科学メディアは知らないが、一般メディアで笹井記者会見への批判や反論を見かけない。「小保方会見は科学的ではなかった」という声が大学教授や科学ジャーナリストから批判が多かったはずだが、笹井会見はその小保方会見を科学研究的に裏づけ、データも少なからず理研に保管しているとした。当然、先の大学教授や科学ジャーナリストなど批判者たちから、何か再反論があるものと待っているのに、いまだ出てこない。
STAP細胞そのものを偽科学とするか、STAP細胞の捏造を前提とするほかない有力な反証仮説を期待しているのだが、はたして出るのだろうか。出なければ、実証的ではないという意味で、「科学的ではない」のは、はたしてどちらなのかと問いたくなる。
それとも、この人たちの「科学的」とは、「オレ的こだわりでいえば」とか、そこらのラーメン屋の蘊蓄と変わらないものなのか。
小保方さんは、写真データの「切り貼り」や「流用」の事実関係については争わず認め、その評価について、「取り違い」などと異議を申し立てている。それに対して、「実証的ではない」という批判ならともかく、「科学的ではない」とした。いわば、「科学」の名において彼らは小保方さんを断罪したに等しい。
それとも、この人たちの「科学的」とは、「オレ的こだわりでいえば」とか、そこらのラーメン屋の蘊蓄と変わらないものなのか。
論文の不備不正それ自体が重大な問題というなら、まず理研のコンプライアンスに属する問題になるはずで、批判されるべきは理研である。また、小保方側から、故意による捏造ではなく過失という反論があったのだから、少なくとも現段階では「捏造」が確定したわけではない。少なくとも、「科学の世界では、それを捏造という」では、小保方弁護団には通じないだろう。
それとも、この人たちの「科学的」とは、「オレ的こだわりでいえば」とか、そこらのラーメン屋の蘊蓄と変わらないものなのか。
その一方、野依理研理事長は、「彼女は未熟だった。教育をやり直さなければ」と表明しており、山中伸弥氏も、「最近の若い人は、実験は上手だが研究者として未熟な人が多い」と講演している。今回のNature論文問題を小保方さんの研究者としてディシプリンの不足に帰着させているわけだ。ならば、一般的にいって、未熟それ自体は不正とはされず、ましてや罪悪などではない。未熟によって不正をしでかしたのなら、周囲は寛容であるべきだろう。
もちろん、未熟だろうが何だろうが、その不正が違法だったり、何らかの被害をもたらしていた場合は、罪科を問われ補償を免れないのは当然のことだ。では、今回のNature論文問題の場合、どのような補償すべき被害が引き起こされたのか、いまのところ不明である。丹羽も若山も笹井も、「お手伝い」しただけだというから、Nature論文に文責が不在だったことだけは確定しているが。
いったい、「科学」の名において批判されるべきは、理研ではないのか。小保方さんが未熟ゆえに非難されるなら、野依、丹羽、若山、笹井はどうなのか。当然、彼らもまた「未熟」であり、「科学的でない」というのが、論理的な帰結だろう。
それとも、この人たちの「科学的」とは、「オレ的こだわりでいえば」とか、そこらのラーメン屋の蘊蓄と変わらないものなのか。
(ラーメン屋さん、ダシにしてすまん)
Bessie Griffin - Sometimes I Feel Like A Motherless Child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
A long way from home
A long way from my home
Sometimes I feel like I'm almost gone
Sometimes I feel like I'm almost gone
Sometimes I feel like I'm almost gone
Way up in de heab’nly land
Way up in de heab’nly land
True believer
Way up in de heab’nly land
Way up in de heab’nly land
ときどき私は母親のない子のような気がする
ふるさとを遠く離れて
ときどき私はこの世を去ってしまったように思うことがある
はるか天国の高みへと
心から神を信じる者よ
ときどき私は母親のない子のような気がする
ふるさとを遠く離れて
-小川洋司訳
(敬称略)
STAP細胞そのものを偽科学とするか、STAP細胞の捏造を前提とするほかない有力な反証仮説を期待しているのだが、はたして出るのだろうか。出なければ、実証的ではないという意味で、「科学的ではない」のは、はたしてどちらなのかと問いたくなる。
それとも、この人たちの「科学的」とは、「オレ的こだわりでいえば」とか、そこらのラーメン屋の蘊蓄と変わらないものなのか。
小保方さんは、写真データの「切り貼り」や「流用」の事実関係については争わず認め、その評価について、「取り違い」などと異議を申し立てている。それに対して、「実証的ではない」という批判ならともかく、「科学的ではない」とした。いわば、「科学」の名において彼らは小保方さんを断罪したに等しい。
それとも、この人たちの「科学的」とは、「オレ的こだわりでいえば」とか、そこらのラーメン屋の蘊蓄と変わらないものなのか。
論文の不備不正それ自体が重大な問題というなら、まず理研のコンプライアンスに属する問題になるはずで、批判されるべきは理研である。また、小保方側から、故意による捏造ではなく過失という反論があったのだから、少なくとも現段階では「捏造」が確定したわけではない。少なくとも、「科学の世界では、それを捏造という」では、小保方弁護団には通じないだろう。
それとも、この人たちの「科学的」とは、「オレ的こだわりでいえば」とか、そこらのラーメン屋の蘊蓄と変わらないものなのか。
その一方、野依理研理事長は、「彼女は未熟だった。教育をやり直さなければ」と表明しており、山中伸弥氏も、「最近の若い人は、実験は上手だが研究者として未熟な人が多い」と講演している。今回のNature論文問題を小保方さんの研究者としてディシプリンの不足に帰着させているわけだ。ならば、一般的にいって、未熟それ自体は不正とはされず、ましてや罪悪などではない。未熟によって不正をしでかしたのなら、周囲は寛容であるべきだろう。
もちろん、未熟だろうが何だろうが、その不正が違法だったり、何らかの被害をもたらしていた場合は、罪科を問われ補償を免れないのは当然のことだ。では、今回のNature論文問題の場合、どのような補償すべき被害が引き起こされたのか、いまのところ不明である。丹羽も若山も笹井も、「お手伝い」しただけだというから、Nature論文に文責が不在だったことだけは確定しているが。
いったい、「科学」の名において批判されるべきは、理研ではないのか。小保方さんが未熟ゆえに非難されるなら、野依、丹羽、若山、笹井はどうなのか。当然、彼らもまた「未熟」であり、「科学的でない」というのが、論理的な帰結だろう。
それとも、この人たちの「科学的」とは、「オレ的こだわりでいえば」とか、そこらのラーメン屋の蘊蓄と変わらないものなのか。
(ラーメン屋さん、ダシにしてすまん)
Bessie Griffin - Sometimes I Feel Like A Motherless Child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
A long way from home
A long way from my home
Sometimes I feel like I'm almost gone
Sometimes I feel like I'm almost gone
Sometimes I feel like I'm almost gone
Way up in de heab’nly land
Way up in de heab’nly land
True believer
Way up in de heab’nly land
Way up in de heab’nly land
ときどき私は母親のない子のような気がする
ふるさとを遠く離れて
ときどき私はこの世を去ってしまったように思うことがある
はるか天国の高みへと
心から神を信じる者よ
ときどき私は母親のない子のような気がする
ふるさとを遠く離れて
-小川洋司訳
(敬称略)
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