精霊の国でしばらく来らした事があります。もちろん精霊に取り囲まれて暮らしていたわけではなく、精霊信仰の話です。
タイ北部山岳地帯、ミャンマーとの国境に近いどこだかよくわからないカレン族の村で、この村はトレッキングなどのルートになっている少数民族の村とは違って、ツーリスト向けのインフラとしてのトイレやシャワーもなく、小さな雑貨屋もない村でした。
ここでの生活はとにかくシンプル。自然環境に恵まれたこの村では、おそらく村人全体で特定の地域を焼畑で開拓して、作物を植えたらあとは自然任せで作物は育つし、それ以外にも村の周辺に広がるジャングルには自生しているバナナなど、農作物以外にも食料が確保できたりもするのです。
ここでは日本のマスコミの皆さんが大好きな"勝ち組"とやらも存在しません。なぜなら現金収入というものがほとんど意味をなさないからです。店がないわけですから、お金は機能しないです。本当は完全に機能しないわけではなくて、他の少数民族との"交易"は行なわれていたのだとは思いますが。
食料はある程度、充分、そして村人皆が一つの畑を管理しているので、財産と呼べるものは"象"くらい(カレンは象使いの民族なのです)。つまり、借金苦を始めとして、現代社会の苦しみのほとんどから開放された社会といえます。恋愛の悩みも多分、ほとんど無いですね。小さな村の事ですから、恋心でも抱こうものならあっという間に相手には伝わってしまいます。
たとえば、共有の畑から多めに作物を取ってきて隠し持とうと思っても、電気が無いから冷蔵庫もないのですよ。だから畑からはその日食べる分だけを取ってくるし、畑以外で手に入れたものが充分なら、わざわざ畑に取りにも行かない。貯蓄の意識がないわけです。
当時の私は20代前半。そして同じ位の歳の村人も時間はあり余っています。その時間をセパタクローをやったり、遊び半分で狩や漁に行ったりして過ごしているのです。1日に何度も水浴する彼らは思いの他清潔で、これも健康管理の為の生活習慣かと感心したものです。
私はこの村を後にする時、"どうして出ていく必要があるんだ?ここに一生住めば良いじゃないか"という意味の事を村人の何人かに言われて、"それもそうだなぁ"と真剣に考えさせられたものです。
さて、このような村の呑気に感じる生活には、我々が現代社会で抱える悩みが無い代わりに他の悩みがあるのです。
まず、病気や怪我。商店も無いですから病院もありません。コブラにでも噛まれようものなら命取りです。電話はありませんから救急車も呼べません。
それから、自然災害なんかがあれば、貯蓄がないから一気に村全体に飢饉が訪れるでしょうし、動物に襲われたりする事もあるかもしれません。
つまり不安材料は常に自然を原因とするもので、そういう事だと足掻いてもとてもかなわないのは我々の社会と同じ事。それでもやはり不安は人の心を波立たせるものなのです。
だから、彼らは自然に祈ります。精霊たちです。自然を畏れ敬う気持から、精霊の存在を感じとって、対話を試みる事はとても理に叶った事に思えたのでした。
きっとあそこには精霊が住んでいるのだと今でも思うのです。
タイ北部山岳地帯、ミャンマーとの国境に近いどこだかよくわからないカレン族の村で、この村はトレッキングなどのルートになっている少数民族の村とは違って、ツーリスト向けのインフラとしてのトイレやシャワーもなく、小さな雑貨屋もない村でした。
ここでの生活はとにかくシンプル。自然環境に恵まれたこの村では、おそらく村人全体で特定の地域を焼畑で開拓して、作物を植えたらあとは自然任せで作物は育つし、それ以外にも村の周辺に広がるジャングルには自生しているバナナなど、農作物以外にも食料が確保できたりもするのです。
ここでは日本のマスコミの皆さんが大好きな"勝ち組"とやらも存在しません。なぜなら現金収入というものがほとんど意味をなさないからです。店がないわけですから、お金は機能しないです。本当は完全に機能しないわけではなくて、他の少数民族との"交易"は行なわれていたのだとは思いますが。
食料はある程度、充分、そして村人皆が一つの畑を管理しているので、財産と呼べるものは"象"くらい(カレンは象使いの民族なのです)。つまり、借金苦を始めとして、現代社会の苦しみのほとんどから開放された社会といえます。恋愛の悩みも多分、ほとんど無いですね。小さな村の事ですから、恋心でも抱こうものならあっという間に相手には伝わってしまいます。
たとえば、共有の畑から多めに作物を取ってきて隠し持とうと思っても、電気が無いから冷蔵庫もないのですよ。だから畑からはその日食べる分だけを取ってくるし、畑以外で手に入れたものが充分なら、わざわざ畑に取りにも行かない。貯蓄の意識がないわけです。
当時の私は20代前半。そして同じ位の歳の村人も時間はあり余っています。その時間をセパタクローをやったり、遊び半分で狩や漁に行ったりして過ごしているのです。1日に何度も水浴する彼らは思いの他清潔で、これも健康管理の為の生活習慣かと感心したものです。
私はこの村を後にする時、"どうして出ていく必要があるんだ?ここに一生住めば良いじゃないか"という意味の事を村人の何人かに言われて、"それもそうだなぁ"と真剣に考えさせられたものです。
さて、このような村の呑気に感じる生活には、我々が現代社会で抱える悩みが無い代わりに他の悩みがあるのです。
まず、病気や怪我。商店も無いですから病院もありません。コブラにでも噛まれようものなら命取りです。電話はありませんから救急車も呼べません。
それから、自然災害なんかがあれば、貯蓄がないから一気に村全体に飢饉が訪れるでしょうし、動物に襲われたりする事もあるかもしれません。
つまり不安材料は常に自然を原因とするもので、そういう事だと足掻いてもとてもかなわないのは我々の社会と同じ事。それでもやはり不安は人の心を波立たせるものなのです。
だから、彼らは自然に祈ります。精霊たちです。自然を畏れ敬う気持から、精霊の存在を感じとって、対話を試みる事はとても理に叶った事に思えたのでした。
きっとあそこには精霊が住んでいるのだと今でも思うのです。
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