~ 如意輪観世音菩薩 半跏思惟像 ~
この16センチに満たない愛らしい仏様は、
奈良・岡寺の如意輪観世音菩薩 半跏思惟像の
アートとしてのレプリカである。
右手を頬に当てて思惟する姿は、京都・広隆寺の弥勒菩薩と
奈良・中宮寺の如意輪観世音菩薩 (共に国宝)が有名で、
どちらも素晴らしいが、可愛らしく微笑ましいという意味では
この岡寺の菩薩半跏思惟像が、私は一番に好きである。
* * *
この仏様はレプリカなので、本来は信仰の対象にはならないけれど、
穏やかで優しい姿に向き合っていると、何故か素直な気持ちになれて、
固くなった心がほぐされ、心にふわっとあたたかい風が吹いてくるのである。
この16センチに満たない愛らしい仏様は、
奈良・岡寺の如意輪観世音菩薩 半跏思惟像の
アートとしてのレプリカである。
右手を頬に当てて思惟する姿は、京都・広隆寺の弥勒菩薩と
奈良・中宮寺の如意輪観世音菩薩 (共に国宝)が有名で、
どちらも素晴らしいが、可愛らしく微笑ましいという意味では
この岡寺の菩薩半跏思惟像が、私は一番に好きである。
* * *
この仏様はレプリカなので、本来は信仰の対象にはならないけれど、
穏やかで優しい姿に向き合っていると、何故か素直な気持ちになれて、
固くなった心がほぐされ、心にふわっとあたたかい風が吹いてくるのである。
先日は美形な毘沙門天のご紹介を有難うございました。
興味深く拝見致しました。
会期中に、何とか都合をつけて行きたいと思います。
そうですねえ、、私にとっては既に念持仏と言えますね。
求めた時には、仏像というよりは彫刻作品としての比重が大きかったのですが、今では安らぎの仏様になっていますからね。
全ての仏像が釈尊のレプリカと考えると、国宝の如意輪観世音さんもこの如意輪観世音さんも同じですね。
大乗仏教の考えにも沿っていますし、まんざら極論ではないような気がします。
はい、良い相棒に巡り合えたと喜んでいます。
古寺行脚ですね、私もぼちぼちと後を追わせて頂きます。有難うございました。
信仰心とか信心と云うようなかた苦しい精神論ではなくて、
お手元の如意輪さんは、すでにatsukoさんの念持仏と云えるのではないですか。
atsukoさんの「向き合うと自然と敬虔な気持ちになります」この言葉がすべてだと思います。
ガンダーラで発祥した釈迦思慕の石仏が姿を変えて我が国までたどり着いたその過程での、
いろんな仏の形は言い換えれば、総て釈迦のレプリカ、
しかしそれらが釈迦思慕の対象の仏の形と捉えたら、決してレプリカではない。
(大乗の思想とは違う、ボクの極論です)
いい相棒をお持ちですネ、羨ましいです。
仏壇以外手を合わす対象がないボクなどは、対象を求めて古寺行脚です。
この仏様の周囲には、ゆっくりと流れる違った時間があるように感じられます。
レプリカなのに清浄な空気感もあって、向き合うと自然と湧き上がった邪悪な気持ちが消えていきます。
私にとっては、自分の心の奥底の掃除をしてくれるような仏様です。
そして、全てを受け入れてくれて、優しく包み込んでくれて、ゆったりとした気分になります。
何だか、私の魂を吸い取って、きれいにして戻してくれるような感じです。
レプリカでも立派に仏様だなあ、、と思います。
ですから、向き合うと自然と敬虔な気持ちになります。
お姉様はお寺さんに嫁がれたんですね。
たかさんも仏像に接する機会が増えましたね。
お寺好き、仏像好きの私にとっては願ってもない話相手です(^_-)-☆
慈愛に満ちた美しいお姿ですね。
如何に救済するか頬に当てた手には優しさがちらつきます。
この像がたとえレプリカであろうと
そんな事は問題ないですね。
優しさを感じつつ、心が休まれば
それは魂の宿った立派な観世音菩薩ではないでしょうか。
私の姉は寺に嫁ぎましたので
そんな関係で仏像を目にする機会は結構、有ります。
私自身は先祖信仰(父母)なのですが
やはり、手を合わせずにはいられない気持ちになりますね。