
一枚の古ぼけたモノクロ写真がある。3才と5才の幼い兄弟が祭り半天を身にまとい,バラック建てのようなボロ家の前で仲良く並んで笑っている。チビた下駄をはき,頭に鉢巻き,顔にはうっすら化粧をほどこし,兄は弟の手をしっかりと握っている。小さいのが3才の私,そして大きい方が5才の兄だ。今ではとうに記憶が薄れてしまって当時のことなどほとんど何も思い出せないのだが,恐らくは秋祭りのときのスナップ写真だろうか。いかにも質素で貧しく,けれどもそれなりに愉快で楽しく平穏な日々を過ごした兄弟の幼年時代が古い写真に焼き付けられている。
その兄が先週,交通事故に遭って急逝した。
水曜日の朝8時前,幹線道路の路肩に仕事仲間と一緒に車を縦列駐車し,その車と車の間で一寸打合せをしているとき,対向車線から大型ダンプがセンターラインをはみ出して止めてある車に向かって一気に突っ込んできた。前の車は激しくクラッシュし,後ろの車との間に二人は挟まれた。仲間の人は胸部及び腰部を潰されて骨折する重傷を負ったが命だけはとりとめた。しかし兄の方は後頭部を強打して死亡した。ほぼ即死状態だったという。トラック運転手の居眠り運転が事故の原因だと後になって聞かされた。まるで天空から落下した隕石にぶつかったかのように,ひとつの命がそのようにしてあっけなく途絶えた。享年五十六才。
予測不能の災難とはいえ,それは決して夢でも絵空事でもなく,ほんの数日前に起きた現実の出来事なのである。人は実に簡単に死んでしまうものだ。先般の新潟中越地震における数々の悲惨な災害事故を想起するまでもなく,人は天災で死に,事故で死に,事件で死に,そして戦争で死にゆく。人生の終わりに待ち受けているのは,緩慢な死か突然の死。そんなことは重々承知しているけれども,そんな突然の死に対して,残された者はどのような意味を見出せばいいのだろうか。無念の思いを強く抱きながら,無駄であるとは知りながら,こぼれたミルクを見て泣くばかりだ。
兄のことを少しだけ記しておきたい。
思えば幼小の頃より極めて自立心・独立心の強い兄であった。学校の勉強はほとんどやらなかったけれども,遊びには常に一生懸命,働くことにも一生懸命。小さい頃から社会勉強は人より数段多くこなしていた。何もせずにボーッとしている兄を見たことがない。いつでも身体を動かしていた。何しろ小学6年生の夏休みの時,知人のツテを頼りにたった一人で長野県にある製罐工場に10日以上もアルバイトに出掛けたくらいだから。
いっぽう,対照的に心身ともに脆弱でいつも夢見がちにボーッとしていることの多かった私は,兄から見れば優柔不断で頼りない,何とも不甲斐ない弟として映じていたと思う。とりわけ私の「幼児性」がキビシク叱責されることが多く,結果として,兄は私に対して時に強引であり時に突き放すようであり,頑固で気紛れな指導教官のごとき存在であった。上の写真のように,いつだって私の手を無理矢理つかんで面白そうな所があればすぐにでも連れて行こうとした。
ハイティーンの頃,既に手に職を持って働いていた兄は,どういう風の吹き回しか急に狩猟免許を取得して散弾銃を購入した。そして休日になると,ひとり鉄砲を背負い,おもに近所の里山に鳥撃ち猟に出掛けた。当時は横浜市鶴見区に住まいがあったのだが,現在,港北ニュータウンとして整備されている港北区・青葉区・緑区の一帯は,その頃はほとんど田んぼと畑と山林だらけの,ヒトよりケモノの方が多い農村丘陵地帯だった。何度か誘われて狩猟のお供をした。農家の裏山みたいなところで銃を撃つのである。いったい何に憑かれていたのだろう。ヒヤヒヤ・ドキドキしながら兄の姿を傍らで眺めていた私は,後ろから袖を引くような思いで,ちっとも楽しくなんかなかった。
一度,県北の裏丹沢方面まで遠出をしたことがある。季節は1月末,真冬の良く晴れた日だった。宮ヶ瀬ダム貯水池に架かる虹の大橋が完成したばかりの頃で,もちろんダム本体工事の着工よりもずっと以前のことである。鳥屋の集落から早戸川の渓谷沿いに林道を進み,渓流釣り場の丹沢観光センターの少し先で車を置いて,そこからさらに上流に向かって山道を歩き出した。兄はとにかく足が達者で,私は空身なのに息を切らして後を付いていくのが精一杯だった。
1時間近く歩いただろうか。急に兄が私に向かって叫んだ。「ホラ,大滝だ!」 その声に反応して顔を上げると,前方のやや遠くに落差50m以上もある早戸大滝が,全面に氷結した太い一条の帯となって実に見事なまでに光輝いていた。それは天から地に降臨した光の河のようだった。それから二人は大滝の氷瀑に向かって散弾銃を何度か撃ち放った。弾は凍り付いた滝の一部を砕き,そのたびに微細な光の矢となって冷気のなかに分散し,ツーンとした残響が深閑とした真冬の山中に谺した。空虚な爽快感と潔い喪失感。そのときばかりは兄が抱えていたであろう孤独の影をほんの少しだけ垣間見たような気がした。
その後,10代後半の数年間に自動車セールス関係の仕事で幾ばくかの金を蓄えた兄は,20才を少し過ぎた頃に思い立って会社を辞め,突然,シベリア鉄道経由でヨーロッパへと旅立っていった。母と私は横浜港の大桟橋まで出掛けてナホトカ号で出航する兄を見送った。それから4年近くの間,兄はヨーロッパやアフリカの各地を放浪し続けた。
長じて大学生になっても相変わらずの甘チャンであった私は,多少は兄の驥尾に付きたいという思いもあったのだろう。やはりアルバイトで小金を貯めて,ある夏,ヨーロッパに旅した。約2年ぶりで兄と再会したのは西ドイツのハンブルグ市である。夕刻,ハンブルグ中央駅に降りたった私を笑顔で出迎えた兄の様子は日本を出発する前とちっとも変わっていなかった。なぁんだ,全然苦労なんかしてないみたいだ,相変わらずのマイペースでやってるんだな,とその時は思った。その夜,場末の怪しげな飲み屋に案内されて久しぶりに多くを歓談した。そこでの兄は日本の駐在商社員やら土地の職人やら,はたまた妖艶な夜のオネーサンまで,いろんな人々とごく自然に楽しげに話を交わしていることに驚いた。そして,ドイツ・ビールを飲みながら知り合いたちに弟である私を嬉しそうに紹介している兄の様子をみているうちに,思わず3才の頃の自分に戻ったような気になった。。。。
今になって振り返ると,こんな思い出あんな思い出と断片的な過去の記憶が次々と蘇ってくるのだが,現在の私にはこれ以上を記述する気力がない。いつか日を改めて何処かに書き留めておきたい。
それにしても,兄の人生とは一体何だったのだろうか? 「どうせ一度の人生だから,やりたいようにやるだけさ」 そんな都々逸があるのかどうか知らんが,兄の人生訓はまさにそれであったと思う。そして特筆すべきは,上昇志向など皆無の真っ正直で人情味溢れた個人主義者がその人生訓を誠実に実行し続けたということだ。幸せな50余年であったと思いたい。私にとっては長らく反面教師だったけれども,結局のところ「賢兄愚弟」のままで終わってしまった。不甲斐ない弟として,悔やんでも悔やみ切れない。
交通事故による死のリスク,それは1億分の1万ほどの確率で起こりうる,いわばジャンボ宝くじの一等賞よりも数万倍高いリスクであると理屈では判っている。判っていても,誰もがそんなことは考えないようにして日々を過ごしているのだろう。そんなこと気にしてたらマトモに暮らしていけないじゃないか。けれどよくよく考えてみれば,自動車に極度に依存する現代クルマ社会に生きるということは,言い換えればロシアン・ルーレットの参加メンバーとして自らを受け入れることに他ならないのだ。で,その胴元は誰なのか。不運な籤を引き当てた者は,社会に選別・淘汰された者として甘んじて消え去るのみなのか。辛い現実である。この深い悲しみは,けれど決して憎しみや怒りに転嫁することがない。振り上げた拳をどこにおろせばいいのか。
言葉が尽きた。 さよなら。天国で安らかに眠って下さい,兄さん!
その兄が先週,交通事故に遭って急逝した。
水曜日の朝8時前,幹線道路の路肩に仕事仲間と一緒に車を縦列駐車し,その車と車の間で一寸打合せをしているとき,対向車線から大型ダンプがセンターラインをはみ出して止めてある車に向かって一気に突っ込んできた。前の車は激しくクラッシュし,後ろの車との間に二人は挟まれた。仲間の人は胸部及び腰部を潰されて骨折する重傷を負ったが命だけはとりとめた。しかし兄の方は後頭部を強打して死亡した。ほぼ即死状態だったという。トラック運転手の居眠り運転が事故の原因だと後になって聞かされた。まるで天空から落下した隕石にぶつかったかのように,ひとつの命がそのようにしてあっけなく途絶えた。享年五十六才。
予測不能の災難とはいえ,それは決して夢でも絵空事でもなく,ほんの数日前に起きた現実の出来事なのである。人は実に簡単に死んでしまうものだ。先般の新潟中越地震における数々の悲惨な災害事故を想起するまでもなく,人は天災で死に,事故で死に,事件で死に,そして戦争で死にゆく。人生の終わりに待ち受けているのは,緩慢な死か突然の死。そんなことは重々承知しているけれども,そんな突然の死に対して,残された者はどのような意味を見出せばいいのだろうか。無念の思いを強く抱きながら,無駄であるとは知りながら,こぼれたミルクを見て泣くばかりだ。
兄のことを少しだけ記しておきたい。
思えば幼小の頃より極めて自立心・独立心の強い兄であった。学校の勉強はほとんどやらなかったけれども,遊びには常に一生懸命,働くことにも一生懸命。小さい頃から社会勉強は人より数段多くこなしていた。何もせずにボーッとしている兄を見たことがない。いつでも身体を動かしていた。何しろ小学6年生の夏休みの時,知人のツテを頼りにたった一人で長野県にある製罐工場に10日以上もアルバイトに出掛けたくらいだから。
いっぽう,対照的に心身ともに脆弱でいつも夢見がちにボーッとしていることの多かった私は,兄から見れば優柔不断で頼りない,何とも不甲斐ない弟として映じていたと思う。とりわけ私の「幼児性」がキビシク叱責されることが多く,結果として,兄は私に対して時に強引であり時に突き放すようであり,頑固で気紛れな指導教官のごとき存在であった。上の写真のように,いつだって私の手を無理矢理つかんで面白そうな所があればすぐにでも連れて行こうとした。
ハイティーンの頃,既に手に職を持って働いていた兄は,どういう風の吹き回しか急に狩猟免許を取得して散弾銃を購入した。そして休日になると,ひとり鉄砲を背負い,おもに近所の里山に鳥撃ち猟に出掛けた。当時は横浜市鶴見区に住まいがあったのだが,現在,港北ニュータウンとして整備されている港北区・青葉区・緑区の一帯は,その頃はほとんど田んぼと畑と山林だらけの,ヒトよりケモノの方が多い農村丘陵地帯だった。何度か誘われて狩猟のお供をした。農家の裏山みたいなところで銃を撃つのである。いったい何に憑かれていたのだろう。ヒヤヒヤ・ドキドキしながら兄の姿を傍らで眺めていた私は,後ろから袖を引くような思いで,ちっとも楽しくなんかなかった。
一度,県北の裏丹沢方面まで遠出をしたことがある。季節は1月末,真冬の良く晴れた日だった。宮ヶ瀬ダム貯水池に架かる虹の大橋が完成したばかりの頃で,もちろんダム本体工事の着工よりもずっと以前のことである。鳥屋の集落から早戸川の渓谷沿いに林道を進み,渓流釣り場の丹沢観光センターの少し先で車を置いて,そこからさらに上流に向かって山道を歩き出した。兄はとにかく足が達者で,私は空身なのに息を切らして後を付いていくのが精一杯だった。
1時間近く歩いただろうか。急に兄が私に向かって叫んだ。「ホラ,大滝だ!」 その声に反応して顔を上げると,前方のやや遠くに落差50m以上もある早戸大滝が,全面に氷結した太い一条の帯となって実に見事なまでに光輝いていた。それは天から地に降臨した光の河のようだった。それから二人は大滝の氷瀑に向かって散弾銃を何度か撃ち放った。弾は凍り付いた滝の一部を砕き,そのたびに微細な光の矢となって冷気のなかに分散し,ツーンとした残響が深閑とした真冬の山中に谺した。空虚な爽快感と潔い喪失感。そのときばかりは兄が抱えていたであろう孤独の影をほんの少しだけ垣間見たような気がした。
その後,10代後半の数年間に自動車セールス関係の仕事で幾ばくかの金を蓄えた兄は,20才を少し過ぎた頃に思い立って会社を辞め,突然,シベリア鉄道経由でヨーロッパへと旅立っていった。母と私は横浜港の大桟橋まで出掛けてナホトカ号で出航する兄を見送った。それから4年近くの間,兄はヨーロッパやアフリカの各地を放浪し続けた。
長じて大学生になっても相変わらずの甘チャンであった私は,多少は兄の驥尾に付きたいという思いもあったのだろう。やはりアルバイトで小金を貯めて,ある夏,ヨーロッパに旅した。約2年ぶりで兄と再会したのは西ドイツのハンブルグ市である。夕刻,ハンブルグ中央駅に降りたった私を笑顔で出迎えた兄の様子は日本を出発する前とちっとも変わっていなかった。なぁんだ,全然苦労なんかしてないみたいだ,相変わらずのマイペースでやってるんだな,とその時は思った。その夜,場末の怪しげな飲み屋に案内されて久しぶりに多くを歓談した。そこでの兄は日本の駐在商社員やら土地の職人やら,はたまた妖艶な夜のオネーサンまで,いろんな人々とごく自然に楽しげに話を交わしていることに驚いた。そして,ドイツ・ビールを飲みながら知り合いたちに弟である私を嬉しそうに紹介している兄の様子をみているうちに,思わず3才の頃の自分に戻ったような気になった。。。。
今になって振り返ると,こんな思い出あんな思い出と断片的な過去の記憶が次々と蘇ってくるのだが,現在の私にはこれ以上を記述する気力がない。いつか日を改めて何処かに書き留めておきたい。
それにしても,兄の人生とは一体何だったのだろうか? 「どうせ一度の人生だから,やりたいようにやるだけさ」 そんな都々逸があるのかどうか知らんが,兄の人生訓はまさにそれであったと思う。そして特筆すべきは,上昇志向など皆無の真っ正直で人情味溢れた個人主義者がその人生訓を誠実に実行し続けたということだ。幸せな50余年であったと思いたい。私にとっては長らく反面教師だったけれども,結局のところ「賢兄愚弟」のままで終わってしまった。不甲斐ない弟として,悔やんでも悔やみ切れない。
交通事故による死のリスク,それは1億分の1万ほどの確率で起こりうる,いわばジャンボ宝くじの一等賞よりも数万倍高いリスクであると理屈では判っている。判っていても,誰もがそんなことは考えないようにして日々を過ごしているのだろう。そんなこと気にしてたらマトモに暮らしていけないじゃないか。けれどよくよく考えてみれば,自動車に極度に依存する現代クルマ社会に生きるということは,言い換えればロシアン・ルーレットの参加メンバーとして自らを受け入れることに他ならないのだ。で,その胴元は誰なのか。不運な籤を引き当てた者は,社会に選別・淘汰された者として甘んじて消え去るのみなのか。辛い現実である。この深い悲しみは,けれど決して憎しみや怒りに転嫁することがない。振り上げた拳をどこにおろせばいいのか。
言葉が尽きた。 さよなら。天国で安らかに眠って下さい,兄さん!