに、一部には李朝陶芸の形がそのまま投影しているように・・・・・。
 いま一つ、最初期の伊万里焼を考えるにあたって、初期の製品のことであるから、おそらくごく素朴にして幼稚な作風のものであろうという常識的な考え方も支持されていたために、いまから考えると、開窯からずっと降った後世の粗製品を草創期の作と見なすこともすんなりと受け入れられてきたのであった。      P.10 」

 

と、、、。

 しかし、その後の、考古学による発掘調査をふまえた研究の結果、伊万里焼は、朝鮮王朝(李朝)中期の陶磁器を直接のモデルとして作られ始めたものではなく、古染付をモデルとして作られ始めたことが分かってきた。

 では、このような新しい見解の基では、この小壺の制作年代の位置付けをどのように捉えればよいのだろうか。

 まず、古染付では、普通、「富貴長春」とか「富貴長命」という文字は、高台内に描かれ、「銘」として使われることが多いが(「富貴長命」よりは「富貴長春」の方が圧倒的に多いけれど)、この小壺の場合は、「富貴長命」の文字は、高台内に「銘」として使われているのではなく、胴に「文様」として使われていることに注目する必要がある。

 また、この小壺には、この4文字以外には圏線のみが描かれているにすぎない。

 一方、古染付の場合は、、高台内に「銘」として用いられる「富貴長命」という文字が胴部の文様として用いられている例を私は知らないし(私が知らないだけかもしれないが、、、)、文様がもっと多く描かれている場合が多いと思う。

 このようなことから考えると、この小壺は、古染付をモデルとした伊万里焼の草創期のものではないとせざるを得ないものと思われる。 

 では、この小壺は何時頃作られたのであろうか。

 私は、客観的な根拠を持ち合わせているわけではなく、私の主観的な判断に依るものではあるが、草創期ではないにしても、その時点からそれ程降ることはない時期に作られたものではないかと思っている。

 

江戸時代前期    口径:5.4cm 胴径:9.3cm  底径:5.8cm  高さ:10.7cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌123  古伊万里との対話(富貴長命の小壺)(平成26年5月1日登載)(平成26年4月筆)

登場人物
  主  人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  富貴長命 (初期伊万里染付富貴長命文字文小壺)

 

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 主人は、次はどんな古伊万里と対話をしようかと「押入れ帳」をめくっていたが、ちょっと珍しい物を発見したようである。
 それは、染付で圏線と文字のみを描いたものである。普通、無文のものは、白磁や青磁であるが、それには、白磁のうえに圏線と文字のみが描かれているのである。
 そこで、さっそく、それを押入れから引っ張り出してきて対話をはじめた。

 

 


 

 

主人: お前には、「圏線」と「文字」しか描いてないんだよな!
 普通、無文の場合は、白磁か青磁で、それで完結だよね。何も足さない、何も引かないということで・・・・・。陶磁器の場合、私は、それで究極の完成だと思うんだ。
 ところが、その後、白磁や青磁では寂しいと思ったのか、その器面に文様を付けるようになった。それも、最初は極く控え目に、少し描いたが、だんだんとエスカレートし、色絵まで登場し、器面いっぱいにゴテゴテと描くようになった。私から見れば、陶磁器は堕落の一途を辿ったんではないかと思う。

富貴長命: その点、私は、極く控え目に描かれていますから、堕落してはいないのではないでしょうか。

主人: 極く控え目に描いたとしても、それは、もう、堕落の始まりだろう。既に堕落の道に染まってしまったのなら、私としては、適度な堕落に落ち着いたほうがいいんじゃないかと思っているよ。堕落には適度な堕落というものがあるのかどうか、「適度な堕落」というような文言自体もおかしな話ではあるけれども、つまり、文様は少な過ぎもせず多過ぎもしない、程々のところがいいと思っている。

富貴長命: 私は、文様が少な過ぎますか。

主人: そうだよね。ちょっと少なくて寂しいよ。圏線と文字しか描いてないんだものね。華やかさに欠けるよね。お前を見ていると、なんか寂しくなってきて、こちらが冬枯れしてきそうだよ。
 でも、幸い、文字が「富貴長命」だから救われるかな。お前をジィーット見ていると、なんとなく小金でも入ってきて、少しは裕福になってくるような気がするし、精神的にだけでもいくらかセレブになった気分になるし、文字通り「長命」を保証されたような錯覚を覚えるものね。

富貴長命: 世の中のために、少しでもお役に立てれば嬉しいです。
 ところで、先程、ご主人は、陶磁器の文様は、最初は極く控え目に少し描かれ、だんだんとエスカレートしていって、器面いっぱいに描かれるようになっていったと言われましたが、そうしますと、私は、極く控え目に文様が描かれていますので、伊万里焼が焼き始められた最初の頃に作られたということになりますか。

主人: いや違うな。それは、陶磁器の本場・中国での話だ。
 伊万里焼の場合は、その陶磁器の本場・中国の明末の古染付をお手本として始められているので、最初から、結構、文様は多く描かれているね。お前のように寂しくはないよ。

富貴長命: それでは、私は、最初期の伊万里焼ではないんですね。

主人: そうだと思うよ。
 伊万里焼の場合、最初は、中国の古染付と同じような物を作ろうと一生懸命だったんじゃないかな。それが、だんだんと古染付に近いような物が十分に出来るようになると、心にも余裕が出来、古染付模倣から脱却していったんじゃないかと思う。
 つまり、古染付模倣一辺倒から少しずつ脱却し、伊万里焼としての独自性をだんだんと前面に出してくるようになったんだと思うね。たとえばお前のように。
 高台内に、銘として、「富貴長春」とか「富貴長命」と描かれることは多いが、その銘の「富貴長命」の文字を、今度は、銘としてではなく文様として描いてみてはどうかな、というような自由な発想が生まれてくるんだよね。
 まっ、以上のようなことから、お前は、最初期の伊万里焼とは言えないんじゃないかと考えたわけだ。

富貴長命: 最初期の伊万里焼とは言えなくとも、一応、「初期伊万里」とは言えるんですか。

主人: うん、ちょっと悩ましい問題ではあるね・・・・・。
 初期伊万里については、矢部良明氏が「世界をときめかした 伊万里焼」(角川書店 平成12年12月25日初版発行)の中で次のように記しているので、それを前提にして考えてみよう。

 

「 ここで、初期伊万里と呼ばれている、伊万里焼初期の染付について述べておきたい。その染付の説明に入る前にお断りしておきたいのは、初期伊万里の時代区分の設定のしかたである。人によっていろいろと解釈はあろうが、筆者は開窯した1620年代から、ヨーロッパ向けの輸出物焼造が本格化する万治2年(1659)までの、およそ40年間の伊万里焼を初期伊万里と呼ぶこととしている。なぜこのように区分するかというと、万治2年をもって、オランダ東インド会社から注文を受けた磁器は、景徳鎮の万暦様式を母型とするもので、ここに古染付を出発点においた初期様式とはまったく様式の違う高級な万暦様式(ヨーロッパでは、現在でもキャラックと呼ぶ一群の様式で、古染付よりもさらに古い万暦年間<1573~1619>に景徳鎮窯が完成した代表的民窯の一様式)が加わったことにより、伊万里焼の主製品は、様式の二重構造をもつこととなり、初期伊万里に代わってこうした輸出物が製品の主役をなすにいたったからにほかならない。その結果、1660年以後、初期伊万里様式は下層の様式となって、脇に引き下がることとなった。この堺をなす1659年をもって、伊万里焼は盛期を迎え、初期様式を脱皮したと考えている。    P.30 」

 

 このように、伊万里焼の主役は、1659年をもって、古染付模倣を出発点とした初期様式から万暦様式へと先祖帰りをし、ガラリトその様相を一変させたわけだが、その時点をもって、初期様式が完全に消滅したわけではないんだよね。その後も、初期伊万里様式として脇役ながらも存続しているんだよね。
 したがって、お前が、1659年以前の「初期伊万里」に属するのか、それ以後の「初期伊万里様式」に属するのかは悩ましい問題ではあるが、私は、私の長い経験と勘からいって、お前は「初期伊万里」に属するんではないかと思っている。

富貴長命: 古く評価してくださったありがとうございます。
 私にあやかり、ご主人が長命となりますことをお祈り申しあげます。

主人: ありがとう。

 

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
遅生さんへ(その2) (Dr.K)
2021-09-30 08:52:30
再度のコメントをありがとうございます。

これ、ほとんど疵が無いんですよね。未使用で伝世したような感じなんです。
よほど大切に扱われてきたか、或いは、何らかの事情で、未使用のままで伝世したものなのかもしれません。

波佐見では、一般大衆用の日用品を大量に作ったのでしょうから、このような、特別なものは作らなかったかもしれませんよね。

波佐見焼のことについては、ほとんど知りません(~_~;)
これから少しずつ、勉強していこうと思います(^_^)

この手のものの生産地と製作年代を、自信をもって判断出来るように、努力したいと思います(^-^*)
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Dr.Kさんへ(弍) (遅生)
2021-09-30 07:50:16
確かに表面状態が良い(良すぎる?)のでどうか、の問題はありますね。
でも、波佐見は後発で、売れる物を作る、伊万里にすでにある品のコピー品を作るというのが基本にあると思うのです。この壷は、伊万里でも数少なく、それほど需要が多かったとは思えません。試作品を除けば、波佐見で敢えて生産しようということにはならないと思います。
それから、高台の作りや兜巾状の突起なども、波佐見とは考え難いのですが(^.^)
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遅生さんへ (Dr.K)
2021-09-29 21:15:57
これ、大きく感じますか!
お褒めいただきありがとうございます
(^_^)

かなり、李朝を感じますよね。
当時は、朝鮮半島渡来の陶工、中国人の陶工、日本人の陶工が混じり合って作業をしていたのでしょうか、、、?

私は、従来は初期伊万里と言われたこの手が、だんだん分からなくなってきました(><)
草創期の頃の伊万里はだいぶ分かるようになってきましたが、この手を、どのように位置付けるべきなのか、分からなくなってきているわけです(~_~;)
私は、波佐見焼というものの存在を知ったのは最近ですが、その波佐見焼が、従来初期伊万里と言われてきていたものに近いものを作っているんですよね。
しかも、それらが、古伊万里の中に混入されてきていたんですね(~_~;)

或いは、この小壺も、江戸中期以降の波佐見焼なのではないかと思っているんです(~_~;)
と言いますのは、この小壺は状態が良すぎますし、ちょっと古格が足りない感じがするからなんです、、、(~_~;)
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Dr.kさんへ (遅生)
2021-09-29 15:41:27
小さな壷ですが、ずっと大きく感じますね。名品の証拠です。

肌の感じはもとより、漢字の調子も李朝的だと思います。李朝陶工が携わったとすると、感慨深いものがありますね。

 
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