Dream of Sangwoo

♫드림오브상우♫ クォン・サンウ 권상우-ssiに癒されて‥💕Kwon Sang Woo Fighting!!

‘砲火の中へ’ポスター~♪

2010-04-01 00:59:16 | 201006  포화속으로 (戦火の中へ)






‘砲火の中へ’のポスターが各サイトにあがっていますね

これって19日の記者懇談会の時 後ろにあった写真ですよね


71人の学徒兵。。。すごい迫力です。。。







これから 他のバージョンも出てくるのかな・・




[ About Korean War ]

洛東江(ナクトンガン)戦闘と浦項(ポハン)戦闘

“これ以上後退することもできなくて押されることもできない最後の防御線,洛東江(ナクトンガン)があけられれば終わりだ!”

開戦3日ぶりにソウルを手に入れた北朝鮮軍は洛東江(ナクトンガン)近所まで破竹の勢いで南進を継続する。 洛東江(ナクトンガン)があけられれば釜山(プサン)を守ることはできない状況. 韓国軍(郡)は洛東江(ナクトンガン)死守のために8月1日洛東江(ナクトンガン)橋頭堡の構築命令を下して,8月3日から義城(ウソン),馬山(マサン),霊山(ヨンサン),安康,浦項(ポハン),倭館(ウェグァン)など慶尚北道(キョンサンブクト)一帯で洛東江(ナクトンガン)支持線を死守するための激しい戦闘が広がる。

<砲火の中へ>は韓国の最後の大動脈を切るために圧倒的な火力と兵力で武装した北朝鮮軍が洛東江(ナクトンガン)戦線で結集していたその時,洛東江(ナクトンガン)と浦項(ポハン)一帯で実際に広がったすさまじい戦闘を描いた戦争実話だ。 たとえ戦争はその後にもずっと続いたが,1950年8月,‘火の海’と呼ばれたそちらで戦ったこれらにそれは全部を件最後の戦闘であった。


1950年8月10日浦項(ポハン)女子中戦闘

“浦項(ポハン)を捨てようというのですか?”

“そうすることにはならない。 浦項(ポハン)があけられれば洛東江(ナクトンガン)戦線は前後で包囲される。”

“それではどの部隊が浦項(ポハン)を引き受けますか?”


1950年8月10日

記録によれば当時浦項(ポハン)には数 百人の韓国軍(郡)正規兵力と共に非武装兵力の学徒兵71人が待機中だった。 当時学徒兵らは戦争に参加する義務がなかったのに自分たちが従った正規軍将校について浦項(ポハン)へ向かったことだった。

電力面で劣勢だっただけでなく北朝鮮軍の進撃情報を知らない浦項(ポハン)はそれこそ無防備状態であった。


1950年8月11日

最後の戦線を守るためにすべての電力を洛東江(ナクトンガン)で集中させなければならなかった韓国軍(郡)は浦項(ポハン)を学徒兵71人に任せて離れる。

8月の11日明け方4時. 学徒兵71人だけが残ったそちらに6発の信号弾がさく烈することと同時に銃声が聞こえてきた。 夜が明けて,視野が明らかになる頃浦項(ポハン)女子中正面前に北朝鮮軍766部隊の行軍縦隊が近づくことが眼に触れたし,これらの行列が50m前方に達した時,待機していた学徒兵らはいっせいに射撃を始めた。

二社のように北朝鮮軍の隊列はあっという間に崩れたが暫くして戦列を整えたこれらは装甲車部隊を前面に出して,猛烈な攻撃を浴びせた。

北朝鮮軍は学徒兵らに降参を勧めたが71人の学徒兵はこれを拒否したままいくらならない実弾が消耗する時まで応戦したし,実弾が落ちるや多少投げた手榴弾を反論して投げる血戦を広げた。

11時間の間広がった浦項(ポハン)女子中での戦闘で北朝鮮軍60人余りが死亡したし,学徒兵47人が花のように美しい若い命を失った。

浦項(ポハン)から洛東江(ナクトンガン)までは2時間距離. 71人の学徒兵が北朝鮮軍の南への侵略を11時間の間遅延させた浦項(ポハン)戦闘は洛東江(ナクトンガン)を死守に決定的な役割をしたし,続いた国軍と連合軍の反撃に大きく寄与した。


朝鮮戦争の中学徒兵

“万弱です,赤らがあげてくれば雨夜ですか?”

“逃げてはいけないことではい? 最後までサウォヤジイェ?”

“卑怯に私だけ家にいられるか? 友人らがみな戦って死んだが。”

戦争とは関係がない生活を送っていく今の若者たちには見慣れない‘学徒兵’は戦争に参加した学生軍人,‘学徒義勇軍’を称する言葉だ。

わずか60年前の1950年代大韓民国の教育環境は想像以上で劣悪だった。 国民学校(今の小学校)以上の学歴だけ持っても先生や公務員になることができた時期. それで教育を受けた人材(人災)らは国を導いていく材木で見なされたしこれは戦争勃発後にも同じだった。

だから政府は国の未来のために幼い学生たちの参戦を極力引き止めたがこれらは制服を着たまま学校を離れて,戦場の中心に立った。 朝鮮戦争当時学徒兵は幼い少年から大学生はもちろん帰国した留学生,女子学生らまで多様だった。

はもちろん帰国した留学生,女子学生らまで多様だった。 洛東江(ナクトンガン)戦闘があった慶尚北道(キョンサンブクト)で犠牲になった55校286人をはじめ,朝鮮戦争中に犠牲になった学徒兵の数はおよそ3千人と推算される。 しかし軍番号もなくて所属もなかったので名前も残すことができなくて飽和の中に消えていった学徒兵の数はさらに多いものと見られる。

60年間忘れられた学徒兵らに生命を吹き込みたかった製作陣は学徒兵全員をオーディションを通じて,選抜した。 これらは映画の主人公であり戦争実話の主人公で60年間忘れられた,しかし必ず記憶しなければならない歴史の1ページを新しく書いていくだろう。

参考文献:韓国戦争社(国防部),朝鮮戦争社(戦争記念事業会





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