20年近く前の話になりますが、ある日旧友から電話がかかってきました。その頃には既に様々な国を旅していた私の事を、田舎の事ゆえ彼は知っているらしく、その話を聞いてみたいというような用件でした。
私は確か、どこかからちょうど帰国したところで、まだ大学の休みも少し残っているし、次のアルバイトを探すまで一休みしていたのだと思います。そして、何といってもその旧友の家までは私の住居からは徒歩20分ほどの距離だったのです。
そこで、早速会ってみることにしたのです。ただ、私に何かを聞きたいというよりも、何かを話したいという様子であった事が気にはなりましたが。
高校を卒業して以来、4年ほど会っていないその人物と、お互いのその後の近況を話したり、一つ二つ旅行のオモシロ話を披露した後、彼は自分の本題を話し始めたのでした。
彼の本題とは、とある新興宗教への勧誘だったのです。
この時の会話はほとんど記憶に残っていないのですが、一つだけ、いつまでも印象に残っている会話があります。
彼が述べたのは"この宗教は我々が高校で習ったような非科学的な迷信とは違って、非常に科学的なのだ"という意味の言葉です。
これに対して私が投げ返した言葉は、"俺は科学的に解明できる事は全て科学に担当してもらっているので、そこに更に宗教は必要ないんだよ。科学で上手くいかない事を宗教に担当してもらっているんだから、科学的な宗教は俺には不要だなぁ"
今でも時々、科学的な宗教という言葉を思い出す事があります。結局、この言葉自体が限りない矛盾をはらんでいると思うのです。"科学的"という事をその宗教の存在意義の一つとするのであればその事自体が科学万能主義的ですし、そうであれば宗教というのは存在しなくても良いと思うのです。自ら、自分の存在理由を否定するようなものですね。
一方で、我々を取り巻く様々な事象の全てを科学的に説明できるわけではありません。特に人の心に関る事柄を全て科学的に説明する事はできないのではないでしょうか。人の幸福についてもやはり科学的に計測したり実験したりする事ができない問題ではないでしょうか。
科学と宗教は相反するものではなく、全く違った分野で平行して存在するものなのです。だから、それぞれの得意とする分野で活躍してもらうべきものだと思います。また、非科学的であるという理由で宗教を否定するのも、その事自体が非科学的なのではないかとも思うのです。
私は確か、どこかからちょうど帰国したところで、まだ大学の休みも少し残っているし、次のアルバイトを探すまで一休みしていたのだと思います。そして、何といってもその旧友の家までは私の住居からは徒歩20分ほどの距離だったのです。
そこで、早速会ってみることにしたのです。ただ、私に何かを聞きたいというよりも、何かを話したいという様子であった事が気にはなりましたが。
高校を卒業して以来、4年ほど会っていないその人物と、お互いのその後の近況を話したり、一つ二つ旅行のオモシロ話を披露した後、彼は自分の本題を話し始めたのでした。
彼の本題とは、とある新興宗教への勧誘だったのです。
この時の会話はほとんど記憶に残っていないのですが、一つだけ、いつまでも印象に残っている会話があります。
彼が述べたのは"この宗教は我々が高校で習ったような非科学的な迷信とは違って、非常に科学的なのだ"という意味の言葉です。
これに対して私が投げ返した言葉は、"俺は科学的に解明できる事は全て科学に担当してもらっているので、そこに更に宗教は必要ないんだよ。科学で上手くいかない事を宗教に担当してもらっているんだから、科学的な宗教は俺には不要だなぁ"
今でも時々、科学的な宗教という言葉を思い出す事があります。結局、この言葉自体が限りない矛盾をはらんでいると思うのです。"科学的"という事をその宗教の存在意義の一つとするのであればその事自体が科学万能主義的ですし、そうであれば宗教というのは存在しなくても良いと思うのです。自ら、自分の存在理由を否定するようなものですね。
一方で、我々を取り巻く様々な事象の全てを科学的に説明できるわけではありません。特に人の心に関る事柄を全て科学的に説明する事はできないのではないでしょうか。人の幸福についてもやはり科学的に計測したり実験したりする事ができない問題ではないでしょうか。
科学と宗教は相反するものではなく、全く違った分野で平行して存在するものなのです。だから、それぞれの得意とする分野で活躍してもらうべきものだと思います。また、非科学的であるという理由で宗教を否定するのも、その事自体が非科学的なのではないかとも思うのです。
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