・長野県北部の森に、「アファン」という名前をつけたのか。実は、ケルト人が使うウェールズ語の言葉だ。その意味は「風の通る谷間」。私の生まれた故郷の南ウェールズにあるアファン・アルゴード森林公園にちなんだ名前だ。
・私がはじめて日本の地を踏んだのは、1962年10月。目的は格闘技(とくに空手)を学ぶことだった。
・私たちは海抜およそ千メートルまで登った。するとそこにはまったくの別世界が広がっていた。手つかずの古代のブナの木の林が、私の祖国イギリスからはほとんど消えてしまったことに対する悔しさだった。私の祖国ウェールズでは、侵略者デアノルマン系イギリス人が古代のローマ街道の両側に茂る森を切りひらいた。反乱軍が大弓でこうげきをしかけるのを防ぐためだった。
そのときから、私は心を決めた。格闘技だけでなく、日本人と森の関係を研究しよう。これほどの技術先進国で、高度に工業化され、しかも人口はイギリスのほぼ二倍もある国に、このようなすばらしい自然が存在している。日本の森はいかにして、野生のクマの生息地であり続けているのか。イギリスのクマは900年前に絶命したというのに。その時私はちょうど22歳だった。そして今、私は72歳になる。
・日本では、森は、薬草や水、燃料、キノコ栽培用の材木、多くの種類の山菜やキノコを採る場所として利用されていた。それに森は、子どもの最高の遊び場だ。日本はなぜ、この貴重な資源を維持するために資金と努力をつぎ込まないのか。それは、私には信じられないほど、おろかなことに思えた。
・森の伐採を命じた責任者と地元の政治家や建設業者の間には、非常に疑わしい関係があった。それは私が知らなかった、見たことのない日本だった。
私は絶望した。酒を大量に飲み始め、落ち込み、うつ病の発作のなかで、ショットガンを自分に向け、すべてを終わらせることを考えた。日本は魂を売りわたし、みずから環境を破壊しているようだった。私はそんなものを見たくなかった。
・新居を建てる予定の敷地の隣にある森を、開発業者が買い取ろうとしているという話を耳にした。森を開発業者にわたすわけにはいかない。そう思った私は、家の建設計画をひとまず棚上げにして、その資金で森を買い取った。私の心は、それこそが正しい道であることを知っていた。それ以来、少しでも余分なお金ができるだびに、少しずつ森を買い取り、手入れをして、木を植え、育てた。私は、アファン森林公園のように、不毛のボタ山からスタートする必要はなかった。黒姫には、古代からの森があったのだから。ただこの森は、人が入れないほどつるや藪が生い茂り、地元では「幽霊森」として知られるようになっていた。私はこの森の再生に取り組み、「アファン」と改名した。
・「どろ亀先生」は、日本でいちばん有名な森林研究科だった。先生とは、京都で開かれた「グリーンルネッサンス・シンポジウム」で初め出会った。本名は高橋延清という、1914年ごろに岩手県沢内村に生まれて。先生の森林の管理方法に関する研究と哲学は、世界的に称賛された。第一かい朝日森林文化賞と日本学士院エジンバラ公賞を受賞している。
先生は私にとって、実の父のような存在になった。余力で森について学ぼうとしていた私にとって、先生は森のいろいろな知識を教えてくれる偉大な先生だった。
・どろ亀先生の森林管理法の原則
1) 未熟な森よりも、成熟した森のほうが好ましい。
2) 適切な密度の森は、樹木がまばらに生えている森より好ましい。
3) 種々雑多な樹木がある森は、一種類の樹木しかない森より好ましい。
4) 様々な高さの樹木と植物が共存している「複層林」は、高さが同じ木ばかりの「単層林」より好ましい(複層林は成長する可能性が高いので、森戸して理想的なのだ)。
・「いちばん大切なことは、赤鬼くんと松木さんが意見を言い合って、何をすべきか考え続けることだ」(どろ亀先生)
・80年代のはじめ、私は繰り返しうつになっていた。その大きな理由のひとつは、野生の生息地を失ったクマの運命に、絶望したことだった。
・小グマは、母グマから何を食べるかを学ぶ。母グマが「伝統的な」野生のクマの食物を食べていれば、小グマもそうする。母グマが人間の食物を食べれば、子グマもそうなる。
日本のクマ牧場で働いていた青年から、かわいそうな話を聞いたことがある。クマ牧場は捕らえたクマを殺さずに、生かしたまま見世物にする施設だ。この青年は、孤児になった子グマの担当になり、大きくなるまでエサをやったり、いっしょに遊んだりした。青年は、休憩時間にタバコを吸っていた。子グマはいつも、青年の顔をなめていたという。大きくなったその子グマは、見世物用の囲いに入れられた。ところがすぐに、ニコチン中毒で死んでしまったのだ。考えの足りない見物人が、囲いのなかに落としたタバコの吸殻を、そのクマが食べたせいだった。子供時代に、養い親である青年の口の回りをなめていたクマは、有毒なニコチンを食物だと思いこんでいたのだ。青年は、それから二度とタバコを吸わなかった。
・ミツバチの巣を襲ったスズメバチは、蜂蜜はその場ですぐに食べてしまうが、ミツバチの幼虫は自分の巣に持ち帰る。実はスズメバチの成虫は、個体のタンパク質を消化することができない。そこで昆虫、ときにはカエルやヘビの肉を噛み砕いて、子供である幼虫に与える。幼虫は肉のタンパク質を消化してからだから透明な液体とにじみださせる。成虫は、アミノ酸が豊富な液体をなめてたんぱく質を吸収する。
・アファンの森では、エピネが育っていたからだ。ところがある晩、盗人がトラックでやってきて、手当たりしだいにエピネを盗んでいった。私の見積もりでは、花の売値は総額400万円にもなるだろう。私の怒りはとどまるところがなかった。
・シジュウカラやヤマガラ、ゴジュウカラのような鳥は、太い老木のうろ(空洞になっている部分)に巣を作る、こうした小鳥は、森の健康のために欠かせない。ちっちゃなシジュウカラ一羽が、一年間にとる虫の数は、12.5万匹。
そういうわけで、私たちは森のあらゆる場所に、小鳥のための巣箱を置くことにした。
・公園管理官の数は悲しいほど少ない。報告書を書いた時点で、日本中にいるレンジャーの数は130人で、大部分の国立公園にはレンジャーが一人いるだけだった。さらに、レンジャーには、フィールド・トレーニング専門家として知識は要求されていなかった。公務員の試験に受かるだけでレンジャーになれたのだ。・・・。私の報告書はしかるべき人々の目にとまり、最終的にレンジャー学校が設立される運びとなった。・・・。16年が過ぎた今、私は日本だけでなく、世界中で私たちの学校の卒業生に会い、連絡を取る。そのうちの二人はアファンの森財団で働いている。
・2002年8月25日、私たちは森で特別な式典を催した。リチャード・ワグスタッフと私は、アファンの森とアファン・アルゴード森林公園を姉妹公園にする合意書に著名した。・・・。私は、自分が生まれたウェールズと、現在の故郷である日本の架け橋になりたかった。森と森を愛する人々のおかげで、ついに橋が築かれた。
・チャールズ皇太子が(アファンの森に)やってきた!(2008年10月30日)
・両陛下にお会いできた喜び
私は両陛下と野生動物や森林、樹木、日本とウェールズについて話した。
感想;
森も手入れが必要なことを知りました。
森は様々な木々が生い茂っているのが様々な植物や動物を産み出していることを知りました。
人も自然の中に生きていることを忘れてはいけないと思いました。
インディアンの言葉に
「環境は子孫からの預かりもの」
があります。
自然を壊しているとそのつけは必ずやってきて、そしてそれの負担を子孫が負うのでしょう。
今できることを少しでも行い、子孫の負担を出来るだけ減らすことが大切なのでしょう。
ウェールズは英語と違う言葉だと知りませんでした。
米国の先生が授業前に少しだけウェールズ語の説明をされていました。
・私がはじめて日本の地を踏んだのは、1962年10月。目的は格闘技(とくに空手)を学ぶことだった。
・私たちは海抜およそ千メートルまで登った。するとそこにはまったくの別世界が広がっていた。手つかずの古代のブナの木の林が、私の祖国イギリスからはほとんど消えてしまったことに対する悔しさだった。私の祖国ウェールズでは、侵略者デアノルマン系イギリス人が古代のローマ街道の両側に茂る森を切りひらいた。反乱軍が大弓でこうげきをしかけるのを防ぐためだった。
そのときから、私は心を決めた。格闘技だけでなく、日本人と森の関係を研究しよう。これほどの技術先進国で、高度に工業化され、しかも人口はイギリスのほぼ二倍もある国に、このようなすばらしい自然が存在している。日本の森はいかにして、野生のクマの生息地であり続けているのか。イギリスのクマは900年前に絶命したというのに。その時私はちょうど22歳だった。そして今、私は72歳になる。
・日本では、森は、薬草や水、燃料、キノコ栽培用の材木、多くの種類の山菜やキノコを採る場所として利用されていた。それに森は、子どもの最高の遊び場だ。日本はなぜ、この貴重な資源を維持するために資金と努力をつぎ込まないのか。それは、私には信じられないほど、おろかなことに思えた。
・森の伐採を命じた責任者と地元の政治家や建設業者の間には、非常に疑わしい関係があった。それは私が知らなかった、見たことのない日本だった。
私は絶望した。酒を大量に飲み始め、落ち込み、うつ病の発作のなかで、ショットガンを自分に向け、すべてを終わらせることを考えた。日本は魂を売りわたし、みずから環境を破壊しているようだった。私はそんなものを見たくなかった。
・新居を建てる予定の敷地の隣にある森を、開発業者が買い取ろうとしているという話を耳にした。森を開発業者にわたすわけにはいかない。そう思った私は、家の建設計画をひとまず棚上げにして、その資金で森を買い取った。私の心は、それこそが正しい道であることを知っていた。それ以来、少しでも余分なお金ができるだびに、少しずつ森を買い取り、手入れをして、木を植え、育てた。私は、アファン森林公園のように、不毛のボタ山からスタートする必要はなかった。黒姫には、古代からの森があったのだから。ただこの森は、人が入れないほどつるや藪が生い茂り、地元では「幽霊森」として知られるようになっていた。私はこの森の再生に取り組み、「アファン」と改名した。
・「どろ亀先生」は、日本でいちばん有名な森林研究科だった。先生とは、京都で開かれた「グリーンルネッサンス・シンポジウム」で初め出会った。本名は高橋延清という、1914年ごろに岩手県沢内村に生まれて。先生の森林の管理方法に関する研究と哲学は、世界的に称賛された。第一かい朝日森林文化賞と日本学士院エジンバラ公賞を受賞している。
先生は私にとって、実の父のような存在になった。余力で森について学ぼうとしていた私にとって、先生は森のいろいろな知識を教えてくれる偉大な先生だった。
・どろ亀先生の森林管理法の原則
1) 未熟な森よりも、成熟した森のほうが好ましい。
2) 適切な密度の森は、樹木がまばらに生えている森より好ましい。
3) 種々雑多な樹木がある森は、一種類の樹木しかない森より好ましい。
4) 様々な高さの樹木と植物が共存している「複層林」は、高さが同じ木ばかりの「単層林」より好ましい(複層林は成長する可能性が高いので、森戸して理想的なのだ)。
・「いちばん大切なことは、赤鬼くんと松木さんが意見を言い合って、何をすべきか考え続けることだ」(どろ亀先生)
・80年代のはじめ、私は繰り返しうつになっていた。その大きな理由のひとつは、野生の生息地を失ったクマの運命に、絶望したことだった。
・小グマは、母グマから何を食べるかを学ぶ。母グマが「伝統的な」野生のクマの食物を食べていれば、小グマもそうする。母グマが人間の食物を食べれば、子グマもそうなる。
日本のクマ牧場で働いていた青年から、かわいそうな話を聞いたことがある。クマ牧場は捕らえたクマを殺さずに、生かしたまま見世物にする施設だ。この青年は、孤児になった子グマの担当になり、大きくなるまでエサをやったり、いっしょに遊んだりした。青年は、休憩時間にタバコを吸っていた。子グマはいつも、青年の顔をなめていたという。大きくなったその子グマは、見世物用の囲いに入れられた。ところがすぐに、ニコチン中毒で死んでしまったのだ。考えの足りない見物人が、囲いのなかに落としたタバコの吸殻を、そのクマが食べたせいだった。子供時代に、養い親である青年の口の回りをなめていたクマは、有毒なニコチンを食物だと思いこんでいたのだ。青年は、それから二度とタバコを吸わなかった。
・ミツバチの巣を襲ったスズメバチは、蜂蜜はその場ですぐに食べてしまうが、ミツバチの幼虫は自分の巣に持ち帰る。実はスズメバチの成虫は、個体のタンパク質を消化することができない。そこで昆虫、ときにはカエルやヘビの肉を噛み砕いて、子供である幼虫に与える。幼虫は肉のタンパク質を消化してからだから透明な液体とにじみださせる。成虫は、アミノ酸が豊富な液体をなめてたんぱく質を吸収する。
・アファンの森では、エピネが育っていたからだ。ところがある晩、盗人がトラックでやってきて、手当たりしだいにエピネを盗んでいった。私の見積もりでは、花の売値は総額400万円にもなるだろう。私の怒りはとどまるところがなかった。
・シジュウカラやヤマガラ、ゴジュウカラのような鳥は、太い老木のうろ(空洞になっている部分)に巣を作る、こうした小鳥は、森の健康のために欠かせない。ちっちゃなシジュウカラ一羽が、一年間にとる虫の数は、12.5万匹。
そういうわけで、私たちは森のあらゆる場所に、小鳥のための巣箱を置くことにした。
・公園管理官の数は悲しいほど少ない。報告書を書いた時点で、日本中にいるレンジャーの数は130人で、大部分の国立公園にはレンジャーが一人いるだけだった。さらに、レンジャーには、フィールド・トレーニング専門家として知識は要求されていなかった。公務員の試験に受かるだけでレンジャーになれたのだ。・・・。私の報告書はしかるべき人々の目にとまり、最終的にレンジャー学校が設立される運びとなった。・・・。16年が過ぎた今、私は日本だけでなく、世界中で私たちの学校の卒業生に会い、連絡を取る。そのうちの二人はアファンの森財団で働いている。
・2002年8月25日、私たちは森で特別な式典を催した。リチャード・ワグスタッフと私は、アファンの森とアファン・アルゴード森林公園を姉妹公園にする合意書に著名した。・・・。私は、自分が生まれたウェールズと、現在の故郷である日本の架け橋になりたかった。森と森を愛する人々のおかげで、ついに橋が築かれた。
・チャールズ皇太子が(アファンの森に)やってきた!(2008年10月30日)
・両陛下にお会いできた喜び
私は両陛下と野生動物や森林、樹木、日本とウェールズについて話した。
感想;
森も手入れが必要なことを知りました。
森は様々な木々が生い茂っているのが様々な植物や動物を産み出していることを知りました。
人も自然の中に生きていることを忘れてはいけないと思いました。
インディアンの言葉に
「環境は子孫からの預かりもの」
があります。
自然を壊しているとそのつけは必ずやってきて、そしてそれの負担を子孫が負うのでしょう。
今できることを少しでも行い、子孫の負担を出来るだけ減らすことが大切なのでしょう。
ウェールズは英語と違う言葉だと知りませんでした。
米国の先生が授業前に少しだけウェールズ語の説明をされていました。
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