「目白雑録(ひびのあれこれ)」の金井美恵子が、文芸評論家のなかでは唯一といってよいくらい評価していたので、文庫本の新刊コーナーに積んであったのを手にとってみた。
『反=日本語論』(蓮實 重彦 ちくま学芸文庫)
例によって、担当編集者による表紙カバーの紹介文を読んでみる。変な書き方だなと思う。それで読んでみたくなった。どこが変なのか、当ててみてください。
フランス文学者の著者、フランス語を母国語とする
夫人、日仏両国語で育つ令息。そして三人が出会う言
語的摩擦と葛藤のかずかず。著者はそこに、西欧と
日本との比較文明論や、適度な均衡点などを見出そう
するのではない。言葉とともに生きることの息苦しさと
苛立ちに対峙し、言語学理論を援用しつつ、神遠なる
言葉の限界領域に直接的な眼差しを向ける。それは、
「正しく美しい日本語」といった抽象的虚構を追い求める
従来の「日本語論」に対して、根源的な異議申し立てを行う
ことでもある。
解説 シャンタル蓮實
まず、「夫人」「令息」にひっかかるはず。「妻」「息子」と書くのがふつう。編集者が著者に恐縮遠慮している。次に気づくのが、わずか10行の紹介文のほとんどが否定によって埋められている。
西欧と日本との比較文明論や、適度な均衡点などを見出そうする、従来の「日本語論」
が、「根源的」に否定されている。その否定の発端は、日仏語がとびかう蓮實家の「言語的摩擦と葛藤のかずかず」であり、その依拠するところは、「言葉とともに生きることの息苦しさと苛立ち」であり、その根拠は、「言語学理論を援用しつつ」、言葉に「直接的な眼差しを向ける」ことだ。
しかし、「神遠なる言葉の限界領域」とは、持ち上げたものだ。そんな編集者の畏怖が伝わってくるから、「蓮實重彦ってのは、いったい何様なのか」という反発が起きるのはしかたがない。だが、本書を一読すると、たしかにこの紹介文のとおりの内容に間違いない。編集者が真似したか、影響されたか、否定を重ねる書き方も同じ。ぎくしゃくして、とても巧みとはいえない紹介文だが、よく内容を表しているといえる。蓮實重彦が何様扱いされているのを知るおまけ付きだから、じゅうぶん以上かもしれない。
それほど難しい本ではない。フランス人の、それもインテリの嫁さんを持つとどんなに苦労するか、日仏ハーフの息子の教育にどれほど頭を悩ますか、そういう覗き見的な興味もそれなりに満たされる。夫人の解説を読むと、シャンタル夫人とフランス語で対話するとき、蓮實は夫人の顔を見ず、「やや瞳を伏せ、身を傾ける」姿勢をするそうで、夫人はそれを「聞く視線」と呼んでいる。そんな夫や父のほろ苦いエッセイとしても読める。もちろん、そんな読み方は本書中で繰り返し否定されているのだが。
さて、帰納的に否定を重ねながら、演繹的に「言葉に直接的な眼差し」を提出しようとする、蓮實重彦の文芸の力については、次回のお楽しみ。印象としては、マッチョではなくタフネス。執拗なほど繰り返し変奏していくなかで、主題を次第に顕わしていく、その「日本人離れした」タフな文章に、たぶん編集者は圧倒されたのだろう。
たとえば、次回の例文に取りあげようと思っている「シルバーシートの青い鳥」でいうと、40字17行23頁という長文のなかで、「民主主義において、多数決はとるにたりない脇役に過ぎない」という蓮實の考察は、中盤のほんの枝葉に過ぎない。たしかに、西欧と日本の民主主義の比較に止まらない。均衡など測らない。そこから、いくつもの通説や妥当と思える考察が、痛快に否定されていく。
それは同時に、「外人離れした」、一日本人としての思考と葛藤が積み重ねられていく姿でもある。つまり、妻や息子や家庭生活を描いて見せたからエッセイなのではなく、自分という個の思想を語ろうとすることにおいて、エッセイなのだろうと本書を読んで気づかされた。家族と自分の関係性の生々しい叙述を避けたのは、それが下品だということでもなく、家族が読むだろうことを想定して控えたのでもなく、個の思想を語らんがためだと思えた(いやはや、俺もさっそく影響されて否定を重ねているよ)。
つまり、思想エッセイということです。どこかの誰かの借りもの思想ではなく、自分の思想について語っている。その困難さを考えるとき、シャンタル夫人と対話するときの蓮實を思い出す。身をはすにして瞳を伏せ、フランス語に聴き入るその姿を。そんな日本の一知識人の肖像という読後感もある。やっぱり難しげになってしまったが、蓮實がこの本を書いたのは、1970年代の40歳に満たないときだ。けっして若くはなく、若書きではまったくないが、家族との関係性についても、まだ初々しい感性と視線がうかがわれる。
次回の予告として、こんなクイズを。
「ローマ帝国の将軍といえば・・・」
「シーザー!」
「そう、シーザーですが、そのときのエジプトの女王といえば・・・」
「クレオパトラ!」
「はい、ではハリウッドでクレオパトラを演じた女優といえば・・・」
「エリザベス・テーラー!」
「ですが、相手役のアントニーを演じた・・・」
「リチャード・バートン!」
「ですが、なぜリチャード・バートンはシーザー役ではなかったのでしょうか?」
「・・・」
これらの質問がすべて、否定で続けられると思ってください。おもしろそうでしょ。
(敬称略)
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