おはようサンウ^^
今日は 昨日よりは暖かくなりそう^^
週半ば~~今日も一日ファイテン
今日のCINEニュースはジフン^^
やんちゃで手に負えないジフン~~~~~だけど憎めないんだよね
可愛いジフンがまたサンウにピッタリ
目的を忘れないで最後までクールに、<同い年の家庭教師>
2003-01-27
ごくっと、唾移る音、カサカサする鉛筆音、本を共に分けてみるために「ㄱ」文字に肩を戻って位置、閉じられたドア、狭い部屋、机の下ピクッとあたるお互いの足の指.
そのような時ぐらい緊張を破るママのおやつ.
‘国・英・数 20点向上’のために用意されたこの四角の小さい机は意外にすてきなロマンスの現場に返信することもできる。
友達より遠い、先生よりは近い、せいぜい3,4才違いが生じる大学生兄さん、姉と家庭教師をした人ならばこういう妙な緊張の瞬間を記憶するだろう。
だが、ここに二人.
これらの事情はちょっと違う。
たとえ師匠と弟子という運命で会ったが同じ年齢なのに加えとうていロマンスが形成される余地がない性格だ。
学生は先生に対する幻想どころか初めからぞんざいな言葉に“やぼったいのがポクキルが同じだ”という個人攻撃も拒まないで、先生は‘sometimes’を‘ソメティメス’で読む程口だけ開けば無知がぞろぞろ流れるこの学生が美しいはずがない。
してこれらが向かい合って座った机は‘愛の花咲く木’でなく血はねる戦場に近い。
“タバコはちょっと後に吸うだろう” “今頭にくるから吸うのに、ちょっと後に吸えと言うならのちほど頭にくるという話か” “…授業するのが大変じゃない。” “アそれでは頭にくるように活気質やめるか~.”
いつもトダルゴ皮肉って、会うたびに犬と猫のようにティギョクテギョッコリはこれら.
だが、100点満点に平均8点を渡せないジフンが再び自身をアメリカに送ろうとするお父さんの‘島流し宣言’にカッとして“50点を渡す”と大声を上げてから二人は仕方ない共助体制に入る。
そんなに映画はお互いに刺のあった言葉を浴びせた男女の背を向けて向かい合って座るようにしてとても発見できないお互いの長所に目を開くようにして結局には愛の感情で落としてしまう。
典型的なスクリューボールコメディの公式から抜け出さない安全な方向を選んだこの映画に意外な反転でも‘ジャーン’という結末は期待しない方が良い。
代わりにその当然の結末に達する過程、すなわち重いことも軽薄でもない可愛いキャラクターらとこれらがやりとりするセリフとシチュエーションを楽しむ必要がある。
実際の英文科98年度入学生であるチェ・スワン作家が自身の経験を2000年6月からナウヌリ ユーモア掲示板に連載した<スワとか-同い年の家庭教師>を原作にするこの映画は800X600のモニターで合わされた短くて軽快なインターネット世代の呼吸法をそのまま従う。
特に憂鬱な青春の肖像や(<バイ ジューン>),イルムチョルム‘ゆらゆらと’する少女上(<同感>)を見せたキム・ハヌルの変化は驚くべきであるほどだ。
いつも見るからにだらしなくて失敗だらけなのに加え、頭よりはからだを使って、時にはしらじらしく嬌態の微笑を送るキム・ハヌルの演技は相変らずいくつかの感情処理には未熟な瞬間もあるが劇中手腕のようにその未熟さまで魅力で近づく。
原作と最も大きい差を見せるのはすぐにジフンのキャラクターだ。
ただ染色頭におしゃれすること好きな遊び人高校生程度で終わったジフンは映画の中でそれよりは立体的な人物に化けた。
早期留学に失敗した状況や家庭事情に対する煩わしい説明が追いつくのではないが戦いを挑んできた学校チンピラに“お前がここに最高としそれではお前が継続しろ。 私は関心がない”として無表情に背を向けるジフンの顔の上ではどんなものも成就したくない意志薄弱と退屈することでぎっしり埋まったこの頃どんな十代の顔がさっと重なる。
また、登録料のために願わない課外を継続しなければならない手腕にも過去の‘トスニ’や‘キャンディ’のような姿を発見することは難しい。
経済的な優劣で見られない神経戦を行う両親世代らと別にこれらは“金を受け取ってする課外先生主題に…”や“お金のためにこらえる”という話を遠慮なく吐きだすことはあっても貧しい鶏の丸焼き店娘と金持ちの家坊ちゃんのような経済的身分差ぐらいは気を遣わないことだ。
この映画を見て<猟奇的な彼女>を思い出させるのはもしかしたら当然だ。
‘通信小説’という出生から始めて、‘傍若無人'方法の完ぺきな口語体のよどみないセリフ、若くて可愛い男女主人公、そして鶏の丸焼き(トンダッ)はねるピンセットを娘に容赦なく飛ばす手腕のママと先んじた‘朝鮮のげんこつ’に祈祷をしてご飯を食べるお父さんなど猟奇的な家族構成員まで。
ハンサムな容貌と財力で傍若無人におびやかすのが好きなジフンと彼に比べて受動的な手腕は<猟奇的な彼女>の牽牛と‘猟奇女’の性役割を置換させた、すなわち女の立場で使われた‘猟奇的なその奴’位というか。
だが、序盤の猟奇性にかかわらずに新派で終えた<猟奇的な彼女>の結末に比較すれば<同年齢課外>のそれは俳優のための、キャラクターによる映画という一つ目的を忘却しないで最後までクールに進む。
して<同いの家庭教師>は半分首席になる班長でなく努力終わりに初めから立たせておいた予想点数を10点ぐらい渡したし、それで次の試験結果が期待される相棒を見るように可愛くて感心な映画だ。
キム・ギョン兄監督インタビュー"新派と感性は抜いて、クールに"
慶煕(キョンヒ)大新聞放送学科を卒業してKBS助演出で仕事をしたキム・ギョン兄監督は新村(シンチョン)小劇場で<五! 夢の国>を見た瞬間を“映画に対する漠然としたあこがれが映画をしたいという興奮状態に変わる契機”だったと話す。
以後放送会社に辞表を投げて短編映画<青い服>をとったし忠武路(チュンムロ)演出部を経て<そうだ時々空を見よう>の助監督で仕事をした。 <同年齢課外>は彼の遅れたデビュー作だ。
原作を見た時面白味はあったが映画になろうかと思う心配が聞いた。
ただ料理される前今しがた捉えてあげた魚のような感じだった。
ひとまずインターネットという特性上完結した話構造を有していないで呼吸が短いエピソードで形成されていた。
結局全般的な劇の構成や周辺人物は新しく作り出さなければならなかった。
キム・ハヌルとクォン・サンウの課外授業状況は原作からきたのが多くて背景設定、特に女主人公の場合は新しく使った部分が多かった。
コメディの水位調節が容易ではなかっただろう。
基準はドラマでたてた。
進行過程がつじつまが合って行くならばその次にはどのように笑わせようがどんな空間にあろうがいかにも強情そうでなく近づくことだと信じた。
また、俳優に幾度もこの映画の外皮はコメディだ、しかし人物が持っている理由同じようなものはあきらめてはいけないということを話したりした。
すべての状況でなぜこうしなければならないかは分析的に入れなくてもジフンやはり基本的なペーソスがあるはずなのに少しでもそうした点を意識して行った方が良いと考えた。
状況が力を持つのでコメディの程度はわざわざ調節する必要なしに自然に進行されたようだ。
また、初期に脚色をしたパク・ヨンでは作家が書いた短い呼吸のセリフが良いのが多かったし。
キム・ハヌルはアドリブが殆どなかったがクォン・サンウは後半部に行くほど自然なアドリブが増えた。
その中おもしろいのはたくさん採択された。
>典型的なスクリューボールコメディの公式から抜け出さない安全な方向を選んだこの映画に意外な反転でも‘ジャーン’という結末は期待しない方が良い。
代わりにその当然の結末に達する過程、すなわち重いことも軽薄でもない可愛いキャラクターらとこれらがやりとりするセリフとシチュエーションを楽しむ必要がある。
青春ものだし意外な反転や‘ジャーン’という結末を期待するというより・・・
時にはジフンとスワンのやり取りに時にドキドキしたり
十分楽しめるよね~^^
>原作と最も大きい差を見せるのはすぐにジフンのキャラクターだ
そうなんだ。。。。
原作のジフンはどんな感じなのかな。。。?
>キム・ハヌルはアドリブが殆どなかったがクォン・サンウは後半部に行くほど自然なアドリブが増えた。 その中おもしろいのはたくさん採択された。
前にサンウも行ってたね^^
すごいよね・・・アドリブで行けるなんて
これも持って生まれた才能。。。感性だね^^
まだ続きます~