江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

安倍睛明 、「本朝神社考」に見える その3

2020-01-09 19:35:13 | 安倍晴明、役行者
安倍睛明 、「本朝神社考」に見える その3
                                                               2020.1
3、睛明が生死を司った話、並びに不動明王信仰の御利益。(仮題)

証空は、三井寺の智典に仕えていた。
智典は、病気になったが、治療しても治らなかった。
当時の膳部郎中の安倍睛明は、陰陽の術を極めて、生死を司る術も得ていた。
智典の弟子達は、睛明に助けを求めた。

睛明は、
「法師の病は、治すことができない。しかし秘密の術がある。ほかの者と、生死を取り替えることは出来る。その方術を試す事が出来る。」
始めは、智興の弟子達は、師の病を憂いて、師の命に代わりましょう、と言ってはいた。
しかし、睛明が、
「師を命を救うためには、他の者の命が必要である。」と言うと、皆後込みした。
しかし、証空は、一人だけ、
「仏法の為には、身を捨てるのは、仏道の常である。ましてや、師の死に替わるのは、私は恐れません。」
と言った。そこで、睛明に、師の命に代わるたいと、告げた。
証空の同僚は、皆、嘆き、彼の前に平伏した。
証空は、「私には、年老いた母がいます。
私が死んだら嘆き悲しむでしょうから、死ぬ前に、一度会いに行きたいものです。」と言った。

そして、母に会いに行き、ことの次第をのべた。
母は、「私は、年老いて、今日明日とも知れない身です。それなのに、あなたの方が私より先に死んでしまうのですね。
しかし、あなたが自分の命を師の命に代えようと思うのですから、死んでも地獄にはいかないでしょう。
あなたの思うようにしなさい。」と言った。

安倍睛明が、方術を行うと、智興の病は、たちどころに癒えた。
しかし、証空は、すぐに師の病を受けて、心身ともに悩み苦しんだ。

証空は、平生から不動尊の画像を身につけていた。
この日、夢うつつに、不動明王を見た。
不動明王は、
「汝は、師に代わって死のうとしている。私は、明王の像を持っている信心深い汝に換わって、病を引き受けよう。」と言った。
証空は、喜んで、像を拝んだ。
その像をよく見ると、なにか病があるようであった。
また、眼には涙があるようであった。

それから、すぐに証空の病は癒えた。

京の都では、不思議なこととして喧伝された。

さて、証空の持っていた不動明王の画像には、真新しい涙の痕があった。
後々にも、その涙の痕は消えなかった。
この画像は、世には、「泣き不動尊」と称されている。
そのお寺では、秘宝とされて、今にも伝えられている。

以上
「本朝神社考(林羅山)」広文庫より



安倍睛明 、「本朝神社考」に見える その2

2020-01-09 19:32:48 | 安倍晴明、役行者
安倍睛明 、「本朝神社考」に見える その2
                               2020.1
2、睛明達が、瓜の中の蛇を透視した
  (これは、仮の題です。)

術家が、藤原道長に申し上げた故事は、この様であった。
その日、藤原家の内に怪異があった。
その時、道長は、門を閉じて、来客を断っていた。

しかし、夕暮れて、門を叩くものがあった。
問いただすと、「和州(わしゅう、大和の国、今の奈良県)の瓜を運んで来た者です。」との答えであった。
門を開いて、これを受け取り、納めた。

その時、大史の安倍睛明(あべのせいめい)、大医の重雅(しげまさ)、僧の勧修(かんしゅう)が、その場にいた。
道長は、安倍大史の方に顔を向けて尋ねた。
「我が家では、今 御祓いをしている、この瓜を食べても良いのか?」と。
晴明が答えた。
「瓜の中には、毒があります。食べては、いけません。」
道長は、「瓜に、毒があるはずが無いだろう。」と言った。

睛明が、呪文を唱えると、忽ち一つの瓜がガタガタと動き出した。
一座の者は、驚き怪しんだ。
重雅は、袖から一つの針を取り出して、瓜を刺した。すると動きが止まった。
その瓜を割って見ると、中には毒蛇がいて、針がその眼に刺さっていた。
術家の言葉というのは、このように恐るべきものであった。
都の町中では、この三人の術が勝れているとの評判になった。

編者注:三人の内の、睛明は陰陽術、医師の重雅は医術、坊さんの勧修は法術の使い手、ということでしょう。




安倍睛明 、「本朝神社考」に見える その1

2020-01-09 19:24:00 | 安倍晴明、役行者
安倍睛明 、「本朝神社考」に見える その1
                              2020.1
「本朝神社考」には、阿倍睛明の故事が述べられています。3つの故事から、成っています。
「本朝神社考」は、儒学者の林羅山(1583~1657年)の著書です。

以下、本文

1、睛明が花山天皇の退位を予知した
 (これは、仮の題です。)

安部睛明は、安倍仲麻呂の後裔である。加茂保憲に就いて天文を学び、その奥義を窮めた。歴算推歩之術に至った。並ぶものが無かった。

花山院(花山天皇の退位後の呼称。968年~1008年)の、寛和二年、六月二十二日の夜、帝は、式部丞藤原道兼、沙門厳久と、ひそかに宮殿を出た。
路の途中で、晴明の宅の傍らを過ぎた。
睛明は、暑さを避けるため、庭にいた。

睛明は、天を仰ぎ見て、驚いて言った。
「天象は、異を呈している。天子が、位を退こうとしている。何と怪なることであろうか。」
帝は、これを聞いて笑った。

そして、華山寺に入り、薙髪(ていはつ)して、出家し、退位した。
睛明は、宮に入って、事を奏上しようとしたが、帝は、もう既に出家して、宮にはいなかった。

編者注:これは、阿倍睛明が、花山天皇の退位を天の様子から当てたことを、示している。




役の行者(えんのぎょうじゃ) 「傍廂(かたびさし)」

2020-01-02 18:45:50 | 安倍晴明、役行者
役の行者(えんのぎょうじゃ)
                       2020.1.2
役小角は、大和の葛城山に岩橋をかけようとした。
それで、多くの鬼神を使役したが、そのうちに一言主の神(ひとことぬしのかみ)がいた。
この神様は、姿形が醜かったのを恥じて、昼はかくれて、夜に仕事をした。
そのため、役小角(えんのおづぬ)は怒って、一言主を縛り上げた、との説は、全くのウソである。
これは、役の行者を卑しめ貶めた、妖言である。

そうであるのに、「岩はしの夜の契も絶えぬべし」などとか、歌にもよみ、
「かつらぎの神こそさかしうおきたれ」と、物語りにも書かれたのは、俗説に基づいたものである。

畏れ多くも、一言主神は、雄略天皇が葛城山に狩をした時に、その一言主神が姿を現して、天皇と対面したのは、歴史書にはっきりと記されている。
怒り狂う猪を踏み殺した強勇大力の天皇も、一言主の神を、畏れ敬まって、捧げものをしたこともあった。

小角のような者が、一言主の神には、力が及ばない。

役小角(えんのおづぬ)は、葛城上郡茅原村(かつらぎかみこおりかやはらむら)の土着民の子であった。

狐を使い、妖術を以て、人をたぶらかしたので、
韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が、訴えた。そして、天武天皇の三年五月、伊豆国大島へ流罪させられた。


役の行者(えんのぎょうじゃ)が畜生道に落ちる

役の行者(えんのぎょうじゃ)が、伊豆大島に流刑された後に、そこで死んだ。、
それから40年後に、道昭(どうしょう)と言う僧が、唐に留学した。
すると、500匹の虎が出てきて、僧道昭を礼拝した。
その内の一頭が、「私は、日本国の役小角である。・・・」と、「日本霊異記(にほんりょういき)」にある。
後生の書では、「元享釈書」にも、記載されている。

小角は、もと葛城上郡茅原村(かつらぎかみこおりかやはらむら)の土着民の子であって、狐使いである。
畏れ多くも、一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)を縛り上げたなどと言うのは、尊卑・強弱をよく解っていない愚かな者達の、ばかげた話である。

以上の二項は、
「傍廂(かたびさし)」(斎藤 彦麿 1768-1854年)より。

  
編者注:役小角(えんのおづぬ:634-701年?)又は、役の行者は、日本における、最も古い時代の仙人であり、修験道の開祖とされている。
なお、役小角の役(えん)は、姓である。役という氏族の出身である。
また、小角(おづぬ)というのは、生れたと時から、頭に小さな角状のものがあったためである。
小角(おづぬ)は、いつも、角を隠す帽子をかぶっていたそうである。
古書には、あまり、評判が良くないが、これは、彼の評判を妬んだ韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の讒言によってである。
讒言によって、他人をおとしめるのは、国史には、珍しいが、現今の東アジア情勢と照らしあわせると、妙に符合するのは、哀しい事である。
さて、役小角は飛鳥時代の人ですが、「傍廂(かたびさし)」は、江戸時代の書ですので、取り上げました。




妖怪百物語に見られる安倍晴明

2019-12-19 00:39:14 | 安倍晴明、役行者
妖怪百物語に見られる安倍晴明
                         2019.12
「妖怪百物語 開巻消魂(カイカンショウコン:まきを開けばたまげる)」より

銅精

式部卿宮(しきぶのきょうのみや)が、東三条殿(今の山城国愛宕郡岡崎村の辺りである)に住んでいた頃のことである。
ある夏の夕暮れ、非常に暑かったので、庭に水を打ったりして、少し涼しくした。
やがて宮様も、庭に出て来た。

しばらくすると、月は如意山の頂に昇り、松風も静かに吹いて来、池の水は、波を生じて、涼しい風が、衣に吹きかけて来て、とても、風情があった。
宮様も、興を催し、夜の更けるのも忘れ、遊んでいたが、法勝寺(ほうしょうじ)の鐘が三更を告げる頃、ふと築山の方を眺めると、身長が三尺ばかりの怪しげな男が、松の木の間に出入りしているのが見えた。

それから、宮様は、宿直の武士を呼び出し、「あのものを捕らえよ」、と命令した
。宿直の武士は、謹んで命令を受けた。

すぐに、築山に至って、かのものを捕らえようとしたが、
影も形もなかってので、戻って、そのむねを奏上いた。

しかし、その後の夜更け毎に、かの怪物が現れた。

そのことを、報告すると、宮女たちは、怖れおののき、夜になると、決して、御殿の外に出る者がなかった。
宿直の武士も、捕らえようがなく、宮様も、このことを深く怪しんだ。

ある日、陰陽師の安倍晴明を召しだし、この事を占なわせた。
すると、睛明は、このように言った。
「これは、銅精です。辰巳の方角に永いこと、埋められていたものです。」と奏上した。
急いで、その示された場所を掘らさせると、大変古い銅(あかがね)の風鐸(ふうたく)というものが、出て来た。


編者(これは、妖怪百物語の編者である大木月峯)曰く、
世の中には、このようなことが大変多い。
かの三井氏(三井財閥の)の祖先は、伊勢の国の松坂において、金精を見て、井戸の中の黄金を得た。このように、これらは皆、金の気が土中にこもったもので、時として外にあふれ出て、それが他の物に映って、象(かたち)が現れたものである。
なお、海上に蜃気楼を生じたのと、同じ現象である。これは、物理的なことを知らない者が、奇とし怪とすることで、遂には心経の病を起し、物に狂うのは、大変浅はかなことではないのか?
宮様が、陰陽師の安倍晴明(あべのせいめい)を召して、原因を究明させたのは、大変賢い行為である、と言うことが出来るであろう。


編者注:土中から銅(あかがね)の風鐸(ふうたく)が出てきたとある。これは、古代の遺物である銅鐸(どうたく)の小さいものか、その類であろう。江戸時代の随筆などには、古墳からの遺物について、不思議な物(奇物、珍品)として言及したものが、しばしば書かれている。
この「 妖怪百物語」 大木月峯 (鹿之助) 著、 川勝鴻宝堂、 明20年8月出版、は、内容的には、江戸時代のものであるので、この項を紹介しました。