季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ドイツ人とピアノ

2015年03月13日 | 音楽
ドイツ奏法とやらの記事中、ドイツ人のピアノは下手だと受け取られるような書き方をしたが、いや実際にそう書いたが、丁度良い機会だ、僕が昔ドイツで教えていた時のことを記しておきたい。

僕にとっては大変面白い、有意義な体験だった。結構な人数を教えていたが、皆が皆よく練習したわけではない。その点は洋の東西を問わないのである。

で、印象を一言で言えば、何という不器用さだ、ということに尽きる。

指一本一本を動かせる人なぞ何処にもいない。ドイツ人を教えている日本人がドイツ人を教えるのはつまらないとボヤくのもむべなるかな、と。

ただし、日本人教師の嘆きへ一応の理解を示してみたけれど、僕自身がつまらないと思ったわけではない。実際は真反対だ。

指が「独立して」動かないものだから、彼らは腕をあらゆる方向に「捻って」弾く。言葉で簡単に説明することは不可能だ。詳しくはHPを読んで貰いたい。

実はこれは一番理に適った動きなのである。僕は自分の手を再構築している途上で、指だけがぴょこぴょこ動く運動では実のある音もパッセージも多寡が知れていることに関心が向いていた。

目の前の生徒たちは成る程練習して来ないかもしれない。滑らかに弾くことも出来ない。しかし、その出来なさ加減が日本人のそれとは全く別物なのである。

彼らの演奏?を熱心に観察しているうちに僕が進むべき道がはっきりして来たのだ。ハンゼンから受ける注意と明らかに重なる部分も見えてきた。

何のことはない、謝礼を頂きながら僕の方が学んだようなものだ。

さて不器用さを是認したまま彼らが少し熱心に取り組む。すると大変なスピードで進歩する。

それは丁度重い物体ほど加速度がつくような按配なのだ。

速い動きに限ったことではない。いや、それ以上に際立ったのが「長い」響きへの親和性だ。

当時も日本人の生徒は持っていたが、彼らには長い響きとはこんな響きだというところから示し、その為にはこの様な動きが必要だと教え込まねばならなかった。

それがドイツ人には、もう少し長い響きの方が良い、と言うだけで長く響くようになる。その生徒がよく練習するかどうかとは関係ないのである。

面白くて密かに観察したものであった。
それがドイツ人の持っている感覚だとしたら、現代のドイツ人ピアニストにもしっかり見受けられるはずだが、必ずしもそうとは限らない。

頭がハッキリしてきた時に自然な態度は傍に押し退けられるのだろうか?その原因は分からない。言えるのは、その特性の上に演奏は成り立つのだと知った指導者さえいれば彼らは実に自然に上達するということだ。

熱心に練習して見る間に上達したドビアス、楽譜を忘れて来ることが何度もあったクリストファー、帰国後何度も手紙をくれたアーニャ、僕が帰国すると聞いてオイオイ泣いたベンヤミン、彼らは元気だろうか。

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