中学生の頃、やたらと正義感の強かった頃があって、いろいろな所でモメ事を起こしていた事がありました。私の両親は前にも書いたように、少し荒っぽいところのある人達で、妙なモメ事など起こそうものなら家に帰ると生命の危険があるような家庭だったのですが、それでも、こういうモメ事に関して自分なりの説明をする機会を与えてはくれました。もちろん、自分なりに正義感に狩られてのモメ事なわけですから、自分が何を考えてそういう事を起こしたのかを説明してみせる事もできますし、その事で半殺しにされた記憶もない所を見ると、それなりに筋の通った事を言ってのけたのだと思います。
ただ、その際にいつも特に母親に言われたのは物事というのはある面から見れば絶対正しいと思えた事も角度を変えれば違う事があるのだから、色々な角度から見てみるようにしなければならないという意味の事でした。
私はその頃、このような考え方を受け入れる事ができなくて、正しい事は正しいし、間違っている事は間違っているんだと考えていましたし、絶対的な正義というのが存在すると信じて疑いませんでした。
それから何年も経って、私は価値観というのが様々である事は理解したのですが、それでもその根底に流れる善とか悪といった感覚についてはどこかに共通点があって、その中に絶対的な善とか悪とかが存在するはずだと思っておりました。そして、それは自分が旅をする上での興味の対象の一つとなっていきました。つまり、民族や文化や習慣の違いを越えて存在する絶対的な正義というのは何かという事です。
ところが旅をすればするほど、この点はわからなくなっていきました。色々な場所に身を置いてみれば、その度に新しい価値観、正義が現れ、そしてそれがその場ではいちいち正しい事に見えるのです。絶対的な価値観を探しているはずが、逆に自分自身のあいまいさを思い知らされる結果にもなっていったのです。そして結局、私の興味は共通点を探る事よりも、違いを探って楽しむ方向へ向いていきました。
そんなある日、いつのまにかそんな違いを感じなくなっている事にふと気がついたのです。価値観や正義の定義、それらは全て違っていても人間は人間であって、空腹も感じればそれぞれの価値観に基いたプライドや欲もあり、欲と善悪の感覚の中で逡巡しながら日々を懸命に暮しているものだなと思ったのです。それに気がついてみると、自分を騙そうとしてやってくる人間も、それに騙されまいとする自分もそれぞれが面白い事に思えてきて、今まで面倒に思っていた客引きなども興味深い対象となって、そのやりとりも旅の楽しみの一つとして形をとったのでした。
ただ、その際にいつも特に母親に言われたのは物事というのはある面から見れば絶対正しいと思えた事も角度を変えれば違う事があるのだから、色々な角度から見てみるようにしなければならないという意味の事でした。
私はその頃、このような考え方を受け入れる事ができなくて、正しい事は正しいし、間違っている事は間違っているんだと考えていましたし、絶対的な正義というのが存在すると信じて疑いませんでした。
それから何年も経って、私は価値観というのが様々である事は理解したのですが、それでもその根底に流れる善とか悪といった感覚についてはどこかに共通点があって、その中に絶対的な善とか悪とかが存在するはずだと思っておりました。そして、それは自分が旅をする上での興味の対象の一つとなっていきました。つまり、民族や文化や習慣の違いを越えて存在する絶対的な正義というのは何かという事です。
ところが旅をすればするほど、この点はわからなくなっていきました。色々な場所に身を置いてみれば、その度に新しい価値観、正義が現れ、そしてそれがその場ではいちいち正しい事に見えるのです。絶対的な価値観を探しているはずが、逆に自分自身のあいまいさを思い知らされる結果にもなっていったのです。そして結局、私の興味は共通点を探る事よりも、違いを探って楽しむ方向へ向いていきました。
そんなある日、いつのまにかそんな違いを感じなくなっている事にふと気がついたのです。価値観や正義の定義、それらは全て違っていても人間は人間であって、空腹も感じればそれぞれの価値観に基いたプライドや欲もあり、欲と善悪の感覚の中で逡巡しながら日々を懸命に暮しているものだなと思ったのです。それに気がついてみると、自分を騙そうとしてやってくる人間も、それに騙されまいとする自分もそれぞれが面白い事に思えてきて、今まで面倒に思っていた客引きなども興味深い対象となって、そのやりとりも旅の楽しみの一つとして形をとったのでした。
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