季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ハンブルクのホールについて

2019年06月10日 | 音楽
二十代後半からおよそ10年を過ごしたハンブルクこそが僕にとっての故郷だというのに何のためらいもない。人生の中で最も肉体的な力のある時期をすごしたからであろうか。

そのハンブルクに新しいホールが出来たことは友人からの便りで知っていた。

奇抜な外観と内装は僕の知るハンブルクには似つかわしくないと残念な気持だけがあった。

音響は良いはずがない、聴くまでもない、そう思っていた。というのも正式な名称は知らないが、サントリーホールでお馴染みの舞台を客席が囲む様式だと知ったからである。(葡萄畑型と言うらしい。従来のホールは靴箱型だそうだ)

先日、この新しいホールについて朝日新聞に大きく報道されていたと教えられた。

なんでも、公演最中に「聴こえない」とブーイングがあり、席を立つ人が現れたところから改めて音響が論議の的になっているらしい。

サントリーホールの音響設計を手掛けた人がこのホールも設計したらしい。それはしかし今は問う必要がない。

新聞の記事ではゲルギエフによれば名ホールは優れた楽器同様、手なづける腕前が必要だという。その力量は楽器の配置を工夫して客席の死角をなくす処に発揮されるのだそうである。

そうした試みは大昔からなされている。しかしホールごとに配置を変えていたのではない。仮にそういうことをしたらオーケストラは互いの音を聴いてハーモニーを形成して育つことなぞ出来るはずがないではないか。昔から試された色々な配置は各オーケストラが自分達の音を形成しようという試みだったのである。ゲルギエフが主張するところとは違うのである。

設計者は現代の大ホールはキャパが大きすぎて従来の靴箱型ホールでは音響学的に満足できるものではないと葡萄畑型にした理由について述べたそうだ。

こうした様々の方面からの声から推察するだけでも、そもそもが収容人数ばかり多い大ホールは音楽を聴く環境にはないということになるではないか。

僕はベルリンのホールは知らない。しかし構造的に良い道理がないことは、図らずも設計者やゲルギエフが表明している。

葡萄畑型ホールは人々の視線を集めたい指揮者のエゴだという声も記事では紹介されている。

僕はこうした言い方を好まない。音響の良し悪しを論じるのとは違う次元だろう。もしも素晴らしい音響のホールならばそれがどんな型であっても構わないし指揮者のどの様な思惑であってもうっちゃっておけるのだ。

ゲルギエフの言葉ひとつみても、ハーモニーや伝統的な響きなどは最早何処にも残っていないと認めざるを得ない。僕はただただ残念なのである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿