親友のパブロを身代わりに殺され、エスポシトは列車で逃げようとします。見送りに来たイレーネと、束の間、身体を寄せ合います。これほど接したのは、二人には初めてのことでした。互いを強く淡く意識しながら、それまでキスや手を握ることはおろか、仕事に関すること以外に話をしたことさえなかった。ただ、互いの視線を求め、視線を交わしていただけでした。
小道具となったのは、ドアです。ドアの開閉です。刑事裁判所幹部であるイレーネは、当然、自分の執務室を持っています。エスポシトをはじめ、捜査官や秘書といった部下たちが、イレーネに報告のため、決済や判断を求めて、頻繁に執務室のドアを出入りします。ドアはたいてい、開け放したまま。よほど内密な用件でない限り、イレーネは大きな執務机で書類に顔を伏せたまま、「ドアは開けておいて」と命じます。
能率のためばかりではなく、男ばかりの職場である刑事裁判所で、男女がひとつ部屋に籠もることが、あらぬ誤解を招きかねず、身の危険もありえる、という配慮からでしょう。マチズモ(男権主義)が伝統的な南米社会では、女性はまず性の対象なのです。エリートキャリアウーマンながら、イレーネは十分世知にも長けているわけです。エスポシトに対しても、もちろんそれは変わりません。
ある日、エスポシトが物思わしげな顔で入室し、どう切り出すべきか言い出しかねている様子です。「どうしたの?」イレーネは尋ねます。「言い難いんだが、君に話したいことがある。実は、」「ドアを閉めて」とイレーネはさえぎります。その黒曜石の瞳を期待に輝かせ、待ちかねていたプライベートの話を待ちます。
しかし、エスポシトは、捜査打ち切りになった、モラレス夫人殺害事件の再捜査を願い出たのでした。落胆にくすむイレーネの瞳。やり手で世知にも長け、けっして公私混同はしないイレーネですが、エスポシトの前では少女同然なのです。
これきりの別れになるかもしれないのに、エスポシトはイレーネに触れてようか迷っています。頬を寄せながら、キスをためらい、ぎこちなく身を離すエスポシト。視線をとらえようとするイレーネと逸らしてしまうエスポシト。親友パブロを死なせ、殺人犯ゴメスは野放し、眼前の好きな女と別れが迫る、自責と自虐で張り裂けそうなエスポシトに対し、イレーネはただエスポシトのことだけを心配しています。
二人が遠く離ればなれになるだけでなく、心も離れていこうとしている、悲しい触れあいの場面です。哀れイレーネ。それでも男かエスポシト。「待っていてくれ」「必ず迎えに来る」。どうして、そのひと言が言えない。そりゃ、言えないわなあ。言えるわけがない。すべてを台無しにしたのは自分自身なのだから。結局、エスポシトは自分のことだけで頭がいっぱいなのです。でも、よくわかるなあ、その気持ち。
つねに、エスポシトはイレーネに臆し、積極的になれないのに比べ、イレーネは真っ直ぐにエスポシトに向かい、受け入れようとしています。それは二人の性格や身分の違いだけにとどまらない、別の背景もありそうです。字幕を読んだだけの記憶ですが、イレーネは自らを「アメリカ人」といっています。アメリカ国籍もしくはアメリカ移民が、アルゼンチン司法官僚になるとは考えにくいので、アメリカで生まれ育ったアルゼンチン人とも読めます。
一方、エスポシトの名前は、ベンハミン。どうもユダヤ人っぽい名前です。自由の国アメリカの空気を吸ったイレーネに、「南米のヨーロッパ」の階級社会でユダヤ系として生きてきたエスポシト。イレーネを抱き寄せ口づけすることがどうしてもできない、いくつもの心理的な障壁がベンハミン・エスポシトにはあるのかもしれません。しかし、エスポシトのイレーネへの思いは、ただ内向しているだけでもない。その件は後に譲るとして、この映画のハイライトシーンに急ぎましょう。
話らしい話もせずにエスポシトは列車に乗りこみます。ホームから見送るイレーネ。「着いたら電話してね」。うなづくエスポシト。カメラは、車内からホームのイレーネを見るエスポシトの視線になり代わります。イレーネは動き出した列車について歩き出します。やがて早足になり、ついに走り出します。少し太めの下半身がスカートにまつわりつくほど、懸命に走るイレーネ。ようやく列車に追いつき、車窓の内と外、二人はわずかの間、掌を合わせます。
しかし、スピードを上げた列車に、引き離され小さくなっていくイレーネ。蒸気と汚れに曇った車窓の遠く後方で、まだイレーネは走っています。その小さな小さな姿が、エスポシトの網膜に残ります。車窓のガラスには、二人の掌の跡が残っています。同様な列車とホームの別離シーンは数多くの映画にありましたが、そのなかでも特筆すべき名場面ではないでしょうか。それが25年前のことでした。
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