
今日は中国関係で疲れたね。。。
訳しても??だし。。。。
早く韓国でお仕事してほしいよ。。。
夜になって

静か~な夜。。
皆さん~良い夢見てくださいね・・

地震。。もう起こりませんように・・・・
さて、ユハ監督作品関係の記事^^

2006-07-04

ユハ監督の四回目映画<卑劣な距離>は生き残るために地団駄を踏むが結局みじめな死を迎えてしまう限り人間の生に従っていきつつある。
その中心に立った三流組織暴力がチョ・インソンに落ちた。
愛に陥ってさ迷う金持ちの家坊ちゃんがごろつき役にとするからには。
だが、チョ・インソンは<卑劣な距離>を通じて金持ちの家坊ちゃんの典型から抜け出して組織暴力を魅力的に消化したし、以前の映画らと太線をひいてしまった。
ここで少しの間、チョ・インソンの歩みと重なる人物が浮び上がらないか?
すぐにユハ監督の三回目映画<マルチュク青春通り>の主人公であるクォン・サンウだ。
クォン・サンウやはり暴力が幅きかす1970年代学校を扱った<マルチュク青春通り>に出演、物心ない同年齢の姿から抜け出して社会に対する怒りを爆発させる高校生役に良い評価を受けた。
もちろん、彼らが全く同じではない。
クォン・サンウは76年生まれである反面、チョ・インソンは81年生まれ. 似ているように見えるこの俳優の年齢は5年も違いが生じる。
また、一つ. クォン・サンウは<マルチュク青春通り>以後<恋する神父> <野獣> <青春漫画>までジグザグに歩いていくように乱れていた変身を見せているが、チョ・インソンはたった今<卑劣な距離>から抜け出した状態.
そしてもっとあるならば? 彼らを比較した後文で探すことができる。
<卑劣な距離>の、チョ・インソン
<卑劣な距離>の、ビョンド(チョ・インソン)は背を向けようとする女を呼んでたてて奇襲的に唇を盗む程熱情的だ。
愛する女の前で彼の二つの肩は大変高くて強固に見える。
だが、彼は家族というアキレス腱の前で無防備状態になる程弱い男でもある。
彼は女には甘い恋人、お母さんには二つとない孝行息子、弟(妹)には強固な兄さんあるいは兄である反面、前途(前の道)を遮る相手には残忍だったことだけのことだ。
ビョンドが生きている‘卑劣な距離’には守らなければならない対象となくさなければならない対象だけ存在するためだ。
手段と方法を分けないで上に上がろうとしていた彼は次第に抜け出してくることはできない艦艇の中に陥る。
それはビョンドが住む所が‘卑劣な距離’であるためで、同時に彼の目がすでに愛と家族で暗くなったためでもある。
<マルチュク青春通り>の、クォン・サンウ
<マルチュク青春通り>のヒョンス(クォン・サンウ)ははにかむ高校生だ。
彼は自身を狙う相手の視線を避けようとだけする。
ある人たちは彼をおくびょう者だと呼ぶだろうが、事実彼が怖くなって戦わないのではない。
かえって彼は彼を無視する他の子供たちを殴り倒してあまりあるほどの実力を備えている。
ヒョンスが戦わないものは生半可な戦いがどれくらい苦しい結果を呼び起こすのか分かるためだ。
ある日バスで会った女子高生が好きになって、彼女によって失恋の傷を体験して彼の日常に変化がおきる。
そしてソンド部長との戦いで敗北した友達が学校を離れるとすぐに彼は一瞬にしてこらえている全てのものをさく烈させる。
慎ましい少年が激烈な感情の変化を表出する瞬間彼を防げる人は世の中にない。
魅力/細い純粋さvs対立的イメージの共存
チョ・インソンは草食動物の目を持った。
彼は<卑劣な距離>で悪口を吐きだしてけんかをして刃物で人を刺すが、例の先限目はそういう行動が生の悲哀によってやむを得ずしなければならないことのように見えるようにさせる。
観客はチョ・インソンの目に没頭する。
彼が眉毛を引き込んだまま相手を威嚇する時(<バリでおきたこと>),あるいは目じりを明るく明らかにして笑ったり(<星を撃つ> <マドレーヌ>)涙を浮かべて愛をもの乞いする時(<春の日>)彼の目で伺える真実の表情は一番最初に観客を圧倒する。
少年同じ弱い身体は目の次に魅力的な部分だ。
スマートなスタイルの所有者であるチョ・インソンはとりわけ長い腕と脚で持ったし,だから失恋の傷や戦いの敗北で肩をぶら下げた細い少年で記憶されたりもする。
永遠に少年で人をアドニスのように彼の身体には簡単に傷つけることはできない純粋さがある。

メトロセクシャル、ウェバーセクシャル….
現代社会に生じた新しい男性像を指し示す名士(名詞).
クォン・サンウはそういう単語に完全に一致する独特の身体を持った。
彼のからだは大変マッチョ的な動き(<野獣> <マルチュク青春通り>)の中に神聖が付与する純潔さ(<恋する神父>)や自然に沸き出る同年齢の茶目っ気(<同い年の家庭教師> <青春漫画>)を含んでいる。
幅広い変奏が可能な彼の身体は同時にセクシャルな魅力度漂う。
慎ましい微笑がよく似合う白い顔である瞬間おとな男のセクシーさがあらわれるのはそのため.
<天国の階段>のシャワーシーン、それで有名だ。
泣きそうな表情、しっとりとするようにぬれたまつげと赤い唇は見る人の心臓をしびれるようにさせる魅力を発揮した。
クォン・サンウは一度に把握することはできない対立的なイメージで観客を誘惑する。
愛/拒否される悲しい愛vs率直で堅固な愛
“他のものはみなこらえますが…君が怒るのもこらえますが…君が私を冷遇するのはこらえられないよ。 なのでどこにも行かずに待って。 みな捨てて連れにくるから。”(<バリでおきたこと>)
チョ・インソンはずっと女性に捨てる当てられるのを恐れて涙を落とした。
彼の涙は魔女の微弱のように危険なことだったかもしれない。
これによって彼を拒否した相手女性は結局魔法のように彼を愛することになったり(<春の日>)呪いのように彼とともに死に追い込んだ(<バリでおきたこと>).
<卑劣な距離>でチョ・インソンは愛する女性を壁側で押しつけたままキスをする。
だが、観客の記憶の中に残るものは、キスのうっとりするということより“君が嫌いならばごろつきことをしないから離れなくて”くれという切ない大使だ。
典型的なハンサム型俳優であるチョ・インソンが主に愛を拒否される役割を受け持ったというのはアイロニーだ。
だが、それがチョ・インソンが出てくるメロー物が人気を呼ぶ理由かも知れない。 観客は彼が涙を流す時体が熱くなるほどの強烈な悲しみを感じるためだ。
そしてそのような悲しみの快感は時に彼の微笑で得ることができる幸福感を凌駕する。

“昔にある及ぼした画家がいたが女家で互いに会えないようにするとその画家がこのように話したって。 その女に会うようにしてください。
私がキャンドルに手をのせて持ちこたえることができる時間ぐらい.”(<マルチュク青春通り>)
クォン・サンウは想像できることのすべての愛の姿で近づいた。
かたい信頼で相手との結婚を敢行するかと思えば(<天国の階段>),悲劇的な愛の主人公になって銃に撃たれたまま死んでいった(<悲しい恋歌>).
ずっとコルロンデミョ格好つけていきなり慎ましいプレゼントを差し出すほど率直だった反面(<同い年の家庭教師>)突然近づいた愛という感情であわてたり(<青春漫画>),お転婆少女に会ってシーンに向かったこととは違った種類の愛で苦しがることもした(<新婦授業>).
友達を選択した少女を最後まで見守った少年の視線のように(<マルチュク青春通り>)クォン・サンウの愛は常に親しくて暖かくて堅固だった。
彼がタフな人物を主に演技したという点を考えるならばおかしな組合だと考えるほどでもある。
だが、彼の経たキャラクターは愛の前で大変おとなしくなったし、彼の多少愛を武器にして脅迫する時彼は常に命を投げる準備ができていた。
クォン・サンウ式愛は率直だったので常に目を引いた。
戦い/生き残るための戦いvs怒りと悲しみの戦い
<卑劣な距離>の、ビョンド(チョ・インソン)は糊口をしのぐために戦わなければならなくて、そういう犬の喧嘩の中で生き残らなければならない。
“派手でとても粋であるアクションでなくリアリティーを指向するアクションだ。
動作が感情の延長線上にあると考えて、感情に合わせて合計を組んだ。”チョ・インソンの話のように<卑劣な距離>はお互い絡まって噛んで殴って切る乱闘場で広がる、それこそ‘日アクション’を見せる。
犬の喧嘩よりきびしい生もある。
ビョンドがサンチョル(ユンジェ文(門))を作業する場面がすぐにそれ.
ファン会長(青湖荘)をスポンサーで捉えるために、いやそれ(彼)より死なないためにビョンドは刃物を捉える。 サンチョルが刃物にささる場面は、<友達>で同数(チャン・ドンゴン)が“マイ多くの取って子供が”を吐きだして死んでいったことぐらい悲しくはない。
だが、それ(彼)よりさらに悲壮だ。 死の恐怖で大きく広がったサンチョルの目がある瞬間ビョンドの目とあうためだ。

ヒョンス(クォン・サンウ)の偶像はブルース・リーだ。
小さい背丈と整ったスタイルの所有者であるブルース・リーはスクリーンの中でヌンチャクを振り回してびしびし少ない処断した。
<マルチュク青春通り>の前半部、カメラはブルース・リーを師匠で置いたヒョンスの節制されたからだ婿を何度フルトネリンダ.
だが、現実の中戦いは大連と違う。
死ぬ力をつくして飛びかかる相手を軽く処置することは不可能なこと.
そうしたために屋上で広がる戦いはすばらしいより下品ですさまじい。
“大韓民国学校チョッカラそうして!”ヒョンスは映画の中節制されたブルース・リーのアクションをまねようと努めることにも、本来彼の戦いは<卑劣な距離>でビョンドをなぎ倒す組織暴力のそれだけに出るだろう。
クォン・サンウは<マルチュク青春通り>で、<同い年の家庭教師>の不良学生を投げ捨てた。
式版で時の顔を攻撃してジッポライター一つで相手を圧倒した戦い最高はいつのまにかしおれていた高校生に変わっている。
ヒョンスは彼をにらむ視線を避けて頭を下げるが、毎日鍛えた制服の中の筋肉はいつか爆発するほかはない。
そしてその瞬間雷管を除去した地雷のように押さえ込んだ怒りと悲しみが残らずあらわれる。

Before & After/大きい歩幅の一歩vs. 力いっぱい受け継いできた走る
愛を勝ち取るために涙を流したり乱暴を働く金持ちの家息子(<春の日> <バリでおきたこと>)あるいはマナー良くてハンサムな典型的なイケメン(<ノンストップ2>).
ドラマの中でチョ・インソンが引き受けた人物はほとんどの二種類の役割の変形だった。
反面、真剣で大人っぽい演劇部先輩庶民(<クラシック>),浮気者韓国大学生撤収(<南男北女>),契約恋愛をする青々とした青年支石(<マドレーヌ>)のように映画の中チョ・インソンは少しずつ他の可能性を見せた。
だが、彼の歩幅は相変らず遅かったし足踏みをする彼にヤジを送る人もできた。
“私はまだ若い。 習うことも多くてしたいのも多いが、生半可な判断を下すな。 私が望むのはそれ一つだ。”ゆっくり歩いていったチョ・インソンは<卑劣な距離>にした歩み大きく踏み出した。 彼ははやくはないけれど結局遠くまで到達することだと、自ら知っている。
クォン・サンウの行跡をお粥詠じて行こうとするなら当惑することこの上ない。
幼なじみをもてあそぶ分別がない町内未婚の男性指環(<青春漫画>)とご飯食べるように課外先生変えて片づける不良学生ジフン(<同い年の家庭教師>)はそれなりに似た形だ。
容貌も、性格も華やかな財閥集一人息子チャ・ソンジュ(<天国の階段>)から、不遇な音楽家ソ・ジュニョン(<悲しい恋歌>),小心な高校生ヒョンス(<マルチュク通り残酷史>),すっきり積み重ねてシナクセンキュシク(<恋する神父>),多血質刑事チャン・ドヒョン(<野獣>)まで。
クォン・サンウは時にはコミカルだがまた、時には悲壮なこともした。
“演技変身が上手な俳優がうらやましくて、いくらスターでもあるイメージで10年超えて暮らす人々苛立ちます。 個人的に演技でも何でも全く同じであること繰り返すこと嫌気よく賭けもしてよ。”誰かはクォン・サンウが<マルチュク青春通り>を通じて跳躍したというけれど、それは間違った言葉だ。 クォン・サンウは初めから力いっぱい走っていたためだ。
この記事・・・・・
読んだ記憶があるけど・・・もう10年前なんだ

ちょっとびっくり。。。
>クォン・サンウ式愛は率直だったので常に目を引いた
確かに。。。
純粋で率直で分かり易い。。。
>彼のからだは大変マッチョ的な動き(<野獣> <マルチュク青春通り>)の中に神聖が付与する純潔さ(<恋する神父>)や自然に沸き出る同年齢の茶目っ気(<同い年の家庭教師> <青春漫画>)を含んでいる。
>幅広い変奏が可能な彼の身体は同時にセクシャルな魅力度漂う。慎ましい微笑がよく似合う白い顔である瞬間おとな男のセクシーさがあらわれるのはそのため.
表情豊かなサンウ^^
きっとこれからも まだまだ新しい姿を見せてくれるよね
